39.別れ
心ゆくまで笑ったオーリー殿下は、笑いすぎて出た涙を拭って立ち上がった。
「ヒー、おもしろかった」
「そんなに笑わなくても」
あそこまで笑うと失礼を通り越して、清々しい気さえしてしまった。
「俺も今回のことはさすがに悪いと思っているんだ。だから、願い事はないか?」
急に真剣にそんなことを言うオーリー殿下に私は困った。
願い事と言ってもすぐに思いつかないからだ。
「……うーん」
「欲しい物、家でも土地でも、俺が叶えられることならなんでもいいぞ」
「あ、そういえば」
欲しい物と言われて、大きな悩みの種があるのを思い出した。
「なんだ? 欲しい物があるのか?」
「私は安心、安全が欲しいです」
「安心、安全?」
予想外のことを言われたのか、ポカンとしたオーリー殿下。
「女性が一人でお店を開いても安心で安全でいられるようにしていただけたら嬉しいです」
「どういうことだ?」
「女性一人でお店をやっていると、いろいろ危険なんです。商人のおじさんに相談したら、護衛を雇うのが一般的と聞いたんですが、信頼できる人を探すのも大変だし、護衛を雇うにはお金がかかるので、安心して暮らせたらいいなって」
「確かに、この間本当に待ち伏せしている奴がソフィの店の前にいたな」
思い出したようにそう呟いたアークさんの言葉に、お店の前でイライラと待ち伏せをしていた義父とマイケルの顔を思い出した。
「あの男達は何者だ?」
「元婚約者と義父です。居場所がばれてしまいまして、困っています」
「それで、安心と安全が欲しいのか」
「欲しい物と聞かれたらそれぐらいしか思いつかなくて」
安心や安全は目に見えるものではないし、下さいと言って貰えるものでもない。欲しい物はと聞かれて答える物ではないかもしれないけれど、今一番、切実に欲しい物だ。
「それでは城内にスーちゃんのお店を建てるのはどうだ? 城内であれば不審者は侵入できないし、騎士が見回りをしていて安心安全だぞ」
城内にお店を開くなんてとんでもない。確かに不審者が侵入することはないだろうけれど、お客さんも敷居が高くて気軽に入ってこられないと思う。
「有難い提案ですが、やっぱり私はあのお店が一番好きなんです」
「そうか? それは残念だ。いい案だと思ったのだが」
元は物置なだけあって、狭いお店だけど、初めて持った自分のお店だ。愛着もあるし、くつろぎ亭のみんなも大好きで、できたらあそこでずっとお店をやっていけたらと思っている。
なんとなく話がまとまったところで、ニコラさんが言った。
「ソフィ、今回はたくさん迷惑をかけてしまって悪かった」
「いえ」
ニコラさんの足が治ったなら、馬から落ちたこともスパイと間違えられたことも水に流せる気がする。そう思ってニコラさんの立ち姿を見ていたら、違和感に気づいた。
「ニコラさん……足、治ってないのですか?」
目を伏せたニコラさんの様子に、どうして? という疑問が浮かぶ。
「兄上の足は治らなかった」
オーリー殿下のその一言は、さっきまで笑って話していたのが嘘のように重く響いた。ニコラさんを見れば、それが事実だと言うように頷いているし、アークさんは神妙な面持ちだ。
「ニコラさんは聖女様に治癒をしてもらわなかったのですか?」
「聖女様を信じていないと神聖力が効かないと言われても、信じるというのは無理やりできるものではない」
「それはそうですけれど」
「聖女様の人となりがわかれば、信じられるかもしれないと思ったのだが……」
言葉を濁して苦笑いするニコラさんの様子を見てオーリー殿下が言った。
「あの女はダメだ。まず、ローガンを見て汚いとローガンの治癒を拒否」
「え?」
「ローガンはあの格好だし、宮廷医には見えなかったのだろうが、顔を歪めて汚いと拒否した」
ローガンさんはヨレヨレの服を着た禿げ頭のおじさんだから、医者には見えないのは確かだ。けれど、あの可愛らしい声の天使のような聖女様が人に対して汚いなんて言うとはイメージと合わない。
「それでも、渋々だが治癒をしたのだが、効果は微々たるものだった。そしてデリックに治癒をしたのだが、同じく効果がほぼなかった。恐らくだが、聖女は小さな傷ぐらいしか治せないのではないだろうかと思う」
聖女様の治癒は大きな怪我でも病気でも魔法のように治してしまうと思い込んでいただけに驚いた。
「それでだな……」
何とも言いにくそうにじっと私を見つめるオーリー殿下は、またも私の目の前に座り込み、正座をしている。
「兄上にマッサージをしてほしい。このとおりだ」
土下座するオーリー殿下に慌てたのはニコラさんだ。
「オーリーやめろ。ソフィを巻き込むな」
「しかし、兄上、聖女の治癒が効かなければ、兄上は」
「いいかげんにしろ。マッサージをしろと城に呼びつけたり、命を狙われると嘘をついたり、これ以上ソフィを振り回すな」
そう言われると、散々な目にあった気はするけれど。
「マッサージやりますよ」
「ソフィ、無理せずともいいのだ」
「いえ、私はマッサージ屋なので」
それに私は本当に嬉しかったのだ。人生のどん底にいたあの時にニコラさんが声をかけてくれたのが。あの日のあの瞬間の一言がなかったら今の私はいないと思う程だ。
その日は砦で過ごす最後の日になった。
砦の騎士達は、最後の夜と言うことで送別会を開いてくれて、最後の晩餐は大いに盛り上がった。ついつい勧められるがまま食べていたら、お腹がはち切れそうだ。
「スーちゃん、俺はびっくりしすぎてヤバいっす」
「ドニ、いろいろ黙っていてごめんね」
「スーちゃん偉い人だったんすね」
「え? 違うよ。私は偉くないよ。ただの一般庶民なの」
「そんなことあるわけないっすよ! ただの一般庶民に皇子様が頭を下げるわけないっす」
「いや、それはいろいろ偶然が重なった結果なのよ」
「でも殿下がスーちゃんに土下座してたっすよ」
砦にいる間、時間があればいつもドニが喋りにきてくれたから私はドニの存在に救われたと思う。元気で明るいドニがいたから砦の生活は寂しくなかったと言っても過言ではない。
「ドニ、いろいろありがとうね」
「俺はスーちゃんのマッサージが好きっすよ」
「名前も言えない怪しい私に優しくしてくれてありがとう」
「スーちゃん」
「うん?」
「お、俺」
その時だった。先ほどまで部下に囲まれていた隊長さんが、ジョッキを片手に私のいるテーブルに来てくれた。
「スー、いや、ソフィ。疑って悪かった」
「いや、私、十分怪しかったので」
どうやら隊長さんは、わざわざ疑ったことを謝りに来てくれたようだ。
「隊長さん、お世話になりました」
「ああ」
「本当にありがとうございました」
「……寂しくなるな」
「本当っすよ! 寂しいってもんじゃないっす!」
この砦での日々を振り返れば、悪いことばかりではなかったように思う。




