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指先に宿る救済~記憶の鎖を解くたびに~  作者: 凪木桜
第1章 初めての救済
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第7話 計画の開始

 翌日、時計の針が午後十時を回る頃、夜の静寂が街全体を包み始めていた。仕事帰りのサラリーマンや学生たちが帰路につく時間帯も過ぎ、住宅街の通りには人影がまばらだ。街灯だけが頼りない光を落とし、虫の声が微かに聞こえる。


「……沙月は、本当に大丈夫かな」


 俺は自宅マンションのリビングで携帯を握ったまま、小さく息をつく。先ほど、綾音さんから「準備は整ったわ」という連絡を受けたばかりだ。


 連絡の内容は、今夜、沙月を実家から連れ出す計画を実行することへの最終確認だった。綾音さんの診断書や、優菜が集めてくれた情報も揃い、いつでも法的な手段を講じられる体制が整っている。あとは現場で安全に沙月を保護するだけが問題だった。


「そろそろ行くか……準備はできた?」


 リビングの一角から立ち上がったのは、沙月本人――ではない。かつて俺が助けた女性の一人であり、今回の救出計画をサポートするために協力してくれる女性・藤堂優菜(とうどうゆうな)だ。彼女は父親が国会議員という家柄から得た情報網を活かし、沙月の父親に関する調査を行ってきてくれた。


 当の沙月はというと、午前中に俺が付き添い病院を訪れ、綾音さんに診察してもらった後、一度自宅に戻ることとなったのだ。


「うん、一応は。だけど、夜中に家へ行って本当に平気なのかな。下手をすれば、今まで以上に暴力に走る可能性だってあるよ」


 優菜がやや不安そうな表情を浮かべる。無理もない。突然の夜間の訪問は、相手を逆上させるリスクを伴う。それでも、この時間帯を選んだのは、沙月が「父親が帰ってくるのはいつも深夜近く」と言っていたからだ。


 しかし現状では、それでも確実とは限らない。実際、父親の行動パターンは不規則のようだ。そこで綾音さんが支援してくれると決まり、可能な限り安全に沙月を連れ出すプランを立てたというわけだ。


「沙月自身は迷っていたけど、最終的には『覚悟を決める』って言ってた……もう二度と、あの家で怯えて暮らすのは嫌だって」


 そう呟くと、優菜は小さく頷く。沙月が家を離れるには、母親の存在がネックになるかもしれない。母親がどの程度暴力に加担しているかは不明だが、少なくとも被害を見過ごす立場にあったのは確かだ。


 今回の救出で母親とどう折り合いをつけるか、それは沙月本人も悩んでいるだろう。だが、検察官の由梨さんが言うには、「母親を巻き込めば結果的に法的手続きを取りやすくなる可能性がある」とのこと。母親も被害を受けているなら、連携して父親の暴力を止められるかもしれない。


「じゃあ、そろそろ出ようよ。タクシーを呼んであるから」


 優菜がそう言って、玄関へ向かう。俺も財布と携帯、そして念のための書類をバッグに入れ、後を追った。


 夜道に出ると、少し肌寒い風が吹いていた。タクシーの運転手には大まかな目的地だけを伝え、深くは聞かれないようにする。実際、深夜に高校生の家へ向かうなんて怪しまれてもおかしくない話だ。


「綾音さんは先に近所の通りで待っているって。診断書も準備済み、何かあればすぐ出てきてくれるはず」


 車内で優菜がスマホを見ながら言う。車窓には静かな住宅街の明かりが流れていく。


(どうか、何事もなく沙月を連れ出せますように)


