第二十七章 ②それから(ナナ)
所沢市・公営住宅。
羽衣の実家。
雑多に物が置かれた狭い居間。
神妙な面持ちで正座をするレンジがいた。
その傍らには羽衣が座っている。
向かい合うのは三名だ。
「ほらっ!
ジイジ、バアバ、ママ!
レンジさんが来てくれたよ!
大切なお話があるんだって」
今日の羽衣は仲裁役だ。
張り切って場を仕切る。
レンジの助太刀をするつもりだ。
「あの……、本日は……、
貴重なお時間を割いていただき感謝します」
シン…………、
気まずい。
居た堪れない空気だ。
レンジは頭を下げたまま固まっている。
ナナは顔を背けて黙り込む。
車椅子に腰掛けたジイジは目を伏せている。
バアバはソワソワしてキョロキョロしている。
沈黙を破ったのはジイジだった。
しゃがれ声で問いかける。
「……ご用件は?」
レンジは襟を正す。
勇気を振り絞って打ち明ける。
「二十三年前……。
当時中学生だったナナさんをレイプした犯人はこの俺です。
甚だ今さらではありますが……。
謝罪を兼ねてご挨拶に伺いました」
レンジは呼吸を整える。
「俺は鬼畜です。
理性の欠落した破廉恥です。
有名人がレイプ犯だったなんて、
さぞや驚いたことでしょう……。
今さらどの面下げて来たのかと、
煮えくり返るほどお怒りのことでしょう……。
謝って済む問題でないこと、重々承知しております。
ですが!
どうか謝罪をさせてくださいっ」
レンジは真摯に詫びる。
「二十三年前……。
大切なお嬢様を傷つけてしまいました。
俺のせいで……。
ナナさんの人生に暗い影を落としてしまいました。
本当に……、申し訳ありませんでしたっ!
誠にっ……! 申し訳ございませんでしたっ」
ぼたり……、
悔恨の涙を落とす。
額を床に擦りつけて何度も詫びた。
「俳優・レンジは『鬼畜』か……。
そうかも、なあ……」
ぼそり、
ジイジは呟いた。
ふうっ、
バアバはため息をもらす。
「あのね?
ナナを妊娠させたのが俳優・レンジだってこと。
そんなの最初っから知っていましたよ?
養育を認める条件として聞き出していたからね?
それに鬼畜って……。
そんな極悪人みたいに……」
「すべて……、
ご存じだったのですか?」
「知っていたよ?
そして承知の上で黙っていた。
これが我が家の意思なのよ。
だから今さら……。
蒸し返して責め立てることはしませんよ?」
「いやっ? しかし!
俺のせいで人生が狂わされて……!
そして何より……。
娘を……。羽衣を……。
大切に育ててくださっていた……。
この空白期間の賠償として。
本日は『慰謝料』を持参いたしました」
「いしゃ、りょう……?」
ナナはおもむろに顔を上げた。
キッ!
レンジを睨みつける。
「慰謝料は要りません。
今さら罪悪感を持たなくて大丈夫です。
土下座されても! 大金を積まれても!
羽衣は渡しません。
絶対に絶対に譲りません!
過去の出来事は記憶から消してくださいっ」
思いがけない反論だった。
レンジは動揺する。
「え? い、いや? 待ってくれ!
羽衣は成人しているから親権は関係ない。
父親だと主張して奪うつもりなどない。
この金は取引きのつもりではないんだ。
今まで苦労をかけてきた……。
せめてものお詫びのしるしだ」
「だったら尚更です。
苦労していないのでお詫びのお金はいりません。
私はあなたを恨んでいません。
怒ってもいません。
謝罪の気持ちだけ受け取りました。
だから今すぐ帰ってくださいっ」
ナナは冷たく言い放つ。
羽衣は怒り出す。
「もうっ、ママったら!
レンジさんの話を最後まで聞いてよっ!
サユミさんの会見、見ながら泣いていたくせにっ」
「泣いてないっ」
「意地っ張り!
頑固者っ!
押し入れに隠してる『宝物』のこと……。
知っているんだから!」
ごそごそ、
押入れの奥から水色の収納ケースを引っ張り出す。
そこから取り出したのは布製バッグ。
『ザ・ラッキーラビット・オズワルド』のトートバッグだった。
「ほらっ、レンジさん!
