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指先に宿る救済~記憶の鎖を解くたびに~  作者: 凪木桜
第1章 初めての救済
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第1話 孤独な少女との出会い

三作目となります。

ご一読いただけると幸いです。

 地球上に満ちる大気のほぼ八割は窒素であり、続いて酸素がおよそ二割を占める。私たちは当たり前のように息をしているが、ほんの少し成分が異なるだけで生命が維持できなくなる――そんな、繊細な均衡の上に人間は立っている。大学で環境科学の基礎を学んだ頃、教授が語った言葉を思い出しながら、俺――白石隼人(しらいしはやと)は日曜日の秋の夕暮れに染まる公園を歩いていた。


 辺りは赤橙色の空気で満たされ、まるで世界全体が柔らかい光のベールを纏っているかのようだ。常緑樹の葉は陽の名残を微かに宿し、歩道脇の街灯は薄暗い中にぼんやりと灯り始める。この公園は大学近くの住宅街にあり、テスト勉強や雑務で疲れたときに一息つきたくなる場所として、俺はよく訪れていた。


 その日は少しだけ肌寒く、風が吹くたびに木々がざわめき、落ち葉が地面をかさかさと鳴らしている。木製のベンチに腰掛けてぼんやりと景色を眺めていたとき、視界の端にある人影が映った。夕暮れの色彩に溶け込みそうな、ひとりの少女が立っている。髪は黒く短めで、そっと垂れた前髪が顔の半分ほどを覆っていた。制服のセーターは少し大きめで、身体が華奢であることが分かる。


 彼女は、微動だにせず、彫像のように立ち尽くしていた。まるで空気と同化しているようで、他の通行人には見えていないようにも思える。その無表情で生気の薄い佇まいに、俺はなぜか胸がざわつくのを感じた。


「……珍しいな」


 独り言のように呟きながら、俺は彼女の方へ歩み寄る。すると、彼女の瞳がわずかに動き、こちらを見た。しかし声を発することはない。薄い唇と伏し目がちの視線。警戒しているのだろうか、それとも単に無関心なだけなのか。


 もっと近づいて、はっきりと顔を確認しようとしたとき、スカートから覗く細い脚が少し震えているのが見えた。夕方の冷え込みもあるかもしれないが、その姿にはどこか痛々しさを感じた。


「あの……大丈夫?」


 できるだけ柔らかい声を出したつもりだったが、彼女は反応しない。ただ、かすかに首を横に振る。その仕草は、まるで不安定な心を象徴しているかのようだった。


「具合が悪いのか、それとも誰かを待っているのかな?」


 返事はない。沈黙が降りる。近くを通る親子連れが、ちらりとこちらを見たが、すぐに通り過ぎていった。公園の中央にある噴水はもう動いておらず、陽が沈むに従って周囲はひんやりとしてくる。


 少女は秋風を受けて、何かを耐えるように肩をすくめた。そのときセーターの袖が少しずれ、腕に隠されていた痣のようなものが見えた。


 俺は思わず息を呑む。透き通るほど白い肌の上に、紫色の痣がはっきりと浮かび上がっている。それだけではない。手首にも小さな傷痕が幾筋も走っていた。


「……それ、痛まないか?」


 思わず言葉が出る。少女は一瞬びくりと肩を震わせたが、すぐに無表情に戻り、今度は微かに頷いた。それは痛みを肯定するようで、同時に諦めも滲んでいるように見える。


 俺の胸の奥が、ひどくざわつく。不思議なことに「どうして?」と問う前に、「助けてあげたい」という思いが湧き上がるのを感じた。


 自分は大学生で、他人の人生に迂闊に踏み込んでいいものか――そんな理屈よりも先に、彼女を見捨てられないという感情が動く。俺はもう一度、声をかけた。


「名前、教えてくれないか?」


 無反応かと思ったが、少女はぽつりと声を落とす。


「……沙月(さつき)