 心の中で祈るようにしていると、車が指定の場所に到着した。運転手に少し余分に料金を渡し「何でもないです」と笑ってごまかすと、すぐに車は去っていった。


 そして、路地を少し奥へ入った場所で待っていた綾音さんを発見する。暗がりの中、白衣ではなく私服姿の彼女は、バッグに医師免許証などを忍ばせてきたようだ。


「隼人くん、優菜さん。お疲れ様……沙月ちゃんの家はあちらよね?」


 細い路地の先には、数件の戸建てが並んでいる。その一角が沙月の家だ。灯りがついているのか、窓から漏れる光が少し見える。だが、ここからでは人の動きまでは分からない。


「沙月には、父親が帰る前に玄関に出てきてもらうつもりだったんだけど……どうかな。今はどんな状況か」


 俺がそう言うと、綾音さんはバッグからスマホを取り出し、「沙月ちゃんにメッセージを送ってみるわ」と画面を操作する。すぐに既読はつくが、返信がこない。


「もしかして、思いのほか早く父親が帰ってきたのかもしれない」


 優菜が少し焦りを帯びた表情で囁く。確かに、予定は狂っている可能性がある。だが、そうだからといって立ち止まるわけにはいかない。


「行こう。沙月を連れ出すタイミングを逃したら、またいつ暴力にさらされるか分からない」


 綾音さんも頷き、三人で小走り気味に路地を進む。夜の静寂を破るように、心臓がドキドキと高鳴っているのを感じた。


 やがて辿り着いた沙月の家は、二階建ての一戸建て。玄関の明かりがついていて、カーテンの隙間から明滅するテレビの光が漏れている。もし父親が既に在宅なら、強引に連れ出すのは相当なリスクを伴うだろう。


「どうする? インターフォンを押したら、父親が出てくるかもしれないよ」


 優菜が不安そうに問いかける。しかし、いくら裏口から回ろうにも、この時間では物音一つで家の中の人間に気づかれる可能性が高い。


「……回りくどい方法は取れない。俺が一人で行くから、綾音さんと優菜は少し距離を置いて見守ってて。万が一のときは通報を頼むよ」


 自分の言葉ながら、肝が冷える。だが、ここで引いていては沙月を救い出せない。俺は意を決して玄関まで歩き、インターフォンを押した。


 ピンポーン、と夜の静寂を裂くような電子音が響く。しばらくして、ガチャリとドアノブが回る音がした――。


「あ……?」


 姿を見せたのは沙月だった。驚いたように目を見開き、俺の顔を見て唇を震わせる。その背後から、テレビの騒音とともに、低く荒い声が聞こえてくる。


「おい、誰が来たんだ……こんな時間に」


 もしやと思い、沙月の肩越しに室内を覗く。そこには、酔いが回ったのかブレザー姿が乱れたままの男が座卓を囲んでいるのが見えた。――父親だ。やはり既に帰ってきていたのだ。


(まずい……)


