8.ピンチはチャンス
どうしたらいいのだろうかと、困ったのは一瞬。ニコラさんが私の手を引き、棚の陰に隠れて古布を被った。
ニコラさんの胸に寄りかかり、息をひそめて、周囲の音に集中する。
「いるか?」
「いや、誰もいないぞ」
「確かに、ここに入っていくのを見たんだ」
「気のせいじゃないか」
「おかしいな、絶対ここだ」
「あいつら最近稼いでいるから、絶対金持っているぞ」
「探そうぜ」
すぐ近くで聞こえる話声に、心臓がバクバクと音を立てて鳴っている。路地裏であんなに稼げば、目を付けられるなんて少し考えればわかることだったのに、そこまで頭が回らなかった。
「おい、これ見ろよ」
「金だ」
その声が聞こえた瞬間、思わず身体がピクリと動いたけれど、ニコラさんに動くなと言わんばかりに抱きしめられる。
「やったな」
「やっぱり稼いでやがるな」
「まあ、最近はあいつらのところばっかり客が増えていたからな」
「ところで、あいつらどこだ?」
「さあ、出かけているんじゃないか? 今の内に貰っちまおうぜ」
「おう、ラッキーだったな」
耳を澄まして、足音が完全に消えるのを待っている間、ニコラさんは震える私の背を擦って抱きしめてくれる。
ここ最近で稼いだお金を取られてしまった。
「ソフィ大丈夫か?」
「……はい。びっくりしました」
「あの声は靴磨きしている奴だ」
「あの道にいる人ですか?」
「ああ、聞いたことある声だ」
靴磨きの通りでは、最近暇そうにしている人が多かった。明らかにお金を稼いでいる私たちは狙われてもおかしくなかったようだ。偶然ポケットに入れていたのは、この間デリックさんに貰った銀貨一枚だ。その銀貨一枚が私の全財産になった。
今までの私なら、ただただ不安になって落ち込んでいたかもしれない。けれど、今の私は起こったことを悔やんでも何も変わらないということを知っている。
ピンチの時こそチャンスだと言える人になりたい。
ポケットの中の銀貨を握りしめて顔を上にあげる。
「ピンチはチャンスですよ」
「……チャンス?」
「はい。そう思った方がうまくいきそうですから」
ニコラさんはそう言った私の顔を驚いたように目を丸くして見ている。
「それで提案なのですが、ニコラさんは別の場所で働くのは嫌ですか?」
「嫌じゃないが」
「もし、よかったら私と一緒に他の場所に行きませんか?」
「俺とか?」
「はい、マッサージがお金になるってわかったので、ニコラさんと私の食べる分ぐらいは稼げると思います」
「確かにマッサージは金になるだろう。しかし、俺がいても邪魔なだけだ。俺のことは気にしなくていいぞ」
「でも、ここにいたら、またさっきの男たちが来ますよ。ほとぼりが冷めるまででいいので一緒に行きましょう」
あまり気が進まないのか、返事を渋っていたニコラさんだけど、何度も誘うとやっと頷いてくれた。
次の日、朝早くに、荷物をまとめて私と二コラさんと出発した。
「靴磨きは、いつもと同じ所ではできませんから、他のところに行ってみましょう」
「なかなか余所者は受け入れられないぞ」
朝は晴れていたのに、午後になると空が曇ってきた。
その内に、雨が降り出して、私は足を止めた。
「とりあえず雨宿りしましょう」
雨脚が強まって、とてもじゃないけれど屋根がないところにはいられない。
慌てて軒下にお邪魔したそこは、見覚えのある宿屋だった。
「あら、お嬢ちゃん、会えてよかった」
「あ、女将さんこんにちは」
「急に降ってきたからね。用事もあるし、中に入りな」
お金がないから、宿屋に泊まる余裕なんてない。でも、今この状況で雨に濡れてしまって、寒さから震える手を握りしめて、考えた。
今日だけでも屋根のある安心できるところで過ごしたいと。
不安と寒さで弱気になっている自覚はある。
「そうそう、この間の男の子から預かり物があるよ」
「そうだ、気になっていたんです。あの男の子大丈夫でしたか?」
「ああ、次の日には迎えが来て。ほら、これ」
受け取った袋には金貨が五枚も入っている。