これを見て?」
バッグには数冊のスクラップブックが入っていた。
週刊誌や新聞記事の切り抜きなど……。
丁寧に貼り付けられている。
そしてそのひとつひとつに……。
付箋が添付してある。
そこには。
『俳優・レンジ』がいっぱいだった。
【秋の新作ドラマ・刑事役で主演決定!
嬉しい! 楽しみ!】
【被災者支援!
レンジさん、素敵です】
【女優サユミさんと結婚!
美男美女、お似合いだなあ……】
【羽衣と不倫?
絶対にこれはデマ……】
レンジは胸が張り裂けてしまいそうだ。
羽衣は畳みかける。
「それからね?
この封筒を開けてみて?
これはママが一番大事にしている宝物なの……」
それは無地の茶封筒だった。
中身を確認する。
一万円札(諭吉)が二枚……、入っている。
ぶわっ……!
万感の思いが押し寄せて込み上げる。
レンジの視界は涙で霞んだ。
「ナッ、ナナさん……!
これはまさか?
あのときのっ……」
ナナは動揺を隠せない。
目が泳ぐ。
俯いて黙り込んでしまった。
バアバは小さく息を吐く。
「娘から妊娠していることを告げられたとき……。
すでに二十二週を過ぎていた。
だから堕胎することができなかった。
私は頭に血が上った。
えらい剣幕で怒鳴りつけた。
……高校受験はどうするんだっ!
子供が子供を育てられるわけがないっ!
出産後に養子に出せっ! ってね……」
「はい……」
「そうしたら。
……好きな人との赤ちゃんなのっ!
だから絶対に自分で育てたい! って……。
その一点張りで譲らなかった。
ナナは情が深いんだよ。
それに……。
俳優・レンジの大ファンだったから尚のことだった」
レンジは泣いている。
バアバは続ける。
「だけどね?
私はどうしても納得いかなくてね?
テレビで『相手の男』を見るたびに腹が立った。
ムカムカして! 憎たらしくて!
それはそれは恨みましたよ」
「それは……、
当然です」
「だけどねっ!
いざ羽衣が産まれたらっ!
そりゃあもう可愛くって可愛くって!
憎しみやら口惜しさ……。
どこかへ吹き飛んで消えちゃったのよ。
羽衣の額の形と口元……。
父親似だよね?」
「嗚呼……!
一体どうやって詫びたらいいのか…………。
長きに渡って大変なご苦労を…………」
「まあ、そうだねえ……。
何かにつけて絡まれたり。
嫌味を言う人も居たよ?
だけどね、そんなのほんの数人だったよ」
「だいぶ……。
悔しい思いを……?」
「あははっ、平気平気っ!
励ましてくれる人のほうが圧倒的に多かったからね。
苦労なんてしてないよ!
それにね?
我が家には『魔法のおまじない』があるのよ。
ドリス・デイの名曲をペギー葉山さんが歌っていてね?
ケ・セラ・セラ~♪……、って!
元気に歌って。笑い飛ばして。
そうして乗り越えちゃった。
だからもう昔のことは……、
忘れちゃったよ」
バアバは陽気に笑った。
レンジは胸がいっぱいだ。
思わず呟く。
「おかあ、さん……」
多発性硬化症(MS)を患うジイジ。
震えながら手を伸ばす。
「レンジ、さん……。
……握手を、して、
くれないか?」
「え? あっ!
はいっ!」
ぎゅうっ、
ふたりは握手する。
ジイジは頷く。
「……待っていたよ。
レンジさんがここに来る日を……。
家族はみんな、待っていた……。
顔を隠して……。
ジョギング姿で……。
何度か自宅付近を訪れていたね?
いつ寄ってくれるのか……、
楽しみにしていたんだがね……」
「俺に……、
気づいて、いたのですか?」
「うん。
ナナの顔が見たくて……、
わざわざ来ていたんだろう?
どうやらやっと。
放蕩婿が……、
帰ってきてくれたみたいだなあ……」
ジイジは穏やかに笑った。
レンジは小さく叫んだ。
「おとう、さん……っ」
レンジは義父母から勇気をもらった。
そうして強く決意する。
ナナの正面に向き合った。




