第二十一章 ②イレーズの過去(父と子)
小次郎屋敷・別邸。
幼少期になった。
名も無き坊や『ボン』。
相変わらず。
別邸に軟禁状態だ。
世話係は寡婦女中ひとり。
小次郎屋敷に長年仕えている『ハル婆』だ。
とりあえず。
衣食住に不足はない。
成長しても生活は変わらない。
日々に時間を持て余す……、かと思いきや。
意外にも。
退屈しのぎはできた。
死別した母親・ルナ。
無類の本好きだったらしい。
別邸には立派な書斎が設えてあった。
そこに膨大な書物が配架されていた。
俺は暇にかまけて文献書物を読み漁った。
どうやら俺は特殊頭脳の持ち主らしい。
物心つく前に。
読み書き、計算等、完璧に身につけた。
さらには。
人心が透けて見えた。
恐らく。
生まれながらに不思議な能力が具わっていたのだろう。
世相を読み解く。
未來を予見する。
予見して絶望する。
……この時代はまだこの程度なのか?
遅れている…………。
学童期になった。
無戸籍ゆえ学校に通うことはない。
相も変わらず。
別邸に籠っている。
暇つぶしに読書する。
時間つぶしに金融関連のオペレーションをする。
様々な分野の論文を書いて遊んだ。
ルナの命日の夜。
下弦の月が庭池を照らしていた。
数年ぶりに。
泥酔した小次郎が別邸の門をくぐった。
酒の勢いに任せて。
俺の居住空間に上がり込んできた。
それはルナの死没後、初めてのことだった。
父子は対面した。
小次郎は驚嘆する。
声を震わせ指を差す。
「おっ、お前は……?
坊や……、なのか?」
成長した息子。
その容貌は妾と瓜二つだった。
溺愛していたルナの再来か?
追慕してわなないた。
「おおっ!
お前は母親によく似ているっ!
ボンッ!
ボンや、ボンやっ!
嗚呼ッ! 儂のボンっ…………」
その日を境に。
父親は頻繁に別邸を訪れた。
ドサリ……、
豪奢な椅子に腰かけ肘をつく。
ジィッ……、
息子の顔を飽くることなく凝視する。
それが日常的光景になった。
「ルナッ、ルナッ!
ルナやっ!
嗚呼っ、儂の……、
儂の…………」
時どき。
半狂乱で妾の名を叫び呼ぶ。
しかし当然、ルナは居ない。
小次郎は落胆する。
面影残す息子の頬を撫でる。
それから愛おし気に抱きしめた。
或る晩。
父親が不意に訊ねた。
「ボンよ。
お前の母親は読書人だった。
お前も本が好きか?
ここの書物は難解なものが多い。
少しは読んでみたか?」
「はい。すべて」
「……? すべて……?」
小次郎は驚愕して立ち上がる。
書斎の机上に乱雑に置かれた紙片。
手に取って目を通す。
ボンが書き留めていた論文。
片っ端から読み漁る。
そうして思わず息を呑む。
紙片には。
この国の未来予想図が描かれていた。
金融動向が端的に記されていた。
小次郎は歓喜に震える。
……金の匂いがプンプンする。
莫大なる富をもたらす見込みがある。
どうやら儂は運がいい。
いつの間に。
『金のなる木』を手中に収めていた。
まだ十歳にも満たない息子。
類稀なる才覚があるようだ。
ボンの利用価値、計り知れない……。
あろうことか。
ボンの頭脳を利用する。
天才的頭脳の切り売りを始めた。
父親に取り成された有力者が訪れる。
別邸に権力者が集う。
そこには曰く付きの連中も居た。
社会の表裏を問わなかった。
奴らは俺に問いかける。
「利益を潤沢に出す方法を教えてくれ」
「戦勝方法を指導してくれ」
「人心掌握術を指南しろ」
要求は尽きることがない。
ひたすらエスカレートする。
……さらなる贅を極めたい。
絶世の美女を虜にしてはべらせたい。
人々に崇められたい。
特別扱いされたい。
讃えられたい。
褒めそやされたい……!
……欲しい、欲しい、欲しい……!
足りない足りない……!
もっともっと!
もっともっともっと……!
下心丸出しだ。
奴らは搾取を企んでいる。
奪うことだけを考えている。
称賛と羨望を欲している。
自利を満たそうと躍起になっている。
そこにあるのは『不埒な欲望』だけだった。
幼い頃から。
『天眼通』(透視能力)が備わっていた。
奴らの醜悪な本性……。
嫌でも透けて見えた。
奴らは俺の顔色を窺う。
あからさまに媚びる。
賞賛して褒めそやす。
厭らしい目つきで擦り寄ってくる。
薄気味悪いにやけ顔、虫唾が走った。
だけど俺は……。
父親の要望に従っていた。
そのほうが楽だった。
逆らうのが面倒だった。
俺の心は蝕まれていた。
それでもまだ。
わずかに良心は残っていた。
罪悪感に苛まれた。
……たとえ本意でなくとも。
悪党に知恵を与えてしまっている。
間接的とはいえども。
悪事に手を染めてしまっている……。
この頭脳は害悪だ。
俺はこの世に存在すべきではなかった。
そもそも名すら無いのだ。
此岸とは地獄にほかならない。
この欲塗れの汚物世界、うんざりだ。
今すぐ消え去りたい!
……決めた。
明日、死のう…………。
肌寒い初冬の深夜。
ベッドの中で自死を決意した。
どうやって死のうかな?
想像する。
悲しいくらいワクワクした。
……ユラリ、
……グラリ…………、
ぐにゃり、
部屋の空間が歪んだ。
不規則に揺らめく。
平衡感覚が失われる。
経験したことのない不可思議な感覚だった。
シュッ…………!
目の前を『何か』が横切った。
シュンッ!
再び。
素早い動きで『小さな影』が横切った。
この部屋に。
正体不明の『誰か』が居る……。
別世界からの侵入者を感知した。
俺は叫んだ。
「誰だっ?
隠れてないで出て来いっ!」




