第9話 父親との対決
ビジネスホテルで一夜を過ごし、朝日がカーテンの隙間から差し込んでくる頃、俺は、隣のベッドで眠る沙月にそっと目をやった。きのうは夜遅くまで騒ぎが続き、ほとんど眠れなかったはずだが、今は落ち着いた表情で寝息を立てている。枕元には、綾音さんが用意してくれた傷薬が置かれていた。
父親の暴力から逃れ、ようやく安全を得た沙月だったが、ここからが本当の戦いだ。法的手段を取るため、彼女の身体的・精神的被害を証明する必要があった。検査の結果や写真をもとに作成される正式な診断書は、暴力を訴える大きな武器となるからだ。さらに、優菜や由梨さんの協力もあり、児童相談所や警察との連携も進んでいる。
「隼人くん、起きてる?」
ドアを軽くノックして聞こえてきたのは綾音さんの声。時計を見ると朝の七時を少し回ったところだった。まだ眠そうな目をこすりながらドアを開けると、廊下には綾音さんと優菜が立っていた。
「おはよう。沙月ちゃんは?」
「まだ寝てるみたいで……昨日、遅くまで起きてたし、疲れが相当溜まってるんだと思う。ちょっと心配だけど……もう少し休ませてあげたいなって」
綾音さんは少し心配そうに眉を下げて、手にしたファイルを見せてきた。その中には診断書と、沙月の証言がメモされた書類が整然と並んでいる。
「これだけ証拠が揃えば、法的措置を進める準備はほぼ整ったわ。後は沙月ちゃんの同意と、母親の後押しがどの程度期待できるか。でも、隼人くん自身、どう動くかは考えてる?」
そこで思い出すのが、沙月の母親が家で必死に父親を引き留めてくれた姿だ。あれから母親自身も安穏としていられるわけではない。一刻も早く彼女を安全な場所へ移す必要があるし、父親を改心させるなら、正面から立ち向かわなければならない。
「もう覚悟は決めたよ。今日、父親にもう一度会いに行くつもりだ。法的措置の話も切り出して、その場でちゃんと向き合おうと思ってる」
俺がそう答えると、優菜は驚いたように目を見開いた。
「え、会いに行くって、あんな危険な相手だよ? 警察を通してからでも遅くないでしょ?」
「もちろん、警察や児童相談所にも連絡を取るつもりだよ。でもさ、俺……沙月がどれだけ辛い思いをしてきたか、父親が何を失っているのか、それを直接ぶつけたいんだ。暴力を止めるために『逃げる』ことは正しかったけど、やっぱり最終的には彼とちゃんと向き合わなきゃいけないと思うんだ……」
言葉にしながら、自分で言うのも無謀かもしれないと思う。けれど、綾音さんが「分かった」と静かに頷いたので、少しだけほっとする。
「じゃあ私も同行するわ。必要なら医師として立ち会うし、怪我をしないようにサポートする。優菜さんもいいかしら?」
「……分かった。私も一緒に行く。立ち会う人が多いほうが安心でしょ。警察の方にも打ち合わせておくよ」
こうして、俺たちは急きょ、父親との対決に向けた段取りを組むことになった。幸い、母親が連絡をくれたらしく、日中なら父親は家にいる可能性が高いという情報を得た。二度と逃げ場を与えないためにも、一気に踏み込んで話をするというわけだ。
***
「もう、行くの……?」
ホテルの一室で、朝食を摂った後に出発の準備をしていると、ようやく目を覚ました沙月が心配そうに俺の袖を掴む。彼女はまだ体調が万全ではないが、父親と対決すると聞いて動揺しているようだ。
「うん。綾音さんと優菜と一緒に行くから、沙月はここで待っててほしい……危険だし、無理に会いに行く必要はないよ。警察にも連絡してあるから、もし父親さんが暴力を振るおうとしても、すぐ止められるはずだから」
沙月は唇を噛みしめ、迷っている様子だった。でも、ほんの数秒後、意を決したように首を振る。
「私も行く……お母さんがどうしてるか分からないし。お父さんに言いたいこと、ちゃんとあるから」
「でも、大丈夫? まだ身体も辛いんじゃ……」
「平気じゃないけど、ここで待ってても気が気じゃない。もう逃げるだけじゃなくて、ちゃんと正面からぶつかりたい」
あの怯えてばかりだった沙月が、はっきり意志を示している。俺は綾音さんと視線を交わし、うなずいた。
「分かった。無理はしないで。何かあったら綾音さんや俺の後ろに隠れていいからね」
