第5話 協力者たちの力
「沙月を救いたい。だけど、俺一人の力じゃ限界がある……」
リビングで一人つぶやいた俺は、まだ見ぬ重圧を前に、一瞬だけ足がすくむような感覚を覚えた。自宅マンションに差し込む午後の陽ざしは柔らかいが、胸の中の不安は晴れないままだ。
沙月は「助けてほしい」と言ってくれた。あのとき崩れ落ちた仮面の奥には、家庭内暴力に怯えながら必死に生きる少女の姿があった。俺は彼女を放っておけない。だが、具体的にどう動くかを一人で考えるには、この問題はあまりにも重い。
そんなとき、頭をよぎるのは協力者たちの存在。今や、俺の周りにはかつて救った彼女たちとの繋がりがある。沙月の問題を解決するために、彼女たちの力を借りることはできないだろうか。
「……とりあえず、綾音さんには診断書の件をお願いしているし、優菜なら何かしら調査ができるかも。由梨さんに相談すれば法的な後押しもあるかもしれない……」
キッチンで冷えたコーヒーを温め直しながらブツブツと呟く。学業やアルバイトを犠牲にしてでも、沙月の救済に全力を注ぎたいと思うのは自然な感情だった。
沙月には俺の寝室で休むように言っておいた。このところ、まともに眠れずにいたせいか、急に安堵感が生まれたのだろう。家から逃げ、俺の家で「助けてほしい」と本音をこぼせたことで、ほんのひとときの安らぎを得たのかもしれない。
「何をすればいいか整理してみよう」
マグカップを片手にリビングへ戻り、テーブルの上にメモ帳とペンを広げる。まずは短期的な目標として「沙月を父親の暴力から守ること」。そして「法的に立ち向かい、沙月が安心して過ごせる環境を手に入れること」。
綾音さんは既に診断書を用意する準備を進めてくれている。あとは沙月が実際に病院へ行き、身体の傷や痣を正式に診てもらうことが必要だ。ここで本人が拒否してしまうと手続きが難しくなるが、幸い彼女は少しずつではあるものの俺を信頼してくれている。
思考を巡らせていると、スマホが軽いバイブ音を立てた。画面を見ると、発信者は優菜だ。
彼女は政治家の娘で以前、家族のゴタゴタに巻き込まれていたところを助けた経緯がある。政界にも顔が利き、情報収集や調査に長けている彼女の力は大きな助けになるはずだ。少し前にこちらから電話を掛けたものの繋がらなかったため、優菜から掛け直してくれたのだろう。
「もしもし、隼人だけど……」
『隼人くん? さっきは出れなくってごめんね。連絡くれるの珍しいね。何かあったの?』
いつも明るくて行動力に溢れる優菜の声が、携帯のスピーカーから弾む。俺は沙月の状況をできるだけ簡潔に話した。すると、優菜はすぐに要領を得たらしく、キビキビとした口調で答える。
『分かったわ。その父親の背景を調べればいいのね? どこまで集められるかは分からないけど、多少の情報は集められると思う。早急に動いてみるわ』
「頼りになるよ、本当に。ありがとう。詳細がわかったら教えてくれ」
『うん。あ、でもあまり期待しないでね。私だからって、何でも調べられるわけじゃないし……でも、できる限りやってみる!』
切れた通話画面に「なんでも協力するよ!」とSNSで追い打ちのメッセージが入り、俺は自然と口元が緩んだ。
さらに、検察官の由梨さんに連絡を入れようかとも思ったが、彼女は仕事が忙しい上に法務の最前線に立っている。簡単に「民事介入してほしい」と頼めるわけでもないが、少なくともアドバイスはもらえるだろう。
(よし……ここまで準備が進めば、あとは沙月の意思を確認したうえで本格的に動ける。あの父親と正面から対峙する覚悟を……持たないといけない)
そう考えていると、寝室の扉が静かに開いた。沙月が小さく欠伸をかみ殺しながら顔を出し、眠たげな瞳でこちらを見る。
「ごめん、起こしちゃったかな? 電話しててさ……」
