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指先に宿る救済~記憶の鎖を解くたびに~  作者: 凪木桜
第1章 初めての救済
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第4話 崩れる仮面

 朝の柔らかな陽ざしが部屋の隅々にまで差し込み、自宅マンションのリビングを照らしている。そんな穏やかな光景とは裏腹に、俺の胸の内は落ち着かない。1時間程前、大学病院で綾音さんに相談してきたばかりだ。彼女から法的手段や診断書の件を含めた具体的な助言を得て、これからどう動くか少しだけ道筋が見えてきた。


 ただ問題は、当の沙月の気持ちだ。彼女自身が動かなければ根本的な救済はできない。暴力を受けているのは事実かもしれないが、いつも以上に心の扉を閉じ気味で、なかなか胸の内を話してくれない。それでも先ほど、電話してきたときの切羽詰まった声を思い出すと、彼女がどうしようもない恐怖の渦中にいることは間違いないのだろう。


「ただいま」


 玄関のドアを開け、意識して声をかける。いつもなら無言で通り過ぎるだけかもしれないが、沙月に少しでも「帰ってきたよ」という合図を与えたい。


 リビングに視線を向けると、ラグマットの上でちょこんと体育座りをしている沙月が見えた。彼女は俺の姿を見るなり、あからさまに視線をそらし、俯きがちに髪をいじる。やはりまだ警戒しているのだろうか。


 だが、そんな彼女の姿には今までとは少し違う雰囲気がある。少し強がっているような――いや、むしろ無理に自分を保とうとしているように見える。


 俺は軽く呼吸を整え、沙月のそばに近づいた。あまり近すぎても圧迫感を与えてしまうから、ほどほどの距離を保って腰を下ろす。マンションに漂う静寂の中、外からの車の走行音だけが微かに聞こえる。


「……退屈しなかった?」


 わざと穏やかな声色を作って訊ねると、沙月は首を横に振る。むしろ退屈なんかではなく、心ここにあらずといった様子だ。それも当然だろう。慣れない場所で、一人で過ごすにはあまりに不安が多いに違いない。


 ただ、これ以上何も聞かずにいるわけにはいかない。彼女がこのまま黙り込んでしまったら、何一つ事態は動かない。俺は意を決して切り出すことにした。


「沙月。ちょっと……君の家のことを、もう少し詳しく聞かせてくれないか?」


 彼女の肩が微かに震えた。ちらりと見上げた目は、警戒と恐れが入り混じった色合いを帯びている。俺はその様子を見て、一瞬言葉を飲み込んだが、やはり踏み出さなければならない。


「嫌だったら無理に言わなくてもいいけど……でも、俺としては、君を助けたいと思ってる。具体的にどう助けるかは、君の状況を知る必要があるんだ」


「……助けたい、って……?」


 小さな声で彼女が呟く。その響きはどこか空虚なようでいて、ほんの少し期待が混ざったようにも感じられる。


「そう。助けたい。君、帰りたくないって言ったよね。理由は……たぶん、あの痣のことなんだろう? お父さんが、暴力を振るうって……」


 言葉を続けると、沙月はピクリと反応する。やはり深く突っ込まれたくないのか、俯いたまま口を一文字に結んだ。しばらくの間沈黙が降りた。


 俺は、彼女が気持ちを整理する時間を待とうと思い、無理に詰め寄らない。人が自分の傷をさらけ出すのは容易ではない。だからこそ、少しずつ心を開いてくれるのを待つのだ。


 ところが、不意に沙月が立ち上がった。スカートの裾が揺れ、彼女の小柄な身体がわずかに震えているのが分かる。


「……別に、そんなことないから。家でちょっと喧嘩しただけ……私、もう帰るよ」


 強がった口調。逃げるような視線。彼女の言葉は明らかに矛盾しているが、それは自分自身の心を守るための嘘なのだろう。


「そう……なのか?」


 本当はそうじゃないと知っているが、あえて曖昧に返す。彼女がそこで心を開いてくれることを願いつつ、少しだけ待ってみる。


 案の定、沙月は俯いたまま黙り込み、その場から動こうとしない。もし本当に帰りたいなら、いっそ強引にでも家を出るだろう。しかし、そうしないということは、どこかに「帰りたくない」という本音があるに違いない。