***
午前十一時過ぎ、俺たちは再び沙月の家の近所に集結していた。車を少し離れた場所に停め、まずは綾音さんと優菜が先に状況を確かめる。すると、そこに母親が現れて、小声で「今なら大丈夫」と声をかけてきた。
「あなた方がいらっしゃること、夫には言ってません。でも……朝からずっと不機嫌で、最悪の状態かもしれません」
母親はそう言いながら、おどおどと辺りを見回す。あるいは近隣住民の視線が気になるのかもしれないが、今日は警察とも連携を取っている。もしものときはすぐ駆けつけてもらえる段取りだ。
「ありがとうございます。お母さんはご無事ですか?」
綾音さんが丁寧に尋ねると、母親は少しだけ視線を落として苦笑した。
「怪我はしていません……でも、やっぱり夫は変わらないと思うんです。だから、みなさんにお任せします」
そこに優菜が「隼人、沙月ちゃん、こっち」と手を振って合図を送る。いよいよ父親との対決だ。深呼吸して気持ちを落ち着かせ、俺は沙月の手を握る。震えているのがはっきり分かるが、彼女はそれでも逃げずに前を向こうとしていた。
「大丈夫。みんないるから」
そう声をかけると、沙月はぎこちなくも頷いた。母親に先導され、玄関へ向かう。前回の夜間とは違い、今は白昼で周囲の家からこちらを見ている気配がある。しかし、後戻りはできない。
ガチャリ、と母親が鍵を開けて玄関を開くと、リビングの奥からテレビの音が聞こえてきた。どうやら父親は朝から酒を飲んでいるのか、気だるそうに寝転んでいるらしい。姿は扉越しに見えないが、空気が重苦しいのが分かる。
俺と綾音さん、優菜、そして沙月が玄関に足を踏み入れた瞬間、父親の不機嫌そうな声が飛んできた。
「おい、誰だ……? 母さんか? ……まさか沙月が戻ってきたのか?」
母親が怯えながらも、「……少し話をしたい人たちが来てるの」と声をかける。すると、父親は「なんだと?」と荒っぽい足音でリビングから出てきた。その瞳は相変わらず血走っているが、どこか意表を突かれたような表情をしている。
「あ……! お前ら、また来やがったのか! 沙月、お前……一度逃げておいて……」
怯むことなく一歩前に出ようとした父親に、俺は手を挙げて制止の合図を送る。同時に、綾音さんが静かに言葉を発する。
「私、医師の高嶋綾音といいます……あなたの娘さんである沙月ちゃんの身体的被害について、正式な手続きを取らせてもらいます」
父親が「はぁ?」と反応に困るような声を出す。優菜も負けずに口を開く。
「藤堂優菜です。父は国会議員です……あなたが暴力を振るい続けている事実がある以上、法的措置は避けられません。今日はいくつか確認したいことがあって来ました」
状況を飲み込めないらしく、父親は目を大きく見開き、しばらく硬直していたが、やがて怒りに身を委ねるかのように吠えだした。
「ふざけんな、俺が何したってんだ! こいつらが大げさに騒いでるだけだろ! 沙月が勝手に家出したくせに……!」
ここで逃げ腰になっては意味がない。俺は覚悟を決め、父親の視線を受け止めるように一歩前へ出た。沙月の手は離れ、彼女は母親の横に立ちすくんでいる。
「あなたが沙月にしてきたこと、全部証拠があります。診断書も、痣や傷の写真も。法的に動けば、間違いなく処罰されるでしょう。それでも認めないつもりですか?」
父親の乱れた呼吸が玄関に響く。酒臭い息を吐き出しながら、「何が処罰だ…!」と吐き捨てる。その腕が大きく振り上がり、今にも殴りかかろうとする形になったが、すかさず綾音さんが父親の腕を押さえる。
「暴力はいけません。ここに来てそんなことすれば、ただちに警察を呼びますよ」
「くそっ……離せ! お前らに何が分かる!」
激昂する父親に対して、優菜がすばやくスマホを取り出して見せる。
「警察には既に連絡済みです。ここで暴力を振るえば、現行犯で逮捕されるかもしれませんよ」
その言葉に、父親は動きを止める。あからさまに焦った表情が浮かび、綾音さんの腕を振りほどく形でうずくまって息を荒げた。
「……お前ら、何なんだ。こんな大勢で押しかけてきやがって。俺は……俺は悪くない!」
その姿は、威圧的な暴君というよりは、追い詰められた人間の必死の言い訳のようにも見えた。そこに、沙月が震える声で口を開く。
「お父さん、もう……やめて。私は、あなたに殴られて、蹴られて、泣いても止めてもらえなかった。こんなのおかしい。母さんだって、ずっと苦しかったんだよ」
