第十二話 夕食 1
階段を降りて、一階へ。
廊下の右手側は行き止まり。左手側には通路が伸びている。そちらを進むと程なくして左側に曲がる角があって、その先には直進する廊下と、更に左手側に曲がる分かれ道になっていた。
曲がり角の向こうからは、炊事の良い匂いが漂ってくる。
風呂場の直ぐ下は厨房になっているという話だったし、ジャンヌさんが夕食の準備をしていると考えるのが自然だろう。
……ひとのお家を勝手に彷徨くのは憚られるけれど。
お世話になるし、なっているのだから、ここは顔を出しておくべき。そしてもし私にできることがあれば率先してお手伝いしよう。
―――よし!
意気込んで、私は分かれ道を曲がる。
予想通り厨房があった。出入り口として、四角く、大きく壁がくり抜かれている。
覗き込むと、やはりジャンヌさんの姿があった。
厨房はかなり広い作りになっていて、巨大な窯の他にも、冷蔵庫であると思しい金属製の箱や、多数の焜炉や調理台が並んでいる。
二人と一匹暮らしにしては立派過ぎる台所だ。
確か従業員やお手伝いさんがいるという話だったから、その人達の分の食事もここで用意しているのかもしれない。
「―――あっ、ハヅキさん! もう少しお待ちくださいね、今お料理を温めているところですから。……すみません。今は残り物しかお出しできるものがなくて」
「そんな、謝らないでください! ロビンにもジャンヌさんにも本当よくして貰って、私、とっても嬉しいです! お風呂、ありがとうございました! 気持ち良かったです!」
恐縮してしまい、勢いよく頭を下げる。
……お風呂というワードに連動して一瞬、どこぞのアホがアホ面で倒れる様が脳裏に浮かんだけれど、全力で記憶から削除した。
私もひと様の家の柄杓を投げたりしちゃったし。
流石にあれは行儀が悪かった。
正拳突きとかにしとけばよかった。もちろん、顔面に。
迷宮で助けて貰って、その上色々と世話を焼いてくれていることには感謝しているけれど。それとこれとは別の話だ。
お風呂タイムに乱入する不逞の輩あらば、その頭蓋を砕くべし。それがモノノフのナライである。
「ふふ、ハヅキさんはとても礼儀正しくて誠実な方なんですね」
「いえいえ! 私なんて全然まだまだで……―――なにかお手伝いできることってありますか?」
「お気遣いありがとうございます。でもお客様を働かせる訳にはいきませんから。よければお爺様の話し相手になってあげてください」
手にしたお玉で鍋を掻き混ぜながら、ジャンヌさんが言う。
彼女の言葉に大人しく頷いて、私は厨房から去ることにする。だけどその前に、それとなく鍋の中を確認。
具沢山なクリームシチューが煮えている。
ミルクやバター、それから香辛料の香ばしい匂いが食欲を刺激する。とても美味しそうだ。
* * *
「―――やあ。お寛ぎ頂けたかな?」
「……ええ、まあ」
広い居間。
暖炉の前に設置されたソファに座ったロビンが、右手に持ったグラスを軽く掲げることで迎える。私は半眼で彼を見下ろした。
洒脱なデザインの布が掛けられたテーブルには、高価そうなワインボトルが置かれている。その隣には陶器のお皿があって、薄く切られたチーズが並んでいた。
ロビンは手の中のワイングラスを優雅に揺らして、香りを愉しんでいる。見た目は完全に子供だというのに、堂々とした振る舞いはそれこそ御伽噺のお貴族様みたいだ。
「……もしかして、さっきの奇行を全力で無かったことにしようとしてる?」
「はっはっは、なんのことかな。ささ、そんなところに立っていないで、君も座り給えよ。一緒にワインでもどうだい?」
カラカラと笑って、ロビンが対面の席を勧めてくる。
……釈然としない気持ちはするけれど。とりあえず、座ることにした。
「……迷宮でも言ったけど。私、未成年だからお酒は飲めないわよ」
「それは残念。でも、ここはドリームランドだからね。飲んでみたくなったら遠慮せずに試してみるといい。家の蔵には良いものが揃っているし、市場へ繰り出すのも楽しいよ。きっと素敵な出会いがあるさ」
悪魔の囁きめいて、妙に退廃的な響きに喉を鳴らしてロビンが言う。
アルコールのせいだろうか、ロビンの頬が赤みを帯びている。視線もどこかとろんとしていて、しかし瞳に宿る金色の星の輝きは強いままだ。
ロビンはスカーフタイを緩め、シャツの襟元を崩す。未発達な細い首筋と、鎖骨の蠱惑的に美しいラインが露わになった。
なんとなくえも言われぬ気まずさを感じて、私は無意味に慌てて口を開く。
でも、なにを言えばいいのか―――
そうだ!
