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転生敏腕マッサージ師、どん底から返り咲く  作者: 藤井


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3.前世の私

 人生のどん底で、思い出したのは、島江ひかりとしての最後の日だ。


 あの日は、雨の降る寒い日で、任された仕事が終わらなくて、人生の底にいた気がしていた。


  大人になったら人から怒られることはなくなるのかと思っていたけれど、そんなことは大間違いだったと、心底感じた日だった。


「はあ? まだ終わってないなんてどういうことですか?」

「すみません」

「島江さん、俺は今日までにと言っておきましたよね?」

「すみません」

「謝ってすむ問題じゃないですよ」

「申し訳ございません」

「ハア、なんでできないならできないと、言えないですかね?」


 若い店長に一方的に押し付けられた仕事は本来私の仕事ではない。私はマッサージ師として施術をする仕事がメインなはずなのに、店長が変わってから、店長がやるべき勤怠管理などの書類仕事を押しつけられるようになった。慣れない仕事をなんとか終わらせようと家に持ち帰り頑張ってやったけれど、どうしても終わらなかった。


 上司に恵まれなかった?

 もしかしたらそうなのかもしれないし、そうじゃないかもしれない。


 言いたい言葉はたくさんあるのに、飲み込んで、ただただ頭を下げる。

 ここで感情のままに怒鳴り散らしたいけれど、そんなことはしてはいけない。私が我慢すれば丸く収まるのだから耐えるしかないのだ。若い時は、感情のままに言葉を発することがあったけれど、年を重ねていくにつれ、ある程度のことは黙っていた方が丸く収まるということを知った。その代わりストレスはたまるけれど。


「すみませんでした」

「謝罪はいいです、とりあえず今できているところまでの資料送ってください」

「はい」


 徹夜明けで疲れているけれど、これからが正念場と気合いを入れなおそうとした時。


「島江さんは結構です」

「え?」

「こちらでやります」


 私の返事を聞く前に店長は、違う社員に声をかけている。


「そこの二人、急ぎの案件がある。手伝ってくれ」


 立ち尽くす私を、気の毒そうに見つめる周囲の人たち。


 息が詰まりそうだ。


 それでも、寝不足で回らない頭で考える。


 謝罪して、仕事をしなければ。

 そう思う自分がいるのに、言葉が出ない。

 目頭が熱くなって、慌てて下向いて今にもでてきそうな涙をこらえる。だって、私は大人で、感情に任せて怒ることも、泣くこともしてはダメだ。

 グッと拳を握る。

 痛いほど握りしめた拳を見つめて、このままで手の平に爪の跡がつきそうだと思って力を抜いた瞬間だ。


 辞めたい。

 もう嫌だ。

 ここから離れたい。


 思考の海に沈みそうになった時、ポンと叩かれた肩の感触に、一気に現実へと引き戻された。


「ひかり先輩、大丈夫ですか?」

「え、あ、うん」

「ひかり先輩はあんな言われ方して悔しくないですか?」

「え、うん、そうだね。でも、ほら、私が言い返して空気が悪くなるかもって考えると……」

「えー、私なら絶対我慢できませんよ。店長、ひかり先輩の方が施術が上手だから嫉妬しているんですよ。それに、いつもめんどくさい仕事ひかり先輩に押し付けて、自分は楽して、本当性格悪いです。上に立つなら店長よりもひかり先輩の方が私は向いていると思います」

「ま、まあ、でも、ほら店長は店長なりに頑張ってるしね……」


 若い後輩は元気で明るくてとてもいい子だ。その明るさと若さが私には少し眩しくて、この子を前にすると自分は年を取ったものだと実感する。


「あ、先輩、引き留めてごめんなさい。ひどい顔色なので、今日は帰ったほうがいいと思います」

「でも」

「顔、真っ白ですよ。今日はこの雨でキャンセル増えて、お客様少ないし、休んだ方がいいですよ」


 心配してくれる後輩に、笑って大丈夫だよと言う気力はなかった。


「……それでは、お言葉に甘えて今日は帰ってもいいかな?」

「はい、早く帰って寝てください。店長には言っておきますから」

「ありがとう。お先に失礼するね」


 お手洗いの鏡にうつる自分の顔は確かにひどい顔色だ。

 ボサボサの髪に、おざなりに化粧をした自分はひどく疲れている。

 皺のよったシャツを少しでも伸ばそうと、手のひらで伸ばしてみるけれど皺は伸びなくて、鏡の中のくたびれた自分によく似合っている気にさえなってきた。


 首からぶら下げている入社当時の社員証の自分の顔は、今とは違い笑顔で希望に満ち溢れている。それなのに鏡の自分は違う人間ではないだろうかと思うほどに生気のない顔をしている。