父親が嗤うように口元を歪める。けれど、その目は笑っていない。優菜がスマホを手に構えたまま睨んでいるし、綾音さんも離れた位置で父親の動きを警戒している。
「ふざけるな……! 俺だって昔は……!」
父親が何か言いかけて、その言葉を詰まらせたのを見逃さなかった。俺はそのきっかけを逃さずに問いかける。
「あなたも昔、暴力を受けていたって推測しています。負の連鎖を断ち切れないまま、今度は自分の娘を傷つけている。それが本当に望みなんですか?」
言葉を投げかけると、父親は驚いたように瞳を見開く。強がりとも怒りとも取れない表情のまま、玄関の壁に手をついてうつむいた。
「……うるさい。どうせ誰にも分からん。俺の苦しみなんて……」
彼の身体が小刻みに震えているのは、怒りなのか悲しみなのか。やがて低い声が漏れる。
「親父に殴られ、母親も守ってくれなかった。逃げ場なんかなかった……でも、だからって、なんで俺が責められなきゃいけない。俺だって被害者だろうが!」
歪んだ正当化だ。しかし同時に、彼が暴力を振るう理由の片鱗が見えた気がする。沙月はそれを聞いて、涙を浮かべながら一歩前に進んだ。
「……そうかもしれない。でも、私はあなたに殴られて、血が出てもやめてくれなかった。それがずっと続いて、私はもう限界だったの。お母さんも、どれだけ心を痛めていたか」
その言葉に、父親は余計に歯噛みするような表情を作る。母親が震える声で続けた。
「あなたを支えたかった。でも、あまりに苦しくて……私も暴力を止められなかった……私たちはもう、このままじゃ壊れてしまうわ」
その場に重苦しい沈黙が降りた。玄関の風鈴がかすかに鳴り、外の自転車が通り過ぎる音が耳に届いた。父親は悔しそうに奥歯を噛みながら、何も言えずにうつむいている。
俺は静かに呼吸を整え、言葉を続けた。
「あなたが受けてきた苦しみをゼロにはできないけど、だからといって沙月や奥さんを傷つけていい理由にはならない。法的措置で罰を受けることも含め、もう一度人生をやり直せる選択肢を探してほしいんです。もし必要なら、カウンセリングや公的機関のサポートもある……改心すれば、遅すぎることはない」
父親はまだ何か言葉を吐こうとしたが、その刹那、外から警察の車が止まる音が聞こえた。玄関の扉越しに、警官の一人が「警察です、入ってよろしいですか?」と声をかける。
もう時間切れだ。父親がここで暴れるなら、そのまま逮捕もあり得る。彼は苦しそうに息を呑み、諦めたようにその場にへたり込んだ。
「くそっ……なんでこうなる……」
警察官が玄関に入り、状況確認を始める。沙月の身体には暴力による痣があり、母親にも古い傷跡がある。さらに診断書や綾音さんの医師免許証による証言も後押しして、父親は捜査に協力する形で事情を聴かれることになった。
その後、父親が逮捕されるかどうかは微妙な状態だったが、暴力の有力証拠があること、そして過去に何度も家族が被害を受けている可能性が高いことが提示され、警察が正式な捜査を開始する運びとなった。
母親は警官に保護され、改めて事情聴取を受けることに。沙月も一緒に事情を説明するため、綾音さんや優菜とともに警察署へ向かう。俺はその場でいくつか確認を済ませたあと、再び母親から感謝の言葉を受けた。
「あなたたちがいなければ、私も動けなかった……ごめんなさい、沙月をずっと守れなくて」
泣きながら謝る母親に対して、沙月は寂しそうな笑みを浮かべ、抱きしめていた。親子の絆がどれほど修復可能かは分からないが、これが再生の第一歩になると信じたい。
***
夕方近く、警察署での聴取が一段落したころ、綾音さんや優菜と合流して事情を共有する。沙月は長い時間の事情聴取で疲れ切っていたが、瞳にはどこか解放感のようなものが宿っている。自ら望んだ対決を通じて、暴力の連鎖を断ち切る糸口を掴んだのだから。
「お父さん、どうなるのかな……逮捕されて、刑務所に行くのかな。正直、まだ複雑で……」
そう問いかける沙月に、優菜が穏やかな声で答える。
「詳しくはこれからの捜査次第だけど、暴力の事実は重く見られるはず。検察も本格的に動くわ。更生プログラムとか、そういう支援を受けられる道もある。どんな結果になっても、沙月ちゃんのせいじゃないからね」
沙月は小さく頭を振りながら、涙ぐむ。
