第8話 逃避行の果てに
車の振動が、まるで深い水底で微かな波が立つように意識を揺らしていた。夜の闇は濃紺というより漆黒に近く、街灯のオレンジ色の光がぼんやりと路面を照らしている。街路樹が並ぶ細い通りをくぐり抜けた先に、郊外のビジネスホテルがひっそりと影を落としていた。遠くでかすかに聞こえるエンジン音が静寂を裂き、深夜特有の冷たい空気が緊張感を漂わせている。
運転席の綾音が「ここね」と呟き、ハンドルを切って駐車場へと入っていく。その隣で、優菜はスマホを手放さず、いつでも連絡が取れるように待機している。
一方、後部座席で俺は、沙月をそっと抱き支えていた。つい先ほどまで深い眠りに落ちていた彼女は、車が止まる気配にうっすらと目を開ける。目の周りは赤く、涙の跡がうっすら残っているが、どこか安堵の色が伺えた。
「ここ……どこ……?」
掠れた声で訊ねる沙月に、俺はできるだけ優しい口調で答える。
「綾音さんが手配してくれたビジネスホテル。父親さんから離れて、まずは身体と心を休めるんだ。警察や病院関係の手続きが終わるまで、しばらくここで落ち着こう」
真夜中の救出劇は、実家での緊迫した場面を経て無事に終わった――はずだが、まだ沙月の表情には不安が残っている。父親を置いてきた罪悪感、母親を置いてきた後ろめたさ。それでも、彼女が自力で「助けてほしい」と叫んだからこそ、一歩前に進めたのだ。
綾音さんがフロントまで同行し、深夜チェックインの手続きを済ませると、俺たちは部屋に向かった。上層階でエレベーターを降り、長い廊下の先に小ぎれいなツインルームがあり、すぐに優菜がベッドや備品を点検してくれる。
「大丈夫そうね。隣の部屋も押さえてあるわ。私たちはそっちに泊まるから、何かあったらすぐ呼んで。隼人くんがいてくれれば心強いわ」
優菜はそう言って、沙月に笑いかける。だが、沙月はまだ目を伏せがちで、相槌を打つ余裕もないようだ。無理もない。あれだけの修羅場を体験したばかりなのだから。
「じゃあ、綾音さんと優菜は隣の部屋で待機しててもらえる? 俺が落ち着かせてから声かけるよ」
黙って頷く綾音さんと優菜が出ていったあと、ツインルームには俺と沙月の二人が残る形となる。気まずい静寂がしばらく降りてきたが、俺は意を決して小さなテーブルに腰を下ろし、部屋の奥にあるベッドの端へ沙月を座らせた。
「ごめんね、こういう場所しか用意できなくて。すぐに大きな部屋が借りられればよかったんだけど」
沙月は首を横に振り、「いい」と呟く。まだ視線を床に落としていて、身体を少し硬くしているのが分かる。
「……お母さんのこと、気になってるよね」
そう問いかけると、沙月は小さく息を呑み、瞳を潤ませながら顔を上げる。
「お父さんを止めてくれたけど、あのまま家に残って……大丈夫かな。私だけ逃げて、すごく後ろめたくて……」
案の定、母親のことを案じている。俺は軽く頷く。
「まだ時間はかかるかもしれない。でも、お母さんが『沙月を連れ出して』って言ったのは本当だし、きっと覚悟があるはずだよ。遠くないうちに、綾音さんや俺たちがサポートして連絡を取り合うと思う……無理矢理にでも引き離さなきゃいけない状況だったから、申し訳なさを感じるのは当然だよね」
沙月は黙り込む。彼女の瞳からは、今にも涙がこぼれそうだ。少しでも心を軽くしてあげたくて、俺はそっと席を移動し、ベッドに腰かける彼女の隣に座った。
「でもね、これだけはわかってほしい……君はもう一人じゃない。綾音さん、優菜、俺。それに他にも君を助けてくれる人はいる。きっとみんなが力になってくれる」
沙月はハンカチを取り出し、震える手で目元を押さえる。言いたいことが詰まっているのだろうが、うまく言葉にできないようだ。
「……私、何もわからない。ここからどうなるのかも……どうしたらいいのかも……お父さんへの怒りと悲しみと、それでも嫌いになりきれない気持ちがぐちゃぐちゃで……」
その言葉を聞いて、俺は深い共感と同時に、自分の過去が頭をよぎる。両親を亡くして天涯孤独になったとき、俺も同じような感情の渦に飲まれていたからだ。
「気持ちが整理できなくて当然だよ。でも、大丈夫。少しずつでもいい。一歩ずつゆっくり前に進めばいい……俺も昔、似たような状況で苦しんだことがあるんだ」
沙月が小さく首を傾げ、少しだけこちらを向く。俺は覚悟を決めて、自分の過去を語ることにした。
「両親が交通事故で他界して、俺は突然一人になった。親戚のいない状態で、途方に暮れてね……そのとき初めて助けてくれたのが、綾音さんだったんだ。当時はまだ研修医でね……」