そう言うと、沙月は首を横に振り、ゆっくりとリビングへ入ってきた。昨夜よりは顔色が良く、多少落ち着いた表情に見える。とはいえ、まだまだ不安定なのは変わらないだろう。
「少し、眠れた?」
沙月はうっすらと微笑むような、でもどこかぎこちない表情で頷いた。
「うん……ご飯、作るの? 私も手伝う……」
思わず苦笑してしまう。ほんの数時間前までは、彼女がこんなふうに積極的に何かをしようなんて思わなかったはずだ。小さな変化かもしれないが、確かに進んでいる。
「ご飯にはちょっと早いかな。でも、ちょうど小腹も空いたし、そうだな……簡単なデザートでも作ろうか。あと、さっき電話でいろいろ話してたんだけど、沙月を助けるために協力してくれる人、たくさんいるんだよ」
すると、沙月は一瞬驚いた顔をする。世の中には、まだ自分に手を差し伸べようとする人たちがいる――その事実に、戸惑いを隠せないようだ。
「どうして……そんな、私なんか……」
呟くように言う沙月に、俺は鍋に水を張りながら答える。
「俺も昔、助けられたことがあったんだ……親を亡くして天涯孤独になったときに。だから、同じように困っている人を見たら、手を伸ばさずにはいられない。しかも、綾音さんや他の人たちも同じ気持ちなんだと思うよ。『自分にできることがあるなら力になりたい』って」
沙月は黙り込むが、その瞳にはわずかな光が宿っているように見える。確実に彼女の心に何かが響き始めているのだろう。
それから俺たちは、一緒にホットケーキを作ることにした。小さな日常の作業が、彼女にささやかな安心感を与えているように思える。今日は特別な料理ではないが、手を動かすうちに自然と会話が生まれた。
「私……怖いんだ、やっぱり。お父さんがどんな反応するか想像すると、震えちゃう」
「分かる。けど、俺や綾音さん、他のみんなで支えるよ……実際に動くと決めるのは沙月自身だけど」
「……うん……でも、もし私が逃げ出したり、お父さんがもっと酷いことになったら……」
その不安は当然だろう。俺はボウルをかき混ぜる手を止め、真剣な眼差しを向ける。
「だからこそ、いろんな人の力を借りよう。足りないところは、俺がなんとかする……これだけ揃えばきっと道は開けるよ」
沙月は息を呑むようにして、瞳を伏せる。過剰な期待を抱かせたくはないが、誰かが彼女のために動いているという事実は大きな心の支えになるはずだ。
「……ごめんね」
「謝らなくていいよ。むしろ、ありがとう。『助けて』って言ってくれたから、みんなも本気になれるんだ」
そう言いながら、俺は自分でも意外なほど強い決意を感じている。沙月の父親と対峙することは、言葉で言うほど簡単ではないだろう。下手をすれば逆上してさらなる暴力に走るかもしれない。だが、俺は絶対に引くわけにはいかない。
ホットケーキが出来上がり、蜂蜜をかけた簡単なデザートでも沙月は「おいしい……」と小さく微笑んだ。わずか数時間前の険しい顔つきに比べると、雲泥の差だ。
ひと段落してから、俺のスマホが再び鳴る。画面に映る名前は「高嶋綾音」。
「はい、隼人です」
『綾音だけど、診断書の準備ができそう。いつでも病院に連れてきてくれればいいわ。ただ、沙月ちゃんが本当に来る気があるかどうか……』
そう、問題はそこだ。綾音さんも十分理解している。被虐待児が病院に行くという行為は、恐怖や抵抗を伴う場合が多い。
「はい、彼女の意思を尊重しつつ、なんとか説得してみます……ありがとうございます、本当に」
『私ができることはわずかだけど、それでもやるから。あとは……隼人くん、くれぐれも無理しないでね』
やわらかな声で心配してくれる綾音さんに、深く頭を下げる気持ちで「ありがとうございます」と繰り返す。
電話を切ると、沙月が興味ありげにこちらを見ていた。すぐに言葉にはしないが、会話の内容を察したのかもしれない。
「病院、行ったほうがいいかな……」
