4.出会い
目を開けたら、そこは路地裏で、やっぱり人生のどん底だ。
島江ひかりだった頃も、ソフィ・ブラウンの今も、人生のどん底なのは変わらない。
それでも、ピンチをチャンスに変えるのは、生きている今しかできないのだ。
「私は、もう後悔したくない」
夜が明ければ空は明るくなるのは当たり前なのに、その時だけは昇った太陽が私の背を押してくれているように感じた。
婚約破棄されて、家族は夜逃げして、荷物も盗られて、失うものは何もない。
だから怖い物なんてないし、これからは心のままに明るく前向きに生きるのだ。
そう決意して、空を見上げる。
「おい」
その声の先にいたのは、おじさんだ。
ボサボサの髪に、長く伸びた髭、薄汚れた服、穴の開いた靴を履いたそのおじさんは私に言った。
「大丈夫か?」
「えっと、はい」
「路地裏では、綺麗すぎる服装だ。気を付けたほうがいいぞ」
「はい」
「家出か?」
「……はい、家がなくなったので、家出と言うのが正しいかわかりませんが」
「それなら、ついてこい」
「え?」
「行くところがないのだろう? ついてこい」
そう言ってくるりと背を向けて黙って歩くおじさんは、足が悪いのか片足を引きずってゆっくり歩いて行く。
どうしようかと悩んだのは一瞬で、私はおじさんの後を追うことにした。
「私はソフィと申します」
「……俺はニコラだ」
「ニコラさんはどちらに向かっているのですか?」
「俺の家だ」
まさか初対面のおじさんが家に連れて行ってくれるとは思わなくて、戸惑う私に対して、ゆっくり歩いていくニコラさん。そのニコラさんの後ろ姿を見て、私は腹をくくった。
ニコラさんが悪い人かなんてわからないけれど、実際問題、行くところも頼る人もいない。これが吉と出るか凶と出るかわからないけれど、私はニコラさんの差し伸べてくれた手を取る選択をした。頭で考えて行動するのではなくて、たまには直感を信じてみるのもいいじゃないかと思ったのだ。
「よろしくお願いします」
「ああ」
ニコラさんが連れて行ってくれた家は、商家が倉庫として使っていた建物だったそうで、ボロボロではあるけれど、一人暮らしの家にしてはとても広かった。倉庫の時の名残なのか、使われていない道具が部屋の端に置いてあり、ニコラさんの生活スペースは広い倉庫の一角だけのようだ。
「広いですね」
「そうだな」
その日はニコラさんが路地裏での生活についていろいろなことを教えてくれた。綺麗な水が汲めるところ、古着が落ちているところ、余った商品をくれる野菜屋さんやパン屋さん。行ってはいけない危険な道、ニコラさんは路地裏で生きる術を私に教えてくれる。
「路地裏は危険だ。若い女の子というだけで生き辛いぞ」
「やっぱり、そうですよね」
その夜はニコラさんの作ってくれたスープを食べて、身も心も温まった。
ニコラさんが使っている倉庫は、住居向きの建物ではないけれど、雨風は凌げるし、何よりも温かかった。
「とりあえず、行くところがなければいていいぞ」
「いいのですか?」
「路地裏で寝るよりはいいだろう」
「ありがとうございます」
その日は、緊張感は持ったままだったけれど、室内ということはもちろん、一人ではないということが大きかったからか、久しぶりに朝まで眠った。
「おはようございます」
「……ああ、俺は仕事に行く」
「仕事ですか?」
「靴磨きだ」
ニコラさんはそう言って持っていた袋の中を見せてくれた。
袋の中には砂時計、古びた布、ブラシ、艶を出すオイルのようなものと木のブロックが入っている。大きな木のブロックは、お客さんに腰かけてもらうための椅子替わりらしい。
「これが靴磨きの道具ですか?」
「ああ」
