29.涙
朝、ニコラさんのところに通う必要がなくなった私は、開店準備に取り掛かった。
店に飾る花を買いに花屋まで出かけてみれば、街の様子はいつもと変わらない。第一皇子と神聖国の聖女様の婚約が発表されればお祭り騒ぎになるだろうけれど、昨日の今日で街ではまだ噂になっていないようだ。
ニコラさんに、次に会った時には笑っておめでとうと言えるだろうか。
出てきそうになるため息を飲み込んで、花を選ぶ。
気分が明るくなる花がいいな、なんて思いながら、花を眺めていれば、後ろから声を掛けられた。
「失礼します」
「はい?」
「聖女様がお呼びです」
私に声をかけてきたのは、昨日離宮の前にいた白い服を着た騎士だった。
「……聖女様ですか?」
「城でお待ちになっております」
そう言って、馬車まで先導される。
馬車の周囲には騎士様が二人待機していた。
「あの、聖女様は一体何の用事で私を?」
「私にはわかりかねます。直接お聞きください。どうぞ中へ」
馬車に乗り込むのを躊躇していたけれど、騎士様の早く中に入れという圧力がすごすぎて気づけば足が動いていた。昨日の今日で何の用事だろうかと不思議でしょうがない。お店に臨時休業中の札を出して来ればよかったと気づいた時には城へ到着していた。
「こちらへ」
騎士についていけば、どうやら行き先は離宮ではなくて、お城の方だということに気づく。
案内されたのは、前回アークさんに連れられてきた皇帝陛下の執務室だった。
中へ入れば、椅子に座り談笑している陛下と聖女様の姿があった。
「聖女様、ソフィ・ブラウンを連れてまいりました」
「ご苦労様」
昨日も思ったけれど、聖女様はやはり美しかった。そこだけスポットライトが当たっているかのように、視線が吸い寄せられる。
「急に呼び出してすまぬな。そなたも座りなさい」
陛下にそう言われた私は、会釈をして空いている席に腰かける。
「わたくしから伝えますわ」
「うむ」
どうやら話があるのは聖女様からのようだ。
「ニコラ殿下の足、わたくしの治癒で治りませんでしたの」
聖女と言う呼び名はもちろん、その存在すら神聖化されているのは絶対的な治癒の力があるからだと思っていた私はただただ驚いていた。
「驚かれるのはわかります。神聖力で治癒ができないことが稀にあるのです。理由はわかりますか?」
「怪我をしてから時間が経ちすぎていたからでしょうか?」
古傷は治りにくいのかもしれないと思ったけれど、聖女様は小さく首を振る。
「いいえ、神聖力は、聖女を心の底から信じている者にだけ適用されるのです」
「……ニコラ殿下はつまり」
「わたくしを、聖女を信じていないのです」
「そんな……」
「信じなければ神聖力の効き目は弱くなるのです。ニコラ殿下は、あなたの施術のことを気にしておられました。ここまで良くなったのはあなたのおかげだと。これからもあなたを頼りにしていると」
第三者から聞く自分の話は嬉しいけれど、今は喜んでいる場合じゃない。聖女様の話を頭の中で整理する。
「……私の存在が邪魔に?」
「理解が早くて助かります。あなたが悪いわけではありませんが、あなたという存在が治癒に影響しているのでしょう。単刀直入に申します」
「はい?」
「ブラウンさんには、ニコラ殿下へ会うのを止めていただきたいのです」
聞き間違えたのかもしれないと思ったのは一瞬。
「できればどこか遠くへ行っていただければと思います」
言われたことに理解が追い付かなくて言葉がでない。
これまでニコラさんと過ごした日々が思い出される。路地裏で初めて声をかけてくれた日、硬いパンを二人で食べた日、髪の毛を切ってあげた日、そしてニコラさんにマッサージした日々。足の裏に感覚が戻っただけ喜んだ日のニコラさんの嬉しそうな笑顔が瞼の裏に焼き付いている。私のマッサージを信じてくれて、足が動くようになったらやりたいことがたくさんあると話していた。
「私がいなくなればニコラ殿下の足は治りますか?」
「……ええ、治る確率は高くなるでしょう」
私の左手を両手で包み込むようにして、にっこりと笑いかける聖女様。
「物わかりの言い方で助かりました」
返す言葉が見つからなくて、握られた手をじっと見つめる。白くて華奢な手はひんやりと冷たくまるで作り物のようだと思った。爪一つ見ても艶があって綺麗だ。
「すまぬな」
それまで黙っていた陛下はそれだけ言って、手を二回叩いた。
そうすると、どこからともなく現れた執事が陛下に紙を渡していた。
「これは通行証と、身元保証書じゃ。これがあれば、どの国でも入国することができ、身元が保証される」
「……ありがとうございます」
今までのようにひっそりとくつろぎ亭で暮らして、ニコラさんに会わなければいいと思っていたのに、どの国でも入国することができるということは、この国から出て行けということだ。まさかこの国から出て行くことになるなんて想像もできなかったけれど、近くにいても会えないのなら、いっそのこと遠くに行ったほうがいいのかもしれない。
「すまぬな」
「……いえ、失礼します」
退出するために立ち上がったけれど、なんだかふわふわする。理不尽だと思うけれど、理由を聞いてしまったら怒るに怒れない。やるせない気持ちが胸に渦巻いて、涙は出なかった。
最後に振り向いて会釈をしたけれど、陛下も聖女様も話し込んでいてこちらを見ることもなかった。私の存在なんてちっぽけだと言われているようでなんだか悲しくなってグッと歯を食いしばって退出する。
「……ソフィ」
ドアを開けた先にいたのは、デリックさんだ。
「あ、デリックさんおはようございます。こんなところでどうしたのですか?って、ここはお城だから宰相のデリックさんがいるのは普通のことですよね、むしろ私が場違いで……ハハハ」
悲しい気持ちを取り繕うのに必死で、誤魔化すように話し続けて笑うしかなかった。デリックさんは、そんな私の手を引いて何も言わずに歩いていく。
「デリックさん?」
「ついてきてください」
それからしばらく歩いて、立ち止まったデリックさんは、腰を曲げて私の顔を覗き込む。
「ここなら誰も来ません。もう我慢しなくていいですよ」
そう言われた瞬間、ドキッとした。
「我慢なんて……そんなこと、していないですよ」
「……私ならソフィにこんなに辛い思いをさせることはありません」
優しく笑うデリックさんの顔が涙でぼやける。泣きたくなんてないのに、涙が溢れてくる。
「ソフィはニコラ殿下が好きなのでしょう?」
私がニコラさんのことを好きなことは誰も知らないはずなのに、なぜデリックさんは私の好きな人を知っているのだろうか?
「ソフィ、考えていることが顔に出ています」
「え、あ、顔にですか」
「好きな人の好きな人はわかるのですよ」
そう言って笑うデリックさんは、優しい手つきで親指を使い私の涙を拭ってくれる。




