第一章 ④凛花とノア
所沢市・緑町。
大学生になった凛花は上京した。
住まうのは三階建ての鉄筋マンション『赤煉瓦ベル』だ。
バブル期に竣工された物件だ。
築年数の経過から家賃はだいぶ抑えられた。
西武新宿線・新所沢駅まで徒歩十分弱。
都心までは約一時間。
買い物に不自由はない。
引っ越し作業はあらかた片付いた。
玄関先には畳まれた段ボールが重なっている。
グニャリ……、
空気が揺らいだ。
不自然な気配を感じる。
部屋の片隅に視線を移した。
スラリ、
スタイル抜群の美女が佇んでいた。
陶磁器のような白い肌。
切れ長の瞳、深い紅色の小さな唇……。
凛花はすぐに気が付いた。
このクールな美女の正体は。
九島の龍神が人間に化身した姿だ!
間違いない!
宇和島湾の真珠色龍神だ……!
美女は微笑む。
「私の名は『真珠色龍神ノア』。
あなたの名は凛花よね?」
ぶわっ!
凛花の瞳から涙が迸る。
「はいっ!
幼少期からずっとずっと。
貴女から生きる希望をもらっていました……」
ノアは瞳を照覧する。
……十数年前のあの日。
宇和島のみかん畑で純粋無垢な幼女がレイプされた。
それはそれは惨たらしい有り様だった。
幼女の命は助かった。
けれど女性機能の悉くが破壊されてしまった。
彼女は深い絶望の中を藻掻いていた。
それでも卑屈にならず。
自棄にならず。
必死に踏ん張っていた。
大切な家族を悲しませないために。
懸命に生きてきた……。
深い愛慕を看取する。
慈愛がいや増す。
ふわり、
凛花を包み込む。
遠慮がちに抱きしめた。
そうして独り言ちる。
「あら?
どうやら成長が早く止まってしまったのね?
かわいそうに……。
百三十センチ、くらいかしら?
それに子供の時からずっと同じ髪型ね。
知ってるわ! 『オカッパ』っていうのよね?
あらあら、肌もすべすべ!
まるで赤ちゃんみたい!
ふふ、とってもかわいいわ」
むぅっ、
凛花は不満げに口を尖らせる。
「あのっ? こう見えても!
身長は百五十センチ以上あります。
髪型は落ち着いた雰囲気のショートボブです!
ノアみたいに大人っぽくないけど!
もう赤ちゃんじゃないですっ」
思いがけない威勢のいい反撃だ。
ノアは目を丸くする。
ふたりは無言で睨みあう。
……ふるふる、
肩が揺れる。
ぷはっ、
笑いが込み上げる。
堪え切れずに吹き出した。
そうしてひとしきり笑い合う。
あっという間に打ち解けた。
ノアは改まって告げる。
「私ね、凛花のことを家族のように想っていたのよ?
だからいつも空から見守っていたの」
凛花は首肯する。
「貴女は私の命の恩人です。
そしてかけがえのない特別な存在です。
空を飛翔する真珠色龍神の姿に何度も勇気づけられて。
励まされて。
そして今日まで生きてきました」
ノアは頷く。
「あ、実はね?
私のパパの『黄金龍王』がね?
貴女に頼みたいことがあるらしいの。
もしも嫌でなければ。
私の背中に乗ってくれる?」
くるり、
ノアは龍神の姿に変化した。
「わわあっ! なんて綺麗なのっ」
嘆息するほど麗しい。
光沢のある滑らかな龍体は角度によって色を変えた。
真珠色は淡く五色に煌めいている。
凛花は躊躇わなかった。
ぴょん、
龍神の背中に飛び乗った。
するり、
部屋の壁を通り抜ける。
屋外に飛び出した。
春とはいえ少し肌寒い。
ひんやりした夜風を感じる。
住宅地の街明かりを眼下に眺める。
グンッ!