思いがけず、彼女のほうから声をかけてきた。俺は驚きつつも、なるべく冷静に答える。
「うん。暴力の痕があるなら、正式に診てもらって、証拠を残す必要がある……勇気がいると思うけど、綾音さんがきっと優しく対応してくれるよ」
沙月はしばらく黙って考える素振りを見せる。負うものが大きすぎるのは、よく分かっているはずだ。けれど、彼女の瞳に宿るものは、ほんの少しだが決意の色に近い。
「……行く。隼人が、一緒にいてくれるなら……」
ごく小さな声だったが、それを聞いた瞬間、俺は胸が熱くなる。沙月は少しずつ前を向き始めている。そこに協力者たちの力が加われば、きっと道は開けるはずだ。
さらに夕方近くになると、優菜からSNSでメッセージが届いた。
『お父さん、結構借金があるみたい。表には出てないけど、金銭トラブル抱えてる噂も聞いたよ。詳しくは書類を届けるから』
――なるほど。もし父親に借金があるなら、暴力を生む背景になっている可能性が高い。こうした情報を把握するだけでも対策の立てようがある。優菜の行動力には感謝しかない。
「沙月、ちょっといい?」
そう声をかけると、彼女はどこか不安げな表情のまま俺を振り返る。
「どうしたの……?」
「君の父親さんについて、少し情報が入ったんだ……借金とか、そういうトラブルを抱えてる可能性があるらしい。家で暴力を振るう原因の一つかもしれない。だからといって許されるわけじゃないけど、やっぱり専門機関の力が必要だと思う」
沙月は沈黙し、目を伏せる。でも、彼女が逃げ出そうという気配はない。父親が抱える闇を垣間見てしまった以上、これ以上自分だけでは無理だということを薄々感じているのだろう。
「……私、どうなるのかな。お母さんも、きっと何もできない。私が通報したり、警察に行ったりしたら……お父さんは……」
彼女の涙ぐんだ瞳を見て、俺はごく自然に手を伸ばし、沙月の肩をそっと支える。まだ身体に触れることを怖がるかと一瞬迷うが、彼女は拒絶しない。
「大丈夫。もしものときは俺やみんなで守るよ……君は一人じゃないから」
その言葉に、沙月は微かに眉を下げ、口をへの字に結ぶ。今にも泣きそうだが、何とか堪えている。
「……ありがとう。でも、まだ怖い。ほんとに、ごめん……」
「謝らなくていい。怖いままでいいんだよ。その代わり、一人じゃなくてみんなで戦おう」
みんなで戦うという言葉は、少し大げさかもしれない。でも、事実そうなのだ。沙月を救うために、俺だけではなく、綾音さんや優菜、由梨さんたちも力を貸してくれるという確信がある。
(そろそろ……父親と向き合う覚悟を決めないとな)
自分の中でそう呟いたとき、不思議と恐怖よりも使命感が大きく膨れ上がった。もちろん、やるべきことは山ほどある。警察や児童相談所、あるいは裁判所での手続きも視野に入れなければならないかもしれない。
けれど、この少女がもう一度家族という言葉を怖がらずに口にできる日が来るならば、俺はどんな苦労も厭わない。そして、協力者たちの力が加われば、暴力の連鎖を断ち切る確率は格段に上がるはずだ。
このとき、俺の胸中には沙月の父親に立ち向かう覚悟が静かに燃え広がっていた。今までは漠然と助けたいと思っていたが、実際に協力者たちと話をするうちに、行動すべき具体的な道筋が見えてきたのだ。
――そして、遠くない未来、この父親と直面する日が来るだろう。俺は弱い人間かもしれないが、絶対に逃げずに沙月を守りたい。そのために力を貸してくれる人々がいて、彼女も自ら助けを求めてくれた。
きっと、それは救済への大きな一歩。
「よし……みんなの力を借りて、頑張ろう」
小さく口の中で呟いた言葉は、夕焼け色の光に溶け込み、静かに部屋を満たしていく。まだ先は長いが、仲間たちの存在に支えられ、俺は沙月の父親に立ち向かう覚悟を強めていくのだった。
ご一読くださり、ありがとうございました。