 掠れるような、しかしどこか透明感のある声だった。


 名前を教えてくれたことが嬉しくて、思わず微笑んでしまった。その様子に沙月は不審そうに少しだけ眉をひそめる。


「俺は白石隼人。大学三年。近くのマンションに住んでる……こんな時間だけど、家には帰らなくて大丈夫なのか?」


 その問いに、沙月は沈黙で答える。無言の時間がまた訪れ、やがて彼女はふいと視線を外す。


 夕闇が深まる中、木々が風に揺れてザワザワと音を立てる。まるで彼女と俺との会話を傍で聞き耳を立てているように思えた。


「帰りたく、ない」


 小さく、掠れた声が再び漏れる。腕の痣がどうしてできたのか、想像するに難しくない。ここで踏み込みすぎると警戒されるかもしれない。しかし何もしなければ、彼女はこの冷たい風の中に取り残される。


 葛藤の末、俺は意を決して提案する。


「うちに来るか? ……と言っても、変な意味じゃない。少し温まって落ち着いてから、改めて話を聞かせてほしい」


 バイト先で貰った栄養ドリンクや、簡単な食材なら部屋にある。暖かい飲み物を出せば、彼女も少しは警戒を解いてくれるかもしれない。


 無謀かもしれない。けれど、ここで見捨てたら一晩中眠れないのは目に見えていた。俺はできるだけ誠実な眼差しを向けようとしたが、沙月は表情を変えず、手首を押さえて俯く。


 そして、ほんの少しの時間が流れたのち、かすかに頷いた。どこか呆然とした顔つきのまま、俺をまっすぐ見つめる。その瞳には不安も滲むが、ほんのわずかな期待のようなものが宿っているようにも思えた。


 歩き出した沙月の足取りは頼りなく、小枝が落ちた道で躓きそうになる。すかさず腕を支えようとすると、彼女は反射的に肩をすくめた。触れられることを拒絶する仕草――その反応に、より一層深刻な事情を予感する。


 それでも何とか並んで歩き始めると、夜の街灯が二人の影を地面に落とす。人通りの少ない道を歩きながら、俺は心の中で何度も「大丈夫だ、何とかなる」と自分に言い聞かせた。


 マンションへ向かう途中、スーパーがまだ開いていたので立ち寄る。温かいスープでも作ろうかと思い、野菜や鶏肉を少し買い込んだ。沙月は興味がなさそうに店内を見回していたが、俺がカゴに入れたジャガイモを見て「……それ、好き」と小さく呟いた。


 その一言で、少しだけ会話が弾む。どうやらシチューが好きらしいとわかり、俺は自然と笑顔になる。沙月の瞳にわずかな戸惑いが浮かぶが、嫌悪感はないようだった。


 部屋に着くと、玄関で靴を脱いだ沙月は所在なさげに立ち尽くす。俺は「どうぞ」と促しながら、広々としたリビングへ案内した。大学生の身分で3LDKの高級マンションに住んでいるのは不釣り合いかもしれないが、そこにはそれなりの事情がある。白を基調とした内装はモダンな雰囲気で、天井も高く、床には木目調のフローリングが広がっている。


 沙月は壁際にちょこんと腰をおろし、言葉少なに部屋の中を見回している。落ち着きのなさそうな瞳の動きから、広い空間と静謐な空気に圧倒されているのが伝わってきた。俺はせめて彼女が少しでもリラックスできるように、部屋の照明を少し落として柔らかい光に変え、キッチンへ向かう前に「ゆっくりしていて」と声をかける。


 やや緊張した面持ちのまま、沙月は何かを言いかけては口を閉じる。その表情にはまだ警戒心が伺えるが、ここまで来てくれただけでも大きな進歩だろう。とりあえず、温かい飲み物と食事を用意してから、ゆっくりと話を聞くつもりだ。


「すぐシチューを作るから。ちょっと時間かかるけど……」


 そう声をかけると、沙月はコクンと首を縦に振った。目に宿るのは、まだ警戒と少しの疲労。でも公園で出会った直後に比べれば、わずかながら安心感が漂っている気がする。


 冷蔵庫から材料を出し、俺は慣れた手つきで調理を始める。包丁で野菜を切っていると、ふと背後から視線を感じた。振り返ると、沙月が黙ってこちらを見ている。シチューに入れる食材の彩りをじっと見つめている姿は、まるで遠い景色を眺めるかのようだ。


 火加減を調整しながら、どう切り出すべきか考える。彼女の腕の痣、そして帰りたくない理由。直接尋ねたら傷つけてしまいそうだ。だが、事情を聞かなければ、助けるにも手立てがない。