「市場――そう、市場。ロビン、この世界の流通網とか技術レベルってどうなってるの? 建物とか住んでる人達の服装は中世とか近世風だけど、窓はガラスだし、下水なんかもしっかり整備されてるみたいだし……なんだか、ちぐはぐに感じるのよね。うまく言えないけど」
もちろん、夢と魔法のファンタジー世界だから――と言われてしまえばそれまでだ。
それならそれで納得できるのだけど、どのようにして今の文明が成り立っているのか、とか。色々と興味は尽きない。
「うん? まあ、そうだろうね。単純に現実世界の歴史と比較すると、歪に見えるだろうね、この世界は」
グラスを呷り、残っていた中身を干す。
ロビンは机上のボトルを手に取って、空になったワイングラスに濃い赤紫色の液体を注いだ。
「迷宮でも言ったけれど、ドリームランドは現実世界と地続きになっているんだ。つまり行き来する方法があるんだよ。だから一部の商人達は、向こう側の知識や品物を仕入れて、こっち側で販売したりしてるのさ」
「なるほど……じゃあジャガイモとか紅茶とか、コーヒーなんかもあるの?」
「もちろんあるとも!」
「なら、粗挽き肉を捏ねて鉄板で焼いた料理の名前は……?」
「当然、ハンバーグステーキさ!」
ワインを舐めて唇を湿らせてから、ロビンは続ける。
「と――まあ、そんな訳で。君や僕みたいな異世界人が、現実世界の物や文化をこの世界に持ち込むことはままある。だけどそういった、他所の革新的技術を誰もが受け入れる訳じゃないんだ。古き良きドリームランドの文化を重んじる保守的な人達とか、それに現実世界の機械文明や大量生産・大量消費文明をやたらと目の敵にしてる人達とか。他にも色々あって、ドリームランドは君が言うところの『ちぐはぐな状態』になっているのさ」
「それは……難しい問題ね……」
神妙な顔で頷いてみたりする。
こちらの方が便利だから、優れているから、と自分達の文化や文明を多文化圏の人達に押し付けたことで、酷い争いが起きた事例は枚挙に暇がない。それは、ドリームランドでも同じということなのだろう。
それに現実世界の文明を入れたくない、という気持ちも分かる。
ドリームランドは夢の国。だから、その名に相応しい場所であって欲しい――と願う心情には、素直に共感できた。
まあ、そんな風に話していると。
待ちに待った夕食がやって来た。
「お待たせしました、お爺様、ハヅキさん」
配膳用ワゴンを押して、ジャンヌさんが現れた。
この館は居間とダイニングが地続きになっている。ダイニング側には十人掛けの大きな食卓があって、ジャンヌさんはてきぱきとワゴンの食器を配膳した。
二人分の食事が、清潔な白い布の掛けられた机上に並ぶ。
木製の広く浅い椀が四つずつ。中にはそれぞれ、クリームシチューとバゲット、骨付き肉や厚切りのステーキ肉、そしてポテトサラダが盛られていた。
料理からは温かな湯気が立ち上り、それと一緒に芳しい香りが辺りに漂う。
ごくり、と溢れそうになった唾液を飲み込む。
食事を目の前にした途端、胃腸がぐぅ、と喧しく蠕動した。
死んでいたのが蘇ったかのように、止まっていた時間が動き出したかのように。急激に空腹を意識する。今は恥じらうよりも、食欲を満たすことしか考えられなかった。
「ふふ、どうぞハヅキさん。貴方の事情はお爺様から聞いています。たくさんありますから、遠慮せずに召し上がってくださいね」
「ほら、君も早くおいで。たんとお食べなさい」
水差しでグラスに水を注ぎながら言い、ジャンヌさんがこちらに優しく微笑み掛けてくれる。
先に席に着いたロビンも、好好爺めいた笑みで手招きした。
なんてあったかいのだろう。
ロビンもジャンヌさんも後光が差して見える。
感極まってしまいそうなのをどうにか堪えて、私は食卓に着いた。