第3話 女医への相談
朝方まで眠れず、気づけば空が白み始めていた。外の世界は平日を迎えたばかりで、通勤や登校の足音が遠くかすかに聞こえる。俺は、ソファに置いたクッションを抱え込むように座り込んでいた。リビングの床には、そのまま寝入ってしまった沙月が、浅い寝息を立てている。
沙月を家に連れてきたのは昨晩。父親による暴力の記憶を断片的に見てしまった俺は、彼女を救わなければならないと強く思った。しかし当の沙月は怯え、不安に支配されている。まともに口を開いてくれたのは、最初の数言と「ごめん」というひとことだけだった。
このままでは埒が明かない。彼女を自宅に戻すわけにはいかないが、だからといって俺一人で何とかできるほど甘い状況ではない。それをひしひしと感じる。
――そこで脳裏に浮かんだのは、ある女性の顔。俺が幼いころから世話になっている女医、高嶋綾音さんの存在だ。いま大学病院で小児科医として働く彼女は、俺が事故の後遺症と孤独に苦しんでいた時に手を差し伸べてくれた恩人であり、いまも変わらない絆で繋がっている。
「綾音さんなら、きっと力になってくれるはずだ」
そう呟いた瞬間、リビングの床で眠っていた沙月がかすかに身じろぎする。腕についた痣が痛むのだろう、寝言のように苦しげな声を漏らした。俺は何もしてやれない無力感にかられながらも、彼女の肩に毛布を掛け直し、そっと頭を撫でたい衝動を抑えた。
あの悲惨な虐待の記憶に触れたあと、彼女は俺との接触を過剰に恐れている。下手に触れれば再び拒絶を招くだろう。ここは焦らず、彼女の心が落ち着くのを待つしかない。
軽くシャワーを浴びたあと、ベッドルームから着替えを取り出して身支度を整える。沙月をここに放置して外出するのは気がかりだが、綾音さんに相談するには直接会いに行くのが一番だろう。それに、当直明けのタイミングを狙えば顔を合わせやすい。
時計を見ると午前七時を回ったところ。これから向かえば、ちょうど大学病院の当直医が交代する時間帯に間に合いそうだ。
俺はキッチンで二人分の朝食を作り、自分の分を黙々と口に運ぶ。頭の中では、この先どうやって沙月を説得し、彼女の父親とどう対峙すべきか、霧のようにもやもやした思考が渦を巻いている。
朝食を食べ終えた俺は、沙月の様子を確認するため彼女に近づく。すると、不意に沙月が目を開けた。夜中はぐっすり眠れたとはいえ、まだ疲れが抜け切っていないのか、瞳は少し充血しており、少しだけやつれたように見える。
「沙月、少し出かけてくる。留守番……大丈夫かな?」
「……行くの? どこへ……?」
掠れた声で問い返す沙月。特に疑いの色はないが、どこか不安を押し殺したような表情を浮かべている。昨夜の記憶共有で俺が見てしまった虐待の光景――沙月はそれを認識しているのだろうか。もしかすると断片的に覚えているのかもしれない。
俺はできるだけ柔らかい声で答える。
「病院に行ってくる……俺が昔からお世話になってる医者がいるんだ。少し相談したいことがあって」
沙月は医者という単語にわずかに反応したが、すぐに興味を失ったように視線を伏せた。まるで何でもいいよとでも言うかのように。
「ここで待っていていいから。沙月の分の朝食もあるから食べれそうなら食べて。あと、何かあったら机の上に置いてあるスマホで連絡して。番号はトップに登録してあるから、俺に直接電話して」
半ば独り言のように説明すると、沙月は無言で頷く。彼女のためにも早く動かなければならない。俺はジャケットを羽織り、玄関へ向かった。
ドアノブに手をかける直前、少しだけ躊躇して振り返る。すると、沙月がこっちをじっと見つめていた。瞳の奥にはどこか悲しげな光が宿っている。そして一瞬だけ、何かを言いかけるように唇が動いたが、言葉にはならなかった。
「行ってくる……必ず、何とかするから」
そう言い残してマンションを出る。見送りの言葉はない。それでも一歩、また一歩と足を進めるたびに決意は固まっていく。俺はもう、後戻りはしない。
