34.砦
走っている馬から飛び降りるなんて信じられない。
余程受け身が上手くなければ、怪我をしているはずだ。けれど、私の乗馬の腕では、引き返すことはおろか止まることさえできない。無事を祈ることぐらいしたいけれど、他人のことを心配している余裕がない。
「どうしよう? 一人で馬に乗ったことなんてないのに」
手綱を握りしめて、ただ乗っているだけなのに、怖くてたまらない。
進路を馬にまかせて、背筋を伸ばしていられたのもしばらくの間だけだった。後ろから追手がきているかさえ見る余裕もなく、揺れが激しくて、手綱を掴む腕が悲鳴を上げている。
どのぐらいの時間そうしていたのか、体感ではかなり長い時間に感じたけれど実際には一時間なのか二時間なのかもわからない。上体を起こして座っていられなくなり、途中から頬を馬の背につけて、乗っているだけになった。
太陽が西へと傾き、空がオレンジ色に染まって時間の経過を知る。
駆け足だった馬の足がゆっくりになった。
体を起こして、周りの景色を確認すれば、石造りの高い壁面が見えた。
「……建物だ」
見上げなければならないほど高いその壁面は、所々ツタで覆われている。
壁面だけでは砦かどうか判断できないけれど、アークさんは砦に身を隠すのがいいだろうと話していたから、ここが砦だと思う。
「ここが目的地?」
返事なんてないとわかっているけれど、ここまで連れてきてくれた馬に話しかけてみれば、馬はそうだと言わんばかりにその場で足踏みをする。頭を振る馬に今にも振り落とされそうだ。
「ちょ、ちょっと待って、一人で降りられないから、待って」
馬の上と言うのは思ったよりも高いのだ。誰かの手を借りるか、台でもないと降りることができない。どうしていいかわからずバタバタと慌てふためいてしまう。
手綱を持ったままだったことを忘れて慌てていたのが悪かった。
手綱を強く引っ張ってしまい、馬が驚いたのか前足をあげた。
「あ、嘘?!」
手綱を持つ手は限界を超えていて、そのままの勢いで振り落とされてしまった。
落ちる瞬間はまるでスローモーションのようだ。
咄嗟に体を丸めて衝撃に備える。
「うぐっ!」
落ちた場所は草が生い茂っているところで助かったのだけれど、痛いものは痛いのだ。
「いたたた」
痛みを逃している間に、馬はいなくなっていた。
夕暮れ時の森の中、ここがどこかもわからず、荷物もなく、痛みで立ち上がるのも辛い。ポケットには一枚のコインが入っているだけだった。以前オーリー殿下に貰った皇子の生誕時に作られた記念硬貨だ。一枚で金貨二十枚ほどの価値があると聞いてからは、ポケットの裏に縫い付けて大事に持ち歩いている。
けれど、こんな森の中ではお金を持っていたところで役に立たない。
「詰んだ?」
がっくりと項垂れてみるものの、助けが来るわけでもなくて、暗くなり始めている森を前に、ヨタヨタしながら壁伝いに進む。壁に手をついて進んでいけば、入り口があるはずだと信じて。
「うぅ、腰とお尻が痛い」
右手を壁に着いたまま、左手を腰に当てて、空を見上げる。
その時、オレンジ色の髪の男の人と目が合った。
「あ」
人だ、助かった。そう思った瞬間、男の人が慌てて何やら口にくわえているのが見える。
「ピーーーーー!!!!」
大きな笛の音が響き渡った。
「不審者発見!!」
そう大声で叫んだ男に、私はギョッとした。
「え、私?」
「手を上げろ」
「不審者じゃないですよ」
「手を上げろ!」
「え?」
あろうことか男は、私に弓を向けていた。
「最後だぞ。手を上げろ!」
とりあえず、言うとおりに手を上げた瞬間、突如後ろから突き飛ばされた。どうやら上にいたオレンジ色の髪の男の人以外にも人がいたらしい。
頬に地面の感触がしたことまでは覚えている。
ストンと落ちた瞼は開けなかった。
「不審者確保」
「隊長は無事っすか?」
「ああ、問題ない」
「砦の南側の森から侵入したようで、見回り中に発見したっす」
「王家の森を通ってきたということか?」
「王家の森からの侵入は難しいので、もしかしたら先日の隣国のスパイの逃げ遅れですかね?」