「……その腕の痣、ただの喧嘩でできるものじゃない。俺にもわかるよ。医学の知識がある人に見せれば、一目で家庭内の暴力だってバレる」


 自分でも、きつい言い方だとは思う。だが、こうでもしなければ、彼女が本心を口にするタイミングはやってこないかもしれない。


 沙月は、一瞬だけこちらを睨むように顔を上げた。その瞳には意地や反発心が宿っているようにも見える。でも、その裏側には震えるような弱さが透けていた。


「……黙ってよ。私のことなんか関係ないでしょ」


 その言葉に胸が痛む。だが、ここで引き下がるわけにはいかない。彼女の心の殻を壊すためには、もう一歩踏み込む必要がある。


「関係ないかもしれない。でも、見過ごせない。俺は目の前で苦しんでいる人を放っておけないんだ。綾音さん……俺の知り合いの女医さんも、君の痣はただごとじゃないって言ってた。もし病院で診断書を取れば、法的に立ち向かうこともできるかもしれない」


 沙月は耳をふさぐように両手を頭に当て「やめて」と呻くようにつぶやいた。その姿は悲痛で、見ているだけで胸が締め付けられる。


 しかし俺は、決して責め立てるわけではなく、ただ彼女自身の口から本音を聞きたいと思っているだけだ。暴力の連鎖から抜け出すには、何よりもまず、彼女が”助けを求める勇気”を持たなければならない。


「あの……帰るなんて言ったけど、本当は、帰りたくないんだろ?」


 再び沈黙が降りた。耳をふさいだままの彼女が首を横に振る。そこで一息ついて、静かに言葉を続ける。


「君の父親さんは、きっと暴力をやめない。これまで耐えてきたかもしれないけど、それが君の心と身体をどれだけ蝕んでいるか……君の記憶から俺はその一端を見てしまったんだ。放っておいたら、もっとひどいことになるかもしれない」


 彼女の肩が小刻みに震え、涙が落ちそうになっているのが見える。俺は近づきたい気持ちを抑えつつ、少し距離を空けたまま優しく声をかける。


「怖いなら怖いって言っていい。辛いなら辛いって言っていい。俺を拒絶してもいい。でも……俺は、君を助けたい。ずっとそう思ってる」


 微かな鼻をすする音。俯いた顔から伝わる緊張感が、部屋の空気をビリビリと震わせるようだ。もう一押しなのか、それともここで引くべきなのか――判断は難しい。しかし、彼女が逃げずにここにいる限り、今はぎりぎりのところで踏みとどまっていると信じたい。


 やがて、沙月はふらふらと足元が崩れるようにペタンと座り込み、か細い声で「強がり……じゃ、ない」と呟いた。


「私、何も怖くないって思ってた。家のこと、どうにかなるって……でも、ずっと逃げられなかった」


 思わず息を呑む。彼女が初めて家のことについて言及した。


「沙月……」


 さらに続く言葉を待ちたいが、彼女の心が折れてしまわないか心配で、慎重に息をつめる。すると、沙月は強がりの仮面を必死に保とうとしていたのか、歯を食いしばりながら肩を震わせる。そして、大きく息を吐いたあと、消え入りそうな声でこう言った。


「……助けて、ほしい……」


 そこに宿るのは極限まで張り詰めていた少女の心が崩れ落ちる瞬間。その声には誰にも言えなかった哀しみと苦しみが染みついている。ずっと一人で抱えていたものが、限界を迎えてようやく零れたのだろう。


 俺は心に熱いものがこみ上げてくるのを感じながら、そっと沙月のそばに近づく。とはいえ、抱きしめたり手を握ったりすれば、まだ抵抗を感じさせてしまうかもしれない。だからこそ、あくまで控えめに距離を取りながら、はっきりと頷く。


「分かった……本当に辛いときは、誰かを頼ってもいいんだ。俺や綾音さんを頼ってくれてもいい。もし勇気が出ないなら、一緒に考えていこう」


 沙月はこくりと頷いた。肩を震わせながら、顔を隠すように俯く。その瞳には涙が浮かんでいるが、何とか耐えているようだった。


「……こんな、弱いとこ……見せたくなかったのに」


 どこか悔しそうな、その声に胸が痛む。これまで彼女は、どれだけの苦痛を押し殺して過ごしてきたのか。想像するだけでも暗澹たる気持ちになる。


「弱いなんて思わないよ。むしろ、耐え抜いてきた君はすごいと思う……でも、もう耐え続けるだけじゃなくて、逃げ道を探したっていいんだ。助かる方法を模索したっていい」


 自分でも気づいていなかったが、声が少し震えている。沙月の痛みが、まるで自分自身のように突き刺さってきている。


 沈黙が部屋を包む。外から差し込む光が徐々に強くなり、昼近くになろうとしていることを感じる。この静寂の中で、俺も沙月も何かを噛み締めているようだ。


 ふと気づくと、沙月がゆっくりと立ち上がり、キッチンの方へ視線を向けた。鍋や食器が片付かずに置かれているのを見て、少しだけ申し訳なさそうに眉を寄せる。


「……何か、手伝うこと、ある? 私、何もできないかもしれないけど」


 まさかの言葉に、俺は思わず目を見開いた。彼女なりに、ここにいることに対して遠慮を感じているのだろうか。


「いや、そんな……君は休んでいいんだ。無理しなくてもいいよ」


 そう言ってやると、沙月は首を横に振る。


「……何もしないでいると、考えちゃうから……それより、何かしてたほうが落ち着く」


 それもまた一つの逃げ方なのかもしれない。けれど、彼女の中で「助けてほしい」と打ち明けた後、少しでも立ち直る術を探しているように見える。


「じゃあ……一緒に、簡単な昼ご飯でも作ろうか。買い置きがあるから、パスタくらいならできると思う」


 そう提案すると、沙月はかすかに口元を動かして、わずかに「うん」と頷いた。これが、彼女なりの意志表示なのだろう。


 こうして俺たちは、ささやかな行動を共にすることで、僅かに空気を変える。まるで「助けてほしい」と言ったあとの一歩を踏み出すように、少しぎこちない足取りながらもキッチンへ向かった。


 沙月は包丁を持つのも不慣れなようで、最初は遠巻きに見ていたが、そのうちに少しだけ手伝ってくれた。玉ねぎを細かく刻みながら、俺はちらりと彼女の表情を盗み見る。先ほどまでの沈痛な面持ちが、ほんの少しだけ和らいでいるように思えた。


「……大丈夫?」


と問いかけても、沙月は小さく頷くだけ。けれど、その無言の仕草に先ほどの強張りは感じられない。


 ただ、根本的な解決にはまだ遠い。彼女の父親の問題、法的手段の選択肢、そして彼女自身がどこまで覚悟できるか――課題は山積みだ。


 けれど、「助けてほしい」とさえ言ってもらえたなら、それは大きな前進だ。俺一人の力では限界があるかもしれないが、女医の綾音さんや過去に助けた人々のつながりを頼れば、彼女を救える可能性は高まる。


 やがてパスタが茹で上がり、即席ながらもカルボナーラ風の料理が完成した。皿に盛りつけてテーブルに置き、食べようと席につくと、沙月が思いのほか真剣な顔でこちらを見つめる。


「……ありがと」


 そんな彼女に対して、俺は首を振る。むしろこちらこそ彼女が踏み出してくれたことへの感謝を感じていた。


「いいんだよ。腹が減ると元気が出ないし、とりあえず腹ごしらえ」


 ありきたりな言葉だが、沙月は何も言わずにスプーンを手に取り、一口、そしてまた一口と静かに口に運ぶ。初めて一緒にご飯を食べるという事実が、何だか新鮮に思えて、俺まで緊張してしまう。


 だが、固くなりそうな空気をほぐそうと深呼吸をしたとき、沙月の瞳が潤んでいるのに気づいた。泣きながら食べる彼女を見て、胸が締め付けられる思いになる。きっと、いろいろな感情が一度にあふれてきているのだろう。


「……ごめん。こんなの……へん、だよね」


 小さく呟く声。俺は首を振り、柔らかく微笑む。


「泣いたっていいよ。今までずっと、泣きたくても泣けなかったんじゃない?」


 それが核心を突いたのか、沙月は声を立てずに目を伏せ、しばらく涙を落とし続けた。俺も声をかけることはせず、ただ横で寄り添い、彼女の気持ちが少しでも安らぐよう願う。


 その光景は、まるで彼女が身につけていた強がりの仮面が崩れ落ちた瞬間のようだった。ずっと大丈夫と繕ってきた分、今はありのままの自分をさらけ出している。それは、きっと救いへ繋がる第一歩だ。


 涙が止まり、少し落ち着いた様子を見せた沙月は、改めてパスタを口に運ぶ。そして、かすかに、ほんのかすかにではあるが、微笑んでいるように見えた。


「……ちょっと、味薄いかも」


 彼女のその言葉に、思わず俺は吹き出しそうになる。先ほどまで深刻だったのが嘘のように、日常的な会話が戻ってきたことが嬉しくてたまらない。


「そうかな? じゃあ、塩こしょう取ってくる。……味付け、足してみようか」


 そこには確かな変化があった。沙月はもう、完全に拒絶の姿勢ではない。踏み出し始めた彼女の心の一歩を、絶対に無駄にしたくない。


 父親の暴力という大きな問題はこれからだ。法的手続きが絡めば、きっと沙月の心にまた激しい動揺が生まれるに違いない。それでも、今日の「助けてほしい」という言葉があったからこそ、俺は改めて決意を固められた。


 ――この少女を救うために。


 仮面が崩れたときこそ、本当の始まりだ。苦しみから抜け出すために、小さな一歩を踏み出した沙月。その一歩を支える覚悟が、俺の中でいよいよ強く燃え上がっていくのを感じるのだった。

ご一読くださり、ありがとうございました。

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