 沙月は動揺したまま玄関に立ち尽くす。俺は小声で「出られるか?」と尋ねようとしたが、その前に背後の父親が大声を上げた。


「おい、沙月! 何してんだ! 夜中に男を連れ込もうってのか!」


 まるで、言いがかりともとれる怒鳴り声。俺は沙月を庇うように一歩踏み込もうとしたが、父親の足音が玄関に近づいてくるのが分かる。


「くそっ……隼人、下がって……ここは……!」


 沙月が慌てて玄関扉を閉めようとするが、そこに父親の腕が伸びる。バタンという音とともに、扉が勢いよく開け放たれた。酔いのせいなのか、父親の目は血走っている。


「てめぇ、俺の家に何しに来た! 沙月を連れ出すってのか!」


 酒と怒気が混じった口調で、睨みつけてくる父親。これまでも沙月に暴力を振るってきたのだと思うと、怒りがこみ上げるが、ここは冷静さが必要だ。


「俺は沙月の友人です……少し、彼女のことで話がしたくて」


 思わず敬語になってしまう。しかし、父親はそんな言い分を聞く耳を持たない様子だ。掴みかかってこようとした瞬間、玄関の奥から別の人物が割って入ってきた。


「あなた、やめて……!」


 細身の女性――沙月の母親が、必死に父親の腕を掴み、制止するように引きとめた。その動きがあまりにも切羽詰まっていたためか、父親はバランスを崩してよろめく。


 その一瞬の隙に、俺は沙月の腕を引いて外へ連れ出そうとする。しかし、沙月は「待って……」と母親に向かって手を伸ばす。


「お母さん……一緒に、来て……! もう、こんな生活……無理でしょ?」


 母親は驚いたように目を見開き、娘の顔をまじまじと見つめる。彼女自身も暴力を受けているらしく、腕には古い痣が残っていた。


「でも……私……」


 唇を噛んで言葉に詰まる母親。迷っているのだろう。夫に立ち向かう勇気など、これまでなかったはずだ。彼女自身、子どもを守れなかった罪悪感に苛まれているのかもしれない。


 そんな中、父親が再び立ち上がり、玄関に詰め寄る。腕を大きく振りかぶり、娘か妻か、どちらかに掴みかかろうという勢いだ。


「ふざけんな……お前ら、俺を馬鹿にして……!」


 その表情には狂気が宿り、まともな話し合いができる状態ではない。俺は必死に腕を広げて沙月たちを庇おうとした。その瞬間――。


「やめて! お父さん、もうやめてよ……!」


 沙月の叫びが夜の住宅街に響き渡った。涙を浮かべながら、震える声で訴えている。一方、母親は力の限り夫の腕を押さえようとして、必死にしがみつき、その小さな体で必死に抵抗している。


 父親はよろけつつも凄まじい勢いで腕を振るい、母親を突き飛ばした。倒れ込む母親からは短い悲鳴が漏れる。


「くそっ……!」


 俺は思わず父親の肩を掴むが、その腕力は想像以上に強い。酔った勢いもあり、すさまじい力で振り払われる。玄関の壁に背中をぶつけ、肺の奥から苦しい息が漏れた。


(綾音さん、通報してくれてるはず……でも、間に合うか?)


 そう思った矢先、母親が必死で声を張り上げた。


「あなた、もうやめて……! わたしたち、この子に連れ出してもらうわ。もう暴力は……嫌なの!」


 震える手で床をつかみ、膝立ちになりながらも、母親は涙を溢れさせて父親を見据える。その瞳には、今まで押し殺してきた決意の光が宿っていた。


 父親がこの光景を前にしてもなお激高するなら、最悪の事態だ。しかし、彼の表情には一瞬だけ動揺が走る。


「お前……何を言って……?」


 戸惑いとも怒りともつかない声が漏れる。そこに、外からの視線を感じてか、父親は玄関先で一旦動きを止めた。俺が壁に寄り掛かったまま見上げると、彼の瞳には何か揺らぎのようなものがある。


 母親は覚悟を決めたように、床に手をついて頭を下げ、俺と沙月に向かって口を開く。


「お願い……! この子を……沙月を連れ出して。もう、こんなの……だめなの。私も……そのうち行くから」


 その言葉を聞いた瞬間、沙月が嗚咽を漏らしながら母親の手を握った。


「お母さん……! 本当に、いいの……?」


 母親は声にならない悲痛な表情で、かすかに頷く。夫との暮らしを続けるのは難しくても、今すぐ離れられない事情もあるのだろう。しかし、自分の娘だけは安全な場所へ逃がしたいという切なる願いが伝わってくる。


「今だ……沙月、行こう!」


 俺はようやく身体を起こし、母親に軽く頭を下げてから、沙月の手を取る。今なら父親も何かに戸惑っているのか、追いかけてくる気配がない。


「ごめん……お父さん、お母さん……」


 沙月は小さく呟くように謝罪しながら、玄関の外へ一歩を踏み出した。母親は父親を押し留めるようにして、その身を預けている。二人の姿が玄関の明かりの中に残る。


 視線が合ったとき、母親は涙を浮かべながら口を動かした。「ありがとう」という言葉を発したように見えた。それが事実かどうかは分からないが、俺たちは少しでも早く安全な距離まで離れる必要がある。