「女スパイもいたのか。よし、南の塔に入れて置け」
遠のく意識の中で、聞こえてきたのはそんな会話だった。
次に目が覚めた時には、木造の簡易的なベッドの上で横たわっていた。
「あいたたた」
動くたびに軋む体は、筋肉痛がひどく、お尻はもちろん、足も腕も動かすたびに痛みを覚える。
見覚えのない石造りの壁面に囲まれた小さな部屋には、木造のベッドと木造の小さなテーブルがあるだけだ。小さな窓を見つけて、立ち上がろうにも筋肉痛がひどすぎて、傲慢な動きになってしまう。それでもなんとか立ち上がり、外を確認する。鉄格子の窓の外は暗くて、今が夜だとわかった。背伸びをして下を見れば、松明の炎が見える。
「確か……砦の南側とか、南の塔とか聞こえた気がする」
気を失う寸前、南の塔に入れて置けと男の声が聞こえた。
扉の取っ手は押しても引いても開くことはなくて、外から鍵をかけられていることがわかり大人しくベッドに横になった。
こんな状況で眠れるわけがないと思っていたけれど、慣れない乗馬の疲れにぐっすりと眠った。
翌日。
不審者と間違えられた私は、この砦の隊長と呼ばれる見目麗しい男性に尋問を受けていた。質問の内容よりも美しすぎるその顔が気になって仕方ない。
「名前は?」
「ソ……」
ソフィ・ブラウンと言いかけた口を押さえて思い出す。
今の私は命を狙われているということを。
ここには身を隠しに来たのだから、名前を名乗ってしまってはいけない気がする。
「ソ?」
「……ソラガアオイデスね」
「今日は曇りだが?」
「アハハ」
「なんだ? 名前も言えないのか?」
「エヘヘヘ」
咄嗟に笑って誤魔化してみるも、怪しいと言わんばかりに目を細められてしまう。
「それでは身元保証書もないのか?」
身元保証書は陛下が用意してくれたけれど、使ったら居場所がばれてしまうというアークさんからの忠告があったから鞄の奥深くに入れたままだ。その小さな鞄さえも、馬の背に括り付けたままで手元にはないのだけれど。
「……エヘヘヘ」
「名前は言えない。身元保証書もない?」
「はい」
「不審者確定だ」
「違います」
「あー、はいはい。不審者はみんなそう言うんだよ」
「そりゃあそうでしょうけれど、本当に私は違います」
「……仲間たちはみんな捕まって、潔く罪を認めた。認めさえすれば、砦の中に部屋を用意しよう。これ以上無理やりスパイ活動をする必要もない」
「本当の本当にスパイじゃないんですけれど」
「名前さえ名乗れないのにか?」
笑って誤魔化しようがなくて、無言で見つめ合うことになってしまった。
「ここは王家の森の果てにある、砦だ。若い女が荷物もなしに一人で訪れるような場所ではない」
ごもっともすぎて返す言葉が見つからない私を、隊長さんはじっと見つめている。サラサラの藍色の髪をかき上げて大きなため息を吐いた隊長さん。
「はあー。今日のところは南の塔に戻れ。素直に話す気になったらいつでも言え」
話は終わったと言わんばかりに、外に出された私はオレンジ色の髪の騎士に南の塔まで連れていかれる。
南の塔は、この砦の最南端に位置していて、とても高い塔だった。
首が痛いくなるほど上を見上げなければ、一番先まで見えないほどの高さだ。
「南の塔は昔、見張り台に使っていたんすよ」
「へえ」
「窓から脱出なんて考えない方がいいっすからね」
そんなこと言われなくても、脱出しようなんて考えない。
案内された部屋は、螺旋階段を三周ほど上ったところにある部屋だった。
「入って」
「あの、私、本当にスパイとか怪しい者ではなくてですね」
「……若い女の子が手ぶらで夜の森にいるなんて十分怪しいと思うけど?」
「そ、それはそうなんですが、本当に通りがかりのただの一般庶民なんです」
「王家の森の最果てにある、国境沿いの砦に通りかかった一般庶民?」
「そう、そうです」
「嘘をつくならもっとましな嘘にしてほしいっすね。はい、中に入って。食事はそこの小窓から一日二回入れるから」
ガチャっと鍵を閉める音が響いて、足音が離れていく。