「一緒に行ってもいいですか?」
「いいが、来ても暇だぞ」
ニコラさんは、道の端に座りお客様を待つ。
その道には、ニコラさんだけではなく、何人もの人が同じように靴を磨くために座って待っている。
しばらくすると、ポツポツとお客さんが増えてきたけれど、ニコラさんのところにはお客さんがまだこないようだ。
「靴磨きはいくらでやっているのですか?」
「銅貨五枚だ」
「他の人より少し安くすればお客さんきませんか?」
「値段は一律だ」
どうやら路地裏の商売には暗黙のルールがあるらしく、値段は勝手に変更してはいけないらしい。
人通りが増えてくれば、お客さんも増えるから、みんな忙しそうに靴を磨いている。なかなかお客さんの来なかったニコラさんのところにもやっと、燃えるような赤毛のおじさんが座ってくれた。少し離れたところからニコラさんの様子を見ていれば、ニコラさんは靴を磨いているけれど、他の人に比べるとスピードが遅いことに気づいた。ニコラさんのきっと手を抜くことをしないのだろう、とても丁寧に磨いているから時間がかかるようだ。
だから、私は思い切ってお客さんに声をかけることにした。
「こんにちは」
「なんだ?」
「もし、よろしかったら靴磨き中に肩もみはいかがですか?」
「肩もみ?」
「はい、靴を磨き終わるまでのサービスです」
「お嬢ちゃんにできるのか?」
「ご迷惑ならやめますので、いかがですか?」
「そこまで言うなら」
ポカンと口を開けてこちらを見ているニコラさんに、大丈夫とわかるように笑いかけて一つ頷けば、ニコラさんは何も言わずに靴磨きに戻る。
私は、持っていたタオルをおじさんの肩に広げた。
島江ひかりとしてのマッサージの腕が通用するかどうか、これではっきりする。
「それでは失礼します。もし、痛みや違和感があれば、すぐに教えてくださいね」
「ああ」
おじさんの肩は分厚く、筋肉があるのがわかる。
多分、このおじさん肉体労働をしている人だ。
首の付け根から、手のひらで優しくほぐしていく。
そして、おじさんの様子を見ながら指圧をしていく。
「肩、凝っていますね」
「ああ、力仕事が多いからな」
「なるほど、もう少しだけ強めにしてもいいですか?」
「おお、頼む」
分厚い肩は揉み甲斐がある。
筋肉の凝り方で、こんな動き方が多いのではないだろうかと一人で想像しながら施術するのが昔から好きだった。
「気持ちがいいな」
その一言に、私は内心で大喜びだ。
気持ちがいいと言われることが何よりも嬉しい。
自分の手で誰かをほんの少しでも癒すことができる喜びは、何物にも代えがたいのだ。
私のマッサージが通用するのだということがわかったこの瞬間、胸の内からこみ上げてくるものがある。
私ならできる。
胸の内で小さく呟いた言葉に、自分自身が満たされるのがわかった。
前世の私に足りなかったのは自信だ。
時間にすればほんの数分だけれど、もみほぐしていく。靴磨きが終わり、ニコラさんはおじさんに銅貨を五枚受け取っている。
「お嬢ちゃん、ありがとよ。気持ちよかった」
「いえ。こちらこそ、ありがとうございました」
「ほら」
「はい?」
渡されたのは銅貨五枚だ。
「肩もみ代だ」
「いいのですか?」
「おう、またやってもらいたいぐらいだ」
「ありがとうございます」
ソフィ・ブラウンとして、初めて自分で稼いだお金が嬉しくて、ありがたくて、顔がにやけてしまう。
銅貨五枚ではパン1つ買うのがやっとだけれど、それでも嬉しかった。
「少なくって悪いな」
「いえ、本当にありがとうございます」
おじさんが見えなくなって私はあまりの嬉しさに、路地裏でガッツポーズをした。
お読みいただきありがとうございます。