***
電車を乗り継いで着いたのは市内屈指の大規模病院。高層ビルのような外観の建物に入り、受付で当直明けの医師を探してもらう。
看護師が不審そうに首をかしげるが、「高嶋先生だね? 夜勤のシフトがあったはずだけど、もう上がってるかも」と教えてくれた。
廊下を早足で進むと、白衣を脱ぎかけの女性が休憩室の前で立っていた。長い黒髪を一つにまとめ、端正な横顔を持つ綾音さんである。
「綾音さん、おはよう」
小走りで駆け寄ると、彼女は少し驚いた表情をしてから柔らかく微笑んだ。
「隼人くん? この時間に珍しいわね。どうしたの?」
綾音さんは、俺が十歳の時に大怪我をして入院していた大学病院で出会った医師だ。当時は研修医だったが、今では小児科の第一線で活躍している。俺の能力については、事故の後遺症がきっかけで不思議なことが起こるようになった――ぐらいには把握しているが、原因については分かっていないので話せてない。
それでも、彼女なら絶対に力になってくれるという確信がある。なぜなら俺が孤独を抱えていた時期に、誰よりも親身になって支えてくれた人だし、その能力を実際に体験しているからだ。
当直室前の簡易ラウンジに綾音さんを誘い、俺は沙月の話を始める。家庭内で傷を負っているらしいこと、帰る場所を拒むほど精神的に追い詰められていること。そして父親が暴力を振るっている可能性が非常に高いこと――。
話の途中、綾音さんは真剣な面持ちで耳を傾け、途中で何度か質問を挟んだ。沙月がどの程度の怪我をしているのか、母親の存在はどうなっているのか、本人は救いを求めているのか――。
「やっぱり、痣は家庭内虐待の可能性が高いわね。特に上腕部や手首にかけての複数の痣があるなら、単なる転倒や打撲とは考えにくいわ」
綾音さんは医師としての知見を交えながら冷静に結論づける。その横顔には険しさが浮かんでいた。
「もし本当に虐待だとすれば、法的手段を取らないと根本解決にはならないわ。警察への通報や児童相談所の介入、もちろん医療的なケアも必要でしょう。隼人くんが一人で抱え込むのはリスクが大きいわよ」
俺は頷きつつも、沙月がそれを望むかどうかを考える。警察や児童相談所という言葉を聞くだけで怯えそうだ。彼女自身が父親を恐れて通報を拒む可能性もある。
綾音さんはそんな俺の気持ちを見透かすように、静かに目を伏せて言った。
「もちろん、本人の意思も大切。でも、暴力が続いているなら一刻も早い対応が必要になるわ。虐待は、心と体の両方を深く傷つけるの。放置すれば最悪のケースだって考えられるから」
最悪のケース――想像しただけで身震いする。沙月がこれ以上傷を負うことは、何としても防がなければならない。
「うん、分かってる。だから、まずは彼女が安心できるようにしてあげたいんだ。それで少しでも気持ちが落ち着けば、そのあと一緒にどうするか考えればいいかなって思ってて……」
そう言うと、綾音さんは沈思黙考の末、ポケットからメモ帳を取り出し、さらさらと何かを書き込む。
「これ、私の個人用連絡先。いつでもいいから、沙月ちゃんが少しでも変わりたいと思ったら連絡できるように渡してあげて。あと、もし隼人くんが話を進めるうえで医療面の証拠を取りたいなら、私が診断書を作成するわ。あくまで彼女の意思を尊重することが大前提だけどね」
メモを受け取りながら「ありがとうございます」と深く頭を下げる。綾音さんは優しい笑みを浮かべるが、その瞳には明確な使命感が宿っていた。
「これ以上彼女が傷つく前に、ちゃんと助けてあげましょう。私で力になれるなら、遠慮しないで」
その言葉に、俺の胸は熱くなる。まるで自分にとっての救いの女神が「次はあの子を救ってあげて」と背中を押してくれているような感覚を覚えた。
「うん……でも、問題は沙月がどう思ってるかなんだ。昨夜、俺が話を聞こうとしても、ほとんど何も言ってくれなくてさ……暴力の恐怖で、心を閉ざしちゃってるみたいなんだ……」
