第二十六章 ①じゃばらみかん
映画館・ステージ上。
不意に。
空気が変わった。
閉じた瞼の外に差し込む光を知覚した。
輝章は徐に目を開けた。
ささっ……、
右手で頭をさすってみる。
遮光頭巾は消えていた。
足元には。
小ぶりな『みかん』が並べ置かれていた。
「ああ、これが……。
邪払みかん、か……」
きょろきょろ、
辺りを見渡す。
観客席は動いていない。
静止画像のように止まっている。
未だ『時間』は止まったままだ。
レンジは泣いていた。
床に突っ伏して嗚咽を漏らしていた。
スッ、
輝章は右手を差し出す。
「あの……。
もし良かったら……。
僕に掴まってください」
ビクッ……、
レンジはこわごわ顔を上げた。
気まずい心地が漂う。
わずかに気後れする。
しかし。
差し出された手を掴む。
支えられて立ち上がった。
瞼は赤く腫れている。
吹き荒れた突風で髪型は崩れている。
高級オーダースーツは埃まみれになっている。
ぱんぱんっ、
輝章は埃を払い落とした。
「あ、あの……。
ありがとう……。
それにしても参ったな。
ヨレヨレだ……」
「はは……、
僕の髪もボサボサです……」
ふたりは些かばつが悪かった。
だがしかし。
憑き物が落ちたかの如くに身体が軽い。
静穏な面持ちに変わっていた。
羽衣はしゃがみ込んで泣きじゃくっていた。
遮光頭巾は消えていた……。
「羽衣さん……、
大丈夫?」
輝章は腰を屈めて覗き込む。
大きな瞳から涙が止めどなく溢れ出ている。
輝章はジャケットからハンカチを取り出した。
そっと涙を拭ってあげた。
「ほら……、
僕につかまって?」
「わっ……?
あっ、あのっ!
ありがとうございますっ」
頬と耳を紅く染めた。
ぎゅっ、
輝章の手を掴んで立ち上がる。
ピタリ……、
羽衣の涙は止まった。
スッ、
輝章は足もとの小さなみかんを指差す。
ふたりに目くばせした。
そうして。
床に並んだみかんを拾い上げた。
「さあ! レンジさん、羽衣さん!
『処罰』の時間です。
じゃばらみかん……、
心していただきましょう!」
「はいっ」
羽衣は大きな声で返答した。
レンジは神妙な面持ちで首肯した。
艶のないみかんだ……。
しわしわの皮をむく。
ポイッ!
一房、口に放り込んだ。
「…………!
うっ? うううっ?」
「うっ……、わあっ!
酸っぱああああいっ……!」
「ゴホッ、ゴホッ……!
ゔゔっ、ぐぐっ……」
三人の顔はくしゃくしゃだ。
あまりの酸っぱさに咽返る。
輝章は涙目だ。
思わず苦笑する。
「これは……、
なかなか素敵な制裁ですね……」
「……はい。
ビックリしました……」
「これは……。
参った……」
ふるふるふる……、
三人は震え出す。
なぜか笑いが込み上げてくる。
ははっ……!
顔を見合わせ吹き出した。
そうして。
ひとしきり笑った。
ザワザワ…………、がやがやがや…………
観客席がざわめいている。
いつの間にか。
会場に熱気が戻っていた。
静止していた『時間』が動き出したのだ。
輝章はすぐさまマイクを握る。
観客席に向かって言葉を発する。
「『リレーション・縁』。
いかがだったでしょうか?
とある家族の。
とある絆の形をくり抜いて。
映像化させていただきました」
盛大な拍手が起こった。
「そして本日。
皆さまに『重大発表』があります!
この作品のダブル主演であるレンジさんと羽衣さん!
このおふたり……、
『実の親子』ですっ」
ザワッ?
ザワザワザワッ…………!
観客席がどよめいた。
無数のフラッシュが光る。
芸能記者たちは驚愕して身を乗り出す。
輝章は続ける。
「映画のシナリオでは……。
レンジさんと羽衣さんは愛人関係にありました。
しかし当然ながら。
それは虚構です。
そして世間を騒がせている不倫の噂は流言です。
真実はただひとつ。
おふたりが正真正銘の親子である、ということです」
ネットに。
スマホに。
速報ニュースが流された。
「生きていく道のりには。
複雑な問題や葛藤があります。
レンジさんと羽衣さんの経緯には。
無論、何らかの事情があったと推察できます。
それはもしかすると。
大きく間違えた行動だったかもしれません。
しかしながら奇跡が起きました。
離れ離れだった父娘は邂逅したのです!
ふたりは困難を乗り越えてきた……。
藻掻きながらも生きてきた……。
だからこそ!
『現在』があるのです。
そこで皆さまにお願いがあります!
レンジさんと羽衣さんの『過去』……。
興味本位に詮索のはやめませんか?
掘り返して蒸し返すのはやめませんか?
まずは。
この父娘の姿を見届けてください。
そしてその後の『未來』に!
判定していただきたいのです」
観客は共感する。
拍手で応える。
輝章は襟を正す。
深呼吸する。
「それからもうひとつ……。
お伝えしたいことがあります。
僕には心から尊敬する女性がいます。
彼女は罪を赦し慈悲心を向けます。
幸せを願って背中を押してくれます。
そして。
惜しまず与える尊さを教えてくれました……。
僕は決意表明します!
この先の未來!
彼女の『透明な心』に恥じない生き方をしていきます!」
記者からの質問が飛ぶ。
「輝章監督! これは熱愛宣言ですか?」
「彼女とは……?
特別な女性、ということですよね?」
「それは監督の恋人……、ですか?」
輝章は即答する。
「いいえ、違います!
彼女には素敵な恋人が居られます。
聡明な彼女に相応しい相手……。
それは僕ではありませんでした!
残念ながら……。
まったく相手にされていませんでした!
皆さま!
本日はありがとうございましたっ」
輝章は深く頭を下げた。
レンジと羽衣も観客席にお辞儀する。
三人は清々しい笑顔で礼を伝えた。
ふわふわふわ…………
会場は柔らかな空気が漂っていた。
温かな慈悲を感じる。
優しさに包まれる。
心身が癒される。
希望が沸きあがってウズウズする。
躍動の予感が漂う。
それは。
五感を超越した不思議な感覚だった。
彼方の空から。
天赦の光芒が降り注いでいた。