 そんな思いが混ざり合う中、煮込んだシチューの香りがキッチンを満たし始める。砂時計の砂が落ちきるように、俺の意識から周囲の音が遠ざかっていく。


「……助けて、ほしい」


 不意に背後から聞こえた小さな声。その言葉を耳にしたとき、まるで胸の奥に冷たい氷が落ちたようだった。振り向くと、沙月は俯きがちに右手の袖を引き上げ、紫色の痣を俺に見せる。


「お父さんが……私を……」


 そこまで言うと、言葉が続かない。唇が震え、かすれた呼吸音だけが聞こえる。俺は包丁を置き、火を弱めてから、彼女に向き直った。


「……大丈夫。無理に話さなくてもいい。俺は、ちゃんと聞くから」


 そう伝えると、沙月はまるで耐えきれなくなったかのように顔を伏せ、か細い嗚咽を零した。その涙の一粒一粒が、この部屋の温度と同じくらいぬくもりのない、冷たい悲しみを宿しているようで胸が痛む。


 俺は彼女との距離をそっと詰め、崩れ落ちそうな肩に一枚のタオルをかける。抱きしめるようなことをすれば今は余計に怖がらせてしまうだろう。けれど、この子が本当に望むなら、いつかは支えになりたい――そんな想いが心の内側に渦巻いていた。


「ありがとう……」


 震える声でそう呟いた沙月を見て、俺は決意する。この子が抱える闇を、たとえ少しでも照らせるように寄り添いたい。俺には「人の記憶を共有する」という、不思議な能力がある。だが普段は必要がない限り使わず、誰にも知られないようにしてきた。


 もし、この力を使えば、彼女の内面に隠された苦しみを直接知ることができるかもしれない。しかし、それが本当に彼女のためになるのかどうか、判断がつかない。


 ――ともかく、今は温かい食事と休息が必要だ。根本的な問題に踏み込むのは、それからでも遅くはない。俺は鍋を火から下ろし、シチューを器に盛った。


「熱いから、ゆっくり食べて……ジャガイモ、好きなんだろ?」


 差し出した皿を受け取った沙月は、静かに頷き、スプーンを手にした。最初のひと口を口に含んだとき、ほんの少しだけ目を見開く。


「……おいしい」


 その一言で、俺の胸は熱くなった。ほんの些細な反応だけど、彼女にとってはきっと大きな一歩なのだろう。


 外ではすっかり夜の帳が降り、窓の外には街灯がいくつも灯っている。俺たちは黙々とシチューを食べた。湯気に混じって、わずかに沙月の涙の跡が見え隠れしていた。


 やがて、沙月は器を置き、静かに目を閉じる。温かい食事と安心感で、気力が尽きたのだろうか。ほとんど倒れ込むように、リビングの床に身を沈めた。


 慌てて様子を見ると、浅い眠りに落ちているようだ。俺は毛布を引っ張り出し、彼女の身体にかける。震えかけた唇が、少しだけ緩んでいるのを確認して、ほっと胸を撫で下ろした。


「沙月……か」


 小さく名前を呼んでみる。家に帰りたくない理由、腕の痣、そして震える声で紡がれた「助けてほしい」という言葉。すべてが彼女の苦しみの深さを物語っていた。そして必要ならば――いや、きっと必要だろう。俺は自分の能力を用いて彼女の真実を確かめ、可能な限り救いたいと思う。


 奇妙な静寂が訪れた部屋の中、窓の外からは車の走る音がかすかに聞こえる。そんな日常の音すら、どこか遠い世界のことのようだ。


 この少女が背負う痛みはどれほど深いのか。思いを馳せるたび、胸が締めつけられる。けれど、何かできることがあるならば、俺は迷わず手を差し伸べよう。人が人を救うのは、理屈ではなく願いに近い。


 そう信じるのは、きっと俺がこれまでに助けてもらった記憶を、誰よりも大切にしているからだ。もし俺に託された小さな力が役に立つなら、躊躇する理由などない。次第に眠りへ落ちていく沙月の横顔を見ながら、俺は静かに決意を固めたのだった。

ご一読くださり、ありがとうございました。

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