 外へ出ると、暗がりの先から綾音さんが小走りに駆け寄ってきた。車のヘッドライトが微かに光を放ち、後ろには優菜もいる。


「大丈夫、沙月ちゃん……? 怪我はない?」


 綾音さんが慌てた様子で沙月の身体をチェックしてくれる。沙月は身体の震えを止められないでいたが、何とか無事を確認できた。俺も、背中を打った痛みはあるものの大した怪我ではない。


 優菜が「早く行こう」と声をかけると、俺たちは車へ向かって走った。もし父親が追ってきたら、さっきのように暴力で押し込まれるかもしれないが、玄関で母親が押さえている限り、しばらくは追ってこれないはずだ。


 車に乗り込むと、綾音さんが運転席に座り、エンジンをかける。すぐに住宅街を抜ける形で走り出す。バックミラーには、玄関先の家がゆっくりと遠ざかっていくのが映った。


「お母さん……大丈夫、かな……」


 沙月が消え入りそうな声で呟く。家には父親が残っているが、彼女の母親の意思があれば、後日きちんと支援機関を通して避難や離婚手続きなどのサポートが受けられるはずだ。今はそれを信じるしかない。


「とりあえず、今日は安全な場所に行こう……沙月、大丈夫?」


 俺が声をかけると、沙月は涙を拭いながら小さく頷いた。表情は不安に満ちているが、確かな安堵も感じられる。母親が背中を押してくれたことが、大きかったのだろう。


 優菜は助手席でスマホを操作しながら「これで少しは前に進めそうだね」と言う。彼女の言葉に俺は深く頷いた。今夜の行動はリスクが大きかったが、沙月を保護するという最初の大きなハードルは越えられた。


「……ありがとう、みんな……」


 沙月が震える声でそう呟いた。誰もが安堵の息をつきつつも、胸にはいまだ緊張の名残が残る。


 しかし、これで救済への道が完全に開けたわけではない。沙月の父親に対する法的措置や、彼女自身のトラウマのケア、さらに母親をどう保護するかなど、課題は山積みだ。


 それでも、今夜の出来事は確かな一歩だ。もし母親が父親を制止しなかったら、あるいは暴力がエスカレートしていたら、何が起きたか分からない。でも母親は最後の最後で助け舟を出し、娘の未来を託してくれた。


 深夜の国道を走る車内は、しばらく誰も口を開かなかった。隼人の腕の中で静かに肩を震わせる沙月が、ようやく心の重荷から解放され始めているのだろう。優菜や綾音さんの眼差しにも、疲労の中に安堵が混ざっていた。


(これで、沙月はとりあえず安全な場所へ避難できる……あとは治療と手続きがスムーズに進むよう、みんなで支えていくだけだ)


 そう思いながら窓の外を見つめる。深夜の街灯が車窓をかすめ、闇の中を次々に過ぎ去っていく。この逃避行にも似た一夜が、沙月の人生を大きく変えていくに違いない。


 俺はその変化を、最後まで見届けよう。彼女の母親も、いずれは救い出してほしいと願うなら、その道を一緒に探すつもりだ。


 車が目的地へ向かうカーブに差しかかると、沙月はそっと目を閉じ、静かな寝息を立て始める。極度の緊張が解け、身体が一気に限界を迎えたのだろう。瞼には涙の痕がほんのり残っていた。


「ご苦労さま、隼人くん。しばらくは大変だけど、頑張りましょう」


 運転席の綾音さんが、バックミラー越しにそうつぶやき、頼もしげに微笑む。その隣で優菜も小さく手を振って同意を示す。


 緊迫した夜はまだ終わってはいないが、ひとまずは大きな前進を果たした。沙月にとって、新しい一歩を踏み出すための夜。この始まりが、やがて彼女自身が笑顔を取り戻す未来へと繋がるように――俺はそう信じて、黙って頷いた。

ご一読くださり、ありがとうございました。

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