5.肩もみ
「やったー! サービスのつもりだったのに、儲かっちゃいました」
「肩もみとは、そんなにいいものか?」
「ニコラさんの肩も揉んでみていいですか?」
「ああ」
ニコラさんの肩を触って驚いた。痩せてはいるものの、筋肉質で思ったより肩に厚みがあった。ボサボサの髪と伸びた髭は年配のおじさんだと思うけれど、肌の張りは若者のようで不思議だ。
「気持ちがいいものだな」
「本当ですか?」
「ああ」
その日は、お客さんが来るたびに肩もみをした。
サービスだからお金はもらわないつもりだったけれど、たまにお金をくれる人もいて、私はマッサージがお金になることを知った。
「ニコラさん、今日は私がパン屋でパンを買ってきます。すぐ買ってきますから、待っていてくださいね」
たくさんは買えないけれど、パンを二人分買うことができて、どん底だった私の人生に光が見えた気がした。
「ちょっと硬いけれど、美味しいですね」
「……ああ」
その翌日も、ニコラさんが靴を磨いている間に肩もみをする。
靴を磨いている時間、暇を持て余している人が多く、マッサージを申し出て断られることはほとんどなかった。ニコラさんの靴磨きは時間がかかるけれど、まるで新品のように綺麗に磨き上げる。そのことを知っている人は、時間がかかってもニコラさんに靴を磨いてほしいようで、固定客が多いということがわかった。
それからしばらく経ったある日のこと。
「ニコラさん大丈夫ですか?」
「今日は少しばかり調子が悪いだけだ」
足を擦りながら、立ち上がるのも辛そうなニコラさん。
「今日は休んだ方がいいですよ」
「しかし」
「私が代わりに行ってきます」
「ソフィが靴を磨くのか?」
「はい、毎日見ていたらやり方を覚えました。ニコラさんほどは上手にできないと思いますが、やってみます」
心配そうにしながらも見送ってくれたニコラさんのためにも、今日は頑張ろうと思う。いつもニコラさんが使っている場所に、椅子を置いて、道具を確認して準備をすすめていく。
「お嬢ちゃん」
「はい?」
声をかけてきたのは、初日にマッサージした赤毛のおじさんだった。
「ニコラはどうした?」
「今日はちょっと調子が悪いようで」
「なに? どこが悪いんだ?」
「足の調子が悪そうだったので、私が代わりにきました」
「そうか……」
おじさんの心配そうな様子から、このおじさんとニコラさんは知り合いなのかもしれないと思う。
「ニコラさんに用事でしたか?」
「いや、ニコラよりどっちかって言うとお嬢ちゃんに用事だ」
「私ですか?」
「また肩を揉んでくれないか?」
「え?」
「この間お嬢ちゃんが揉んでくれたおかげで、翌日の仕事がずいぶん楽だったんだ。昔、妹に肩もみしてもらった時はそんなに気持ちがいいとは思わなかったんだが、嬢ちゃんの肩もみは本当に疲れがとれたぞ」
「もちろんいいですが」
「ちゃんと金は払う、いくらだ?」
いくらと言われても値段設定なんて考えていなくて、返答に困る私におじさんは言った。
「お嬢ちゃんの肩もみは金になるぞ」
「ありがとうございます」
「金額決めてないのなら、とりあえず銀貨一枚でどうだ?」
「そんなによろしいのですか?」
「それぐらい気持ちよかったんだよ」
「ありがとうございます」
靴磨き用の椅子におじさんが腰かけたから、前回と同じように肩にタオルをかけて、少しずつ揉み解していく。
「ここが特に凝っていますね」
「そうそう、そこがいてぇんだよ」
「ここ、筋肉が縮こまって固くなっていますから、日ごろから肩を回したり、伸ばしてみてくださいね」
「わかった。ところで、もっと強く押してもいいぞ」
「あんまり強くするともみ返しがきちゃうので、あまり強く揉まない方がいいんですよ」
「もみ返し?」
「はい、時間が経つと余計痛みを感じる可能性があるので」