両親を失ったあの日々、部屋にこもりきりで悲しみを吐き出せず、泣くことすらできなかった時期。周囲の支援がなければ生きていけなかった。
「最初は『何で自分だけがこんな目に……』って、怒りとか悲しみとか、いろんな感情がごちゃ混ぜになってた。誰を憎めばいいのかわからなくて、怒りのやり場がなかったんだ」
そう言うと、沙月は少し驚いた顔をする。俺がそこまで傷を抱えていたとは思っていなかったのかもしれない。
「だけど、綾音さんが『一人で背負わなくていい』って言ってくれて、少しずつその言葉に救われた。今でも辛いことはたくさんあるけど、一人で抱え込むより、周囲を頼ったほうがいいんだって気づいたんだ」
沙月がゆっくりとハンカチを目から外し、うっすらと俺を見る。その表情にはわずかな安堵と興味が入り混じっている。
「……隼人も、辛かったんだね」
「正直、今でも思い出すと苦しいよ。けど、その苦しさを否定しないで、誰かと共有できれば、きっと心は少しずつ軽くなるって学んだ……沙月も今は混乱してるかもしれないけど、いつか絶対に道が見えてくる」
小さく呼吸を整え、沙月の手に視線を移す。指先がかすかに震えているが、少しずつ落ち着きを取り戻しつつあるようだ。
「……ありがとう」
ぽつりと、沙月が言う。震える声の向こうには、感謝と戸惑いが混じっていた。
「ほら、今日は疲れたろ? まずは休んで。何もかも明日に回そう。朝になったら綾音さんが診察してくれるし、優菜が父親さんのことを引き続き調べてくれる……警察にも話は通ってる」
沙月はふいに俯き、再びハンカチで顔を隠す。吐き出すように涙を落としているのか、肩が小刻みに揺れる。家を出て、逃避行の末にようやくたどり着いた「安全な場所」で、張り詰めていた糸が切れたのだろう。
俺は言葉もかけず、そっと肩に手を置く。いつもなら人に触れられることを怖がる沙月だが、今回は拒否しなかった。寂しさと悲しみが混じった嗚咽が、部屋の静寂に溶けていく。
「泣いたっていいんだ。泣くことでしか消化できない痛みがあるからね」
そう呟くと、沙月は声を出さずにしばらく泣き続けた。まるで何年も我慢していた感情が噴き出すような激しい涙ではないが、深い底から湧き出す辛いものが少しずつ外へ流れ出ているように見えた。
時間にして数分だったかもしれないが、やけに長く感じた。そして、沙月の嗚咽が落ち着いたところで、俺は彼女にタオルを差し出す。目は真っ赤だが、先ほどより呼吸が穏やかになっている。
「……ごめん。こんなに迷惑かけて……」
「迷惑なんかじゃない。むしろ、助けてって言ってくれてよかったんだ……俺も、誰かを助けることができるって知れたから」
沙月がうつむいたまま、かすかに笑みを作る。もう大丈夫、といった意思表示のように思える。
やがて、彼女はベッドの上に座り直し、小さな声で「もう少し、隣にいて……」と呟いた。これまで距離を置いていた沙月からの、初めての甘えかもしれない。
俺は部屋の照明を少し落とし、ベッドサイドの小さなランプだけ残した。闇と静寂が深まる中で、沙月は落ち着きを取り戻し、ベッドに潜り込むように横になる。
「隼人の過去の話、教えてくれてありがとう……私も……いつか、笑って話せるようになるかな」
最後にそう言った沙月の声は、眠気と涙が混じりあったかすかな響きだった。俺は笑みを返し、彼女の額から乱れた前髪をそっと払う。
「なるさ。俺たちがついてる」
それだけ告げると、沙月は薄く目を閉じ、そのまま眠りに落ちた。部屋には小さな寝息だけが聞こえ、先ほどまでの激しい感情の嵐が嘘のように静まり返っている。
翌朝、病院での診察や警察との相談など、現実的にやらなければならないことが山積みだ。けれど、沙月が自分の足で一歩踏み出せたこの瞬間こそが、彼女にとって救いの入り口なのだろう。
(逃避行の果てに、ようやくたどり着いた小さな安息。ここからが、本当のスタートだ)
俺はそう心の中でつぶやいてから、もう一つのベッドへ移動し、シーツに身体を沈めた。隣の部屋では綾音さんと優菜が待機しているし、万が一のことがあればすぐに助けを呼べる。
天井を見上げると、さっきまで感じていた重圧が少しだけ軽くなったような気がした。まだ先は長いが、きっとここからなら――。
そうしてゆっくり瞼を閉じると、沙月の穏やかな寝息に耳を傾けながら、俺は静かな眠りへと落ちていった。街を抜け出し、果てのない不安の闇をくぐり抜けた先で、こうして少しでも希望を掴み取れたことを、心から幸運に思いながら。
ご一読くださり、ありがとうございました。