「え、あの、これ……」
「あの男の子、恐らく貴族だよ。宿泊料もあり得ないほど上乗せして置いていったんだ」
「これを、私が貰っていいのですか?」
「もちろんさ。ソフィが来たら渡しておくように頼まれたものだからね、貰っておきな」
「ありがとうございます」
テリーのおかげで、金銭的に余裕がでた私は、さっきまでの絶望感が嘘かのように心に余裕が出た。
さっきまでは、不安で胸が押しつぶされそうだったのに、お金の大事さを身に染みて感じた出来事だった。
「ニコラさん、部屋空いているそうです」
「泊まるのか?」
「はい、実は臨時収入があったので、宿泊費も問題ありません」
ニコラさんにこの間助けた子供からのお礼のお金だと説明すると、とても驚いていた。テリーの金貨のおかげで、くつろぎ亭で食事を食べることも、お湯を使うこともできるようになった。
「ニコラさん、今日はお湯を使わせてもらえるから綺麗にしましょうね」
「俺はいい」
「だめです。清潔が一番です」
逃げ腰のニコラさんを捕まえる。
「脱いでください」
「いや、しかし」
「脱がせてあげましょうか?」
「ソフィ、怖いぞ」
「怖くないですよ。ほらほら」
「わかった、わかった」
渋々だけれど、服に手をかけるニコラさん。
「一人で洗えますか?」
「当り前だ」
扉の前で待機すること数分、ニコラさんの入浴タイムが終わった。いつもは髪で隠れている顔が、濡れて後ろに流しているからはっきりと見える。
「ニコラさん……思ったより若かったんですね」
「一体いくつだと思っていたんだ?」
「えーと、四〇歳ぐらいですかね?」
「四〇だって?」
ニコラさんは、薄汚れていたし、無造作に伸びた髪と髭でいつもは顔がきちんと見えなかったのだから、年齢不詳だったのだ。
「いや、その、顔をちゃんと見たことがなかったので、そう思ったけど、今ははっきり顔が見えますからもっと若く見えます」
「若く?」
「はい、三五ぐらいですよね?」
私の予想に、ニコラさんは微妙な顔をしている。
「……二七だ」
「え? なんと言いました?」
「二七だ」
どうやら聞き間違いではないらしい。
「えーと、うん、そう、とりあえず髪も髭も整えましょうか?」
「い、いや……」
「整えましょう」
満面の笑みでそう言った私の迫力はなかなかだったようで、逃げ腰のニコラさんはおとなしく椅子に座った。
「長さの希望はありますか?」
「短くしてくれ」
「それでは切りますよ」
「ああ」
チョキチョキとハサミをいれていけば、 ニコラさんの金色の髪が床に落ちる。髪を切って、髭も剃って、新しい服を着たニコラさんは別人のようだ。
ソワソワとしているニコラさんは、新しい服に慣れないのか、鏡の前に立って微妙な顔をしている。
「なにか気になるところがありますか?」
「いや……こうして自分の顔を見るのは久しぶりで」
「似合っていますよ」
「頭が寒い」
その日はニコラさんと日用品の買い物に出かけた。窃盗被害にあってから、私の荷物はなくなってしまったから欲しい物がたくさんあったのだ。
「ニコラさんは何か欲しい物はありませんか?」
「ない」
それから数日、雨が降っていたこともあり、くつろぎ亭でのんびりと過ごした。くつろぎ亭のご飯はとても美味しくてここでずっとご飯が食べられたら幸せだろうと思うほどだ。
料理は寡黙な旦那さんが作っていて、給仕を明るい女将さんがしてくれる。
「女将さん、いただきます」
「はいよ、たくさんお食べ。足りなかったらおかわりあるからね」
「はい、ありがとうございます」
くつろぎ亭の一階の食事スペースには、机と椅子が並んでいて、朝と夜は時間になれば食事が食べられるようになっている。最初はくつろぎ亭のアットホーム雰囲気に居心地が悪そうなニコラさんだったけれど、女将さんの人柄と食事の美味しさに今では緊張することもなく、リラックスしているようで私も一安心だ。
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