「ふーん、そうなのか、まあ今の強さでも気持ちがいいからいいんだけどな」
おじさんは目を瞑って気持ちよさそうにしてくれる。
揉んで、押して、さすって、あっという間に時間が過ぎていく。
「俺の仕事は体が資本だからな」
「なるほど、だから、腕にこんなに立派な筋肉がついているのですね」
日ごろから鍛えていないと、ここまで太い腕にはならないだろう。
「くぅー、最高だった」
「ありがとうございました」
「おう、まじで肩もみで稼げるぞ。ちゃんと価格設定しろよ」
「はい、頑張ります」
今日はおじさんにもらった銀貨一枚に、靴磨き五人分で銅貨が二五枚だ。
二人分のご飯を買ってもおつりがくる。
無事に稼げた安心感と、マッサージの手ごたえの良さにニコラさんの待つ家に帰る私の足取りはとても軽かった。
「ニコラさん、ただいま戻りました」
「大丈夫だったか?」
「はい、なんとかなりました」
「慣れないことをして疲れただろう?」
「いいえ、ちゃんと稼げて嬉しくて疲れなんて感じませんでしたよ。私、ご飯買ってきます」
「俺も行こう」
「足は大丈夫ですか?」
「一日ゆっくりさせてもらったからな」
「そういえば、男性が来られて、ニコラさんがお休みしていると言ったら心配されていましたよ」
「アークさんか……」
「すみません、名前伺ってなくて。赤毛で、えーと筋肉がもりもりで、大きい方でわかりますか?」
「大丈夫だ、俺を訪ねてくるのはアークさんぐらいだからな」
立ち上がったニコラさんは相変わらず足を引きずって歩いている。その歩みはいつもよりもゆっくりで、きっと痛みがあるのだろうと思う。
「何か食べたい物はありますか? アークさんマッサージを気に入ってくれて、お代多めに多めにいただいていますから、何か食べましょう」
「俺はなんでもいい」
「じゃあ、串焼きにしましょう」
二人で買い物を済ませてから、帰る途中、路地裏に人が倒れているのを見つけた。
「あ、誰か倒れています」
駆け寄ろうとしたのを、とめたのはニコラさんだった。
「ソフィ、だめだ」
「どうしてですか?」
「危険だからだ」
ニコラさんは難しい顔で、倒れている人を気にする私に向かい首を振っている。
「行くぞ」
「は、はい」
後ろ髪を引かれながらも、ニコラさんについていく。
「親切は命取りになるぞ」
ニコラさんにここまで言わせる何かが路地裏の生活にはあるのだろう。確かに私だって少し油断しただけで、荷物を取られたぐらいだし、かなり物騒ではある。けれど、倒れていた人が気になって仕方がない。
ニコラさんの家について、しばらくすると雨が降ってきた。
「今夜は冷えそうですね」
「ああ」
冷たい雨が降り出して、島江ひかりとしての最後の日の天気も雨だったことを思い出す。あの時も路地裏に人が倒れていたのに、私は見て見ぬふりをしたのだ。
「ニコラさん、私、やっぱり行ってきます」
「どこにだ?」
「さっきの人のところです」
「だめだ、危険だ」
「はい、でも、ニコラさんも私に声かけてくれたじゃないですか」
私は後悔のない生き方をすると決めたのだ。
島江ひかりの最後の瞬間を無駄にしない。
だからやりたいことをやるのだ。
そして伝えたいことは思ったときに伝える。
「私だって路地裏で彷徨っていた変な女で危ないかもしれないのに、ニコラさんはあの日私に、声かけてくれましたよね。あの時、ニコラさんのおかげですごく助かりました」
ニコラさんは私がそう言うと、何とも言えない顔をしている。
「倒れている人がいるか見てきます。もう時間も経っているし、誰もいない可能性が高いと思いますが、念のため」
「……気を付けろよ」
「はい、危なそうだったら、走って逃げます」
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