龍体はみるみるうちに数倍の大きさに伸張した。
ノアは夜空に向かって高く飛翔する。
くるん、
細い三日月の下を回転した。
その途端、
強い風にさらされた。
ぎゅっ、
凛花は目を瞑った。
ドッ、ドッ、ドッ、ドッ、ドッ…………、
瀑声(滝の音)が聞こえる。
目を開ける。
暗黒の静寂に水の音が響いている。
どこかの滝のほとりに立っていた。
ノアは告げる。
「ここは裏木曽の龍神の滝。
パパの棲み処なの」
雲が流れて三日月の薄明かりが消えた。
夜陰の暗がりに龍神の滝が光り出す。
深翠色の滝が七度色を転じる。
虹色に煌めいた。
ピッカアァッ……!
滝壺から金色の閃光が放たれた。
滝が左右に裂けた。
黄金龍王が姿を現した。
鋭い金色の龍眼。
ライオンの鬣のような金の髪。
燦然と輝く龍体。
龍王の名に相応しい威厳と風格だ。
幽々たる滝壺を明るく照らしている。
厳かな低い声が響く。
「私の名は『黄金龍王トール』。
凛花、あなたを『龍使い』に任命したい」
「龍使い……、ですか?」
凛花は反芻した。
黄金龍王トールは告げる。
「龍使いに任命された人間には。
『天界』より特別なリズムとエネルギーが与えられる。
契約が成立すれば。
あなたは『龍神界の家族』となる」
「わ、私が龍神と家族になれるのですか?
ノアと家族に?」
凛花は威儀を整える。
改めて首肯し同意した。
龍王は『合意』と受け取った。
そして確信めいた口調で告げる。
「これより凛花に『選択肢』を与える。
選択肢ひとつ目は。
龍使いのリズムとエネルギーを自らのために行使するというもの。
富や名誉。
壮大なる野望。
思う通りに叶えられていくだろう……」
「選択肢ふたつ目は。
龍使いのリズムとエネルギーを他者のために行使するというもの。
他者の潜在的資質を花開かせる。
そして願望成就へと導く聖業使命を与えられる。
まずは才能あふれる人間を『鬼ヶ城の浜辺』へ誘う。
そして『誉』を受け取る仲介人となる」
しかし。
ふたつ目を選択した場合。
自らのために龍使いのエネルギーを行使することはできなくなる」
「つまり。
『自利』と『他利』の二択である。
さあ、今すぐに選択せよっ!」
凛花は迷わなかった。
即座にふたつ目の『他利』を選択した。
黄金龍王トールは慈眼を向ける。
粛と告げる。
「あなたを龍神界の家族として迎えます。
この先の未來は『龍使い・凛花』として。
他者のために尽くし、励みなさい」
キラキラキラキラ…………
凛花の身体から五色の『瑞光オーラ』が発せられた。
すううぅぅ……、
黄金龍王は滝壺の奥へと消えていった。
凛花の瞳から滝のような涙が流れ出る。
「私、龍使いになれたの?
龍神と家族に?
ノアと家族になれたんだよね?」
ノアは笑う。
「ええ、そうよ。
今日からあなたは龍神の家族よ?
そして私たちは姉妹になったの。
凛花が私の『妹』ってことでいいかしら?」
むぎゅうっ……!
凛花はノアに飛びついて抱きついた。
ノアは告げる。
「これから貴女は龍使いとして天上界にお仕えするの。
龍神界と人間界の架け橋になるの。
これは『或る御方』からの特別な思し召し……。
貴き『使命』だってこと、忘れないで?」
凛花は涙を湛えて諾う。
「はいっ、頑張ります!
生きていく意味を!
存在意義を!
与えてもらえた……。
どうしよう、嬉しい!
嬉しくてたまらないの。
ノア、ありがとう……」
「ふふ、じゃあ私たちは。
『姉妹』のように仲良くしましょうね?」
「う、うううっ……。
生きていて……、
生きていて良かった…………」
帰路をゆっくり飛翔する。
凛花を乗せるノアの背は来た時よりも柔らかだった。
ふたりの瞳から涙があふれる。
温かくて優しい涙がこぼれる。
その丸い雫は、空から地上に降り落ちていた。