25、喜び
ほとんど感覚がないはずの左足だ。
私たちは目を合わせて、お互い驚いて目を丸くしていた。
「ニコラさん、本当に、今」
「ああ、そうだ。今確かに感じた」
「気のせいではなくて?」
「もう一度やってみてくれないか?」
「もちろんです」
心臓がソワソワする。
それは期待からか、もし気のせいだった時に落胆してしまう自分にか、理由はわからないけれど、ひどく落ち着かなくて手に汗をかいてきた。
「それでは行きますよ」
「ああ」
先ほどと同じように、グッと指圧する。
「……ちゃんと感じるぞ」
「本当ですか?」
「ああ」
あまりの嬉しさに目を合わせて、手を取り合って喜ぶ私とニコラさん。しばらく二人で喜びに浸っていたけれど、きちんと確認しなければならない。
「これはどうですか?」
「ああ、やはり感じるぞ」
「それではここは?」
指を少しずらして指圧してみる。
「何も感じない」
「他の場所も試していいですか?」
「頼む」
足の裏をくまなく押していく。
結果わかったのは、感覚があるのは極わずか一部ということだった。それでもそれは大きな進歩だ。
「立ち上がってもいいだろうか?」
「はい、もちろんです」
起き上がったニコラさんは地に足をつける。
そして、その場で足踏みをするニコラさんの様子を私はただじっと見ていた。
「……ほんの少しだが、以前とは違う」
「本当ですか?」
「ああ、見てくれ」
そのまま歩き出したニコラさんを見て驚いた。
歩き方が少し改善されているように見えたから。
「ソフィ、ありがとう」
「少しでもお役に立てたならよかったです」
「以前のように走ることはできなくとも、確かに良くなっていると実感できるのは嬉しいものだな」
嬉しそうなニコラさんを見るのは幸せで、この時、私は自分の気持ちの変化に気づき始めていた。
それから、顔を出してくれたアークさんに一部だけれど感覚が戻ったことを伝えると、医師であるローガン先生にも報告することとなった。すぐにローガン先生が駆けつけて診察をすることになり、慌ただしく扉がノックされた。
「入るぞ」
ノックと共に入ってきた人物は、見覚えのある顔で、私は思わずポカンと口を開けてしまった。
ローガン医師は以前お店に来た酔っ払いのクレーマーのおじさんだった。まさかとは思ったけれど、本当にあのクレーマーのおじさんが宮廷医だとは驚きである。
「皇子、足に感覚が戻ったというのは本当ですか?」
「ああ、一部分だが」
「ふむ、触診をしてもよろしいでしょうか?」
「ああ」
驚きながらも成り行きを見守っていれば、ローガン先生は何やら棒を取り出してトントンと叩いてみたり、指で押してみたり、納得が行くまで触診をしていた。
「ふむ、儂が、見込んだだけあって、さっそく成果を上げたようじゃな。敏腕マッサージ師のお嬢ちゃんよ」
触診中の見せた真面目な表情とは違って、ニヤリと笑うローガン先生に私はニッコリと笑って返した。
「やっぱりソフィとローガンは面識があったのだな」
「その、嬢ちゃん、あの時は悪かったな」
「いえ、お気になさらずに。まさかローガン先生が宮廷医とは思いませんでした。本当に驚いています」
あの時のヨレヨレの服を着た酔っ払いおじさんが宮廷医だとは誰も思わないだろうと思う。前回会った時よりは多少綺麗な服を着ているけれど、皺の酔ったシャツに伸びた髭が宮廷医らしさを半減させているのだろう。
「何を言っている、俺ほど医者らしい医者はいないだろう。それに、嬢ちゃんを推薦したのも俺なんだぞ」
腰に手をあてて、自慢げにそう言ったローガン医師を見て、ニコラさんと私は目を合わせて笑い合った。
その日を境に、ニコラさんは以前より明るくなったように思う。離宮の応接室に置かれたマッサージ用のベッドの周りでは、ローガン先生やアークさんと笑顔で会話している様子が見られるようになった。私も一緒になって会話したり、ニコラさんのマッサージのついでに、二人にもマッサージを施すことも増えていた。
「おお、そうだ。陛下が嬢ちゃんにマッサージを頼みたいと言っていたぞ」
「ええ? 皇帝陛下がですか?」
「宮廷医として、皇子の様子を報告した時に、ちいとばっかし、嬢ちゃんのマッサージを自慢したんじゃ。それを聞いた陛下が自分もと言っておったんじゃ」
「それはもちろん構いませんが、緊張します」
「陛下は腰痛持ちじゃからな、まあ、いつも通りやればいいんじゃよ。その内に呼び出しがかかるじゃろうからその心づもりをしておくんじゃぞ」
「わかりました」
ニコラさんの足は刺激して血行を促進して、使わずに硬くなってしまった筋肉を揉み解して、私は毎日本気でマッサージに取り組んだ。その日々の努力が実を結んで、微々たる変化だけれど以前より確実に症状が改善されている。
「ニコラさん、今日はそろそろ失礼します」
「送ろう」
「大丈夫です。お忙しいでしょうから、失礼します」
小さく手を振って、扉を閉める。
ニコラさんは、最近、皇子としての仕事をしているようで机に向かって難しそうな書類に目を通していることが増えた。それに伴いニコラさんを訪ねてくる人が増えて忙しそうである。マッサージの時間ももちろん大事なんだろうけれど、やるべきことをこなす姿は充実しているようで生き生きとして見える。
今日はいつもより早くくつろぎ亭に帰れそうだし、たまにはお店の掃除でもしようと急ぎ足で庭園を横切る。その時、近道だからと横切った庭園のベンチに、オーリー殿下を見つけてしまった。気だるげ様子のオーリー殿下と目が合って、私は小さく会釈をした。
「オーリー殿下にご挨拶申し上げます」
「ソフィ、兄上のところからの帰りか?」
「はい」
「座りたまえ」
ポンポンと隣を叩いて、ここだと示される。断るわけにもいかず大人しく隣に腰かける。
「失礼します」
「そんなに端に寄らなくても、取って食べはしないぞ」
「ははは」
なんとなく間を開けてしまったのは、オーリー殿下のファンの女性に隣に座っているのを見られたら、刺されそうだからだ。それほど人気があるのだこの人は。庭園に咲き誇る花よりも、美しく華やかで、気だるげな様子さえも魅力的に見えるのだから。公爵令嬢であるマリー様と婚約破棄をしてさらに人気が増したという噂である。
「兄上はどうだ?」
「どうと申されますと?」
「元気にしているか?」
「はい、お元気そうです」
「足の調子は?」
「ほんの少しですが、感覚が戻った部分があります」
「なに?! 本当か?」
私の肩を掴み、声量が大きくなったオーリー殿下に、コクコクと頷く。
「それは、本当に……本当によかった」
心の底からよかったと思っているのであろうとオーリー殿下は、先ほどまでの気だるげな様子が嘘のように目に光が宿ったように見えた。
「兄上の足はこのまま治療を進めれば以前のように元に戻るだろうか?」
「……恐らくそれは難しいと思います。感覚が戻ったとはいえほんの一部ですし」
「それでも可能性はゼロではないであろう?