第一章 ①はじまりの宇和島
旧暦神無月の昼下がり。
小春日和の瀬戸内海の反射光が貴きシトラスを暖かく照らす。
吉田町のみかん山。
急斜面の砂利道を軽トラックが行き来する。
積み上げられた石垣。
南向きの段々畑には柔らかなみかんがたわわに実る。
市街地を見下ろす鬼ヶ城山の山頂は。
もうすぐ雪化粧をするだろう。
宇和島湾の海底から龍神が天高く飛び立った。
それは九島の『真珠色龍神』だ。
龍神界ナンバーワンとの呼び声高い。
見目麗しい女龍神である。
年に一度の『七日間神議』。
出雲大社に向け出立したのだ。
新暦・十一月。
神在月の出雲大社。
『十九社』の扉が開いた。
八百万の神々が全国から集結する。
七日間神議が始まる。
となれば。
出雲のほかは神々不在の『神無月』である。
それなのに。
神無月を不安に思う人間はどこにもいない。
人間はこの七日間に今後の運命が決することを知らない。
知らぬ間に。
賞罰審判が下されているというのに……。
それを知らぬ者(無知)は神の力を信じない。
信じないから恐れない。
知る者(有知)は神の力を信じている。
だからこそ恐れる。
数多の神々、天地の生命。
万物に宿る精霊たちは知っている。
知っているからこそ、屈服して恐れる。
未來の明暗分かれたる『カミハカリの演算』。
根源から恐懼する。
谷風吹くみかん畑。
男の荒い息遣いが木霊する。
若い男に組み敷かれた幼女が仰向けに横たわっている。
ぎゅっ、
小さな手に握りしめられた『みかん』。
ジワリ、
果汁が滲み出る。
幼女の意識は朦朧としていた。
太ももから細い川をなして流れ出るのは鮮血だ。
乾いた土に清らかな血が染み込んでいく。
幼女に覆いかぶさる成人男。
荒々しく腰を振る。
容赦なく揺さぶる。
欲望を吐き出した。
幼女は脱力して息絶え絶えだ。
ただうわの空に。
澄んだ青い空を見つめていた。
おぼろげな視線の先に。
捉えているのは美しい飛翔体。
それは九島の『真珠色龍神』だった。
真珠色龍神は空上静止した。
たちまちに黒雲を呼び寄せる。
片時雨を降らせた。
ピカァッ!
バリッ、バリバリバリッ……!
稲妻が光る。
迅雷が轟く。
落雷は若い男のすぐ脇の地面をつんざいた。
みかん畑が地響きに唸って揺れた。
龍神は憤怒する。
キラリッ、
龍眼が光る。
ジュウウウゥゥ……ッ!
男の首筋に『空蝉模様の烙印』を焼き付けた。
龍神は幼女を案じる。
しかしもう時間がない。
出雲は神在月のカミハカリである。
カミハカリは欠席できない。
八百万の神々『必須』なのだ。
龍神は哀し気に小さく啼いた。
後ろ髪をひかれる。
断腸の思いで出雲大社へと飛び去った。
ハッ、
興奮状態だった男は我に返った。
落雷の衝撃で理性を取り戻したのだ。
「痛っ……、くそっ」
首筋が焼かれたように熱い。
まるで火傷の疼痛だ。
男は首筋を撫でながら、ふと地面に視線を落とした。
みかん畑の固い土には小さな幼女が横たわっている。
それはさながら。
ごみ置き場に捨て置かれた小汚い『ボロ人形』だ。
冷たい雨に濡れている。
ぐったり、動かない。
髪や顔には泥が付着している。
衣服は男の白濁色の精液が染み込んでいる。
下半身は鮮血で赤く染まっている。
「ヤバい……、死んだ、か?」
恐怖に足が震え出す。
男の心は『自己保身』に支配されていく。
「マズい、マズいぞ……」
ピクッ、
幼女の指先が動いた。
かすかに瞼が揺れた。
しかしもはや半死半生、虫の息だ。
「マズい、マズい、マズいッ……!」
男は走り出す。
幼女を置き去りにして急な斜面を駆け降りる。
転びそうになりながら全速力で走った。
農道脇に停めたシルバーのワゴン車の運転席に乗り込む。
キキキイィッ!
タイヤを鳴らして急発進させた。
アクセルを踏み込む。
エンジンをうならせて砂利道を走り抜ける。
猛スピードで逃げ去る車の騒音は雷鳴に打ち消されていた。
天空を突き抜けた遥か高い場所。
或る『貴き御方』が頬杖をついている。
『人間界』を見澄ます。
そして静かに憤った。
若い男の首筋に焼き付けられたのは『空蝉模様の烙印』だ。
これは龍神界を敵に回した『証憑』である。
彼は幼女の未來を演算する。
抗えずに招来する否運を見澄ます。
わずかに嘆いた。
しかし未來は変革していくもの。
希望を捨ててはならない。
即座に修正する。
新たな構築を開始した。