 じっと自分を見つめて、大きく息を吐く。


「ハァ……帰ろう」


 整骨院を出れば、ひどい雨だ。線状降水帯がどうとかテレビのニュースで見たけれど、今朝は傘を持って出る余裕すらなかった。お店から駅まで、できるだけ屋根のある道を通ったけれど、濡れてしまう。ふっと路地裏を見ると、私と同じく傘を持っていない人が倒れている。


「あ」


 助けるべきなのだろうか? そう思って足を止めたのは一瞬で、自分の心にも体にも余裕がない私は、気にしながらも通り過ぎてしまう。年下の上司に怒られて落ち込んで、今も誰かを助ける余裕もない私は、自分がちっぽけな存在に思えて仕方なかった。


 前髪からポタポタと落ちてくる雫を小さなハンドタオルでふき取って、電車を待つ。


 通勤ラッシュが終わった時刻で、電車は空いている。毎朝乗っている満員電車と同じとは思えないほど空席が目立つ車内に乗り込む。


 端の席に腰かけて、壁側に頭をつけ寄りかかる。目を閉じたら、寝過ごしてしまう気がして、スマホを開いた。


 この小さな画面を見ているときが、一番落ち着く。


 電車の中、フッと顔をあげれば、私と同じようにスマホを見ている人がたくさんいる。たまに寝ている人や本を読んでいる人もいるけれど、ほとんどの人がスマホを眺めている。


 ニュースに目を通して、SNSを見て、天気予報を確認して、少し心が落ち着いてきたのがわかる。楽しみにしている漫画の続きを読もうとアプリを起動して、お気に入りの漫画を開いた。


 毎日一話ずつ読むのが私の小さな楽しみなのだ。


「あ」


 電車の中なのに思わず声が出たのは、漫画の更新休止のお知らせを見たからだ。辛いことがあった日も次の話を楽しみにして、栄養ドリンクよりも元気をもらえると本気で思っていた。それなのに、まさかの更新休止。


 信じたくなくて作者のSNSを確認すれば、本当に更新休止のお知らせの記事があった。作者は腰痛の悪化でしばらく更新を休止するとのことだった。

 腰痛ならば私のマッサージ治せるかもしれない。仕事中、決して手を抜いているわけではないけれど、漫画の続きの為なら、本気のマッサージをやる。漫画家さんがお店に来てくれたらいいのにと考えて、仕事のことを思い出した。


 終わらなかった仕事は、きっと私より若くて優秀な同僚と店長が完璧に終わらせているだろう。明日どんな顔して出勤しようかと考え始めたら、憂鬱になってきた。

 いつもなら大好きな漫画に元気をもらって、気持ちをリセットしていたのに、更新休止が思ったよりもショックだ。


 ずっと眺めたって画面の中の文字は変わらないけれど、気分を切り替えることができなくて、ぼーっとしてしまう。


 その内に、スマホの画面が真っ暗になった。

 今の、私の心はこの画面よりも、真っ暗だ。

 今日は立ち直れないかもしれない。


「辞めようかな」


 小さく口の中で呟いた言葉に、心が動かされる。

 今の整骨院での勤務も一二年目だ。数年前は半年先の予約が埋まるほどだったけれど、少しずつ予約が減ってきて、だんだんと指名が減っている。仕事にやりがいを感じて、お客さんに喜んでもらえることが嬉しかったのに、店長が変わってからというもの裏方の仕事を押しつけられることが増えた。若い人を現場にだして、なるべく経験を積ませたいと言っていたけれど、店長よりも私の指名が多いのが気に入らないのだろう。小さな嫌がらせ程度だから、絶対に辞めない、頑張ろうって思っていたのに、心が折れそうになっている。


 世の中には自分と合わない人がいることはわかっている。それが偶々直属の上司というだけで、割り切って頑張ればいいとは思うけれど、疲れてしまった。


 彼氏もいなくて、結婚の予定もない。このまま結婚せずにずっと一人でいるのならば、自分のお店を持って生活するのもいいかもしれないと思う。


 そんなことを考えながらスマホの電源ボタンを押した。

 暗かった画面が明るくなって、いつものロック画面が映し出される。


 顔認証でロックが解除されるはずが、なぜか反応しない。

 疲れている顔だと反応しないのかな? なんて思った瞬間。


 体に衝撃が走った。

 ドンという大きな音とともに電車が大きく揺れて、体が宙に浮いたと思ったら光が溢れる。


 あ、もう駄目だ。


 そう悟った瞬間、たくさんの後悔が押し寄せた。


 もっと親孝行すればよかった、好きな人に好きだと伝えればよかった、もっといろんなお客さんを自分の手で癒したかった、自分のお店を持てばよかった、もっと美味しい物を食べればよかった、嫌なことを嫌だと言って、やりたいことをやればよかった。


 店長に最後にガツンと言えばよかった。


 思うように行動すればよかったのに、心の底からそう思った。


 たくさんの後悔が頭の中を駆け巡って、その内に、視界が真っ白になってギュッと目を閉じた。

お読みいただきありがとうございます。

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