「私が訴えたせいじゃない……そうだよね。お母さんもあのままじゃ危なかったし……」
隣の綾音さんが肩を優しく叩く。
「そうよ。あなたたち親子が同じ屋根の下で苦しみ続けるよりは、別々の場所で再出発するほうがいいと思うわ。もしかしたらお父さんも、本当は助けを求めていたのかもしれないわ」
あのとき、父親の口からこぼれた「俺だって被害者だ」という言葉。彼が暴力を繰り返した理由を正当化はできないが、苦しみを抱えていた一人の人間として、いずれは裁きを受け、更生への道を歩めるかもしれない。
沙月の母親も、父親と離れる決意を固めているようだ。まだ先のことは分からないが、母娘が再び穏やかに暮らせる日が訪れてほしい。
***
夜になり、警察署から出てきたころには、もうへとへとだった。ビジネスホテルへ帰るタクシーの中で、沙月は小さな声で呟く。
「隼人……ありがとう。お父さんを止めてくれて、私を助けてくれて……もし、またあの家で殴られてたら、きっと私は……」
言葉の終わりを飲み込み、彼女は瞳を伏せる。俺は黙って彼女の手を握り返した。窓の外の街明かりが流れていき、頭上には夜空に浮かぶ月がひっそり輝いている。
「まだ問題は山積みだけど、一番辛かった時間は越えたはず。これから少しずつ、元気になっていこう。父親さんが本当に改心するかどうかは分からないけど、まずは沙月自身が幸せになる道を見つけよう」
「……うん」
弱々しくも、確かな肯定の返事が返ってくる。彼女の心の中にかすかな光が宿りはじめているのを感じる。あの父親との対決は、終わりではなく始まりに過ぎない。法的措置も裁判手続きも時間がかかるだろうし、父親が心底から更生への意思を示すかどうかは未知数だ。
しかし、負の連鎖を断ち切る一撃を与えたことは間違いない。暴力を隠し通すことはできなくなり、母親も世間的なサポートを受けられるようになる。何より、沙月自身が助けを求めることを覚え、仲間たちとの連携を得られたのだ。
タクシーがホテルに着くと、優菜と綾音さんが先にチェックインカウンターへ向かい、再び二部屋を確保してくれた。疲労困憊の沙月を連れて部屋に入り、俺はソファに腰を下ろす。
沙月はベッドに座って、わずかに笑みを作る。前回ここに来たときよりも、表情が穏やかだ。
「私……お母さんとも、ちゃんと話し合うよ。お父さんがどうなっても、逃げずに向き合う。きっとまだ、傷つくこともあると思うけど」
「大丈夫。俺たちがついてる。綾音さんも優菜も、由梨さんも、できる範囲でサポートしてくれるはずだから」
そう言いながら、窓の外の夜景をちらりと見る。ネオンの光がビルの隙間に溶けていく。昼間の激しい対立は終わったが、これから沙月が乗り越えなければならない出来事は多い。それでも、一人ではない。母親との和解も、父親の更生も、長い道のりかもしれないが、確実に始まっている。
「……隼人」
名前を呼ばれ、振り返ると、沙月が少しだけ潤んだ瞳でこちらを見ていた。戸惑いと安心、両方が混ざったような表情だ。
「……私は、もう逃げない。怖いときは怖いって言うし、助けを求める。そうしないと、また同じこと繰り返しそうで……」
「うん。それでいい。誰かを頼ることは悪いことじゃない。むしろ、生きるうえで大切なことだよ」
沙月が微かに微笑む。その顔を見て、俺は心の底から安堵する。夜は深いが、その先にある希望はもう揺るがないように思えた。
「隼人……これからも、いろいろ迷惑かけると思う。でも、よろしく……」
夜のビジネスホテルの窓際、夜景を眺めながら沙月がぽつりと口にする。その声はまだ震えているが、確かな意志がこもっていると感じる。
「こちらこそ。俺も支えられることが嬉しいから」
深く息を吸い込むと、胸に広がるのは確かな充実感。沙月の救済が、本当に始まったのだ。負の連鎖という鎖をひとつ断ち切った今、彼女が歩む未来はもう絶望だけではない。
こうして、沙月と父親の対決はひとまずの区切りを迎えた。沙月はすぐに元気になれるわけではないだろう。医師としての綾音さんのケアを受け、必要なカウンセリングを受ける。優菜や由梨さんが行政や法的なバックアップをしてくれるだろう。俺は、少しでも彼女の心に寄り添いながら、一歩ずつ一緒に歩んでいくつもりだ。
ご一読くださり、ありがとうございました。