綾音さんは軽く頷く。彼女は研修医時代から、当直で家族からの暴力に傷ついた子どもたちを何度も診てきたことを俺は知っている。今でも当直業務はこなしつつ、当時の経験が今の確信につながっているのだろう。
「焦らなくていいわ。まずは隼人くんが沙月ちゃんにとって『安心できる人』になることが大事。家や学校でも味わえない安心感を提供できれば、彼女は少しずつ自分から語り始めるはずよ。それに、手を差し伸べたいと思う隼人くんの気持ちは本物でしょう?」
まっすぐな視線が俺を射抜く。俺は迷わず頷いた。
「うん。だから、俺も……彼女を本気で助けたい。目の前で苦しんでるのに、黙って見過ごすなんてできないんだ」
「それがいちばん大事なことよ。もし手続き上の問題が出てきたら私に言って。法的な手配とか、児童相談所との連携とか、私が間に入ることでスムーズになることも多いはずだから」
そう言って微笑む綾音さんの姿に、俺はかつて自分が助けられたときのことを思い出す。身寄りを失った俺を、一時的に引き取る手段を整えてくれたのも彼女だった。あのとき、どれだけ救われたか分からない。その恩を、今度は沙月のために返す番なのだろう。
ラウンジの時計が八時半を指している。朝の回診に向かうのだろう、院内の医師や看護師が廊下を忙しなく行き交う。
「ごめんなさい。私、もう少しで回診があって。何かあったらすぐ連絡して。そうだ……その子、検査が必要な怪我を負ってるなら、ここの病院で診るから連れてきて」
「うん。ありがとう」
綾音さんは慌ただしく立ち去っていく。彼女の背中を見送りながら、俺はメモ用紙を握りしめる。救いへの扉は確実に用意されている。でも、その扉を開くのは沙月自身の意思だ。
――どう説得するか。そこが最大の難関だろう。虐待を受ける子どもの心理は複雑だ。父親を憎みながら、まだ情のようなものが残っているかもしれないし、家族という存在にしがみついてしまうケースもある。それを力ずくで変えようとしても、かえって逆効果だ。
手すりに寄りかかり、深く息を吐く。けれど、頭を抱える間もなく、携帯が震えた。画面を見ると、マンションに置いてきたはずのスマホから電話がかかっているらしい。
「あれ……?」
そういえば、沙月に机の上のスマホを使って電話するように伝えてあった。まさか、もう何かあったのか。嫌な予感が胸をよぎり、慌てて通話ボタンを押す。
『……隼人、さん……?』
受話口から聞こえるのは掠れた小さな声。確かに沙月のものだ。彼女の方から電話をかけてくるとは思わなかったから、動揺してうまく言葉が出ない。
「どうした? 具合が悪いのか?」
不安を抑えつつ問いかけると、少し間が空く。そして、かすかな震え声が返ってきた。
『怖い夢、見て……それで、目が覚めて……でも、誰もいなくて、どこにも行けなくて……』
夢。きっと父親の暴力の夢だろう。家を離れてもなお、心に深い傷が刻まれている。そんな怖い夢を見て、頼るものがなくて、初めて電話をしてきたというわけだ。
俺は胸が痛むと同時に、彼女がこちらを頼りにしてくれたことが少し嬉しかった。やはり、心のどこかで助けを求めているのだ。
「分かった。もう少ししたら戻るから……それまで部屋で待ってて。俺が帰ったら、少し話をしよう」
そう告げると、沙月は無言で頷いた気配を残して電話が切れた。相変わらず言葉は少ないが、彼女が俺の言葉に肯定的な反応を示したのは事実だ。
――説得するチャンスかもしれない。綾音さんが言っていたように、まずは安心できる居場所をつくってあげる。そこから少しずつ「守られている」「頼っていいんだ」と感じてもらえれば、一歩前に進めるはずだ。
相談できる相手がいる――それは俺自身がかつて救われた言葉でもある。今度は沙月の番だ。この少女の未来を縛る鎖を断ち切るために、俺は立ち向かう。彼女が泣き崩れながらも、勇気を振り絞って「助けて」と言えるようになる日まで、絶対に諦めはしない。
ご一読くださり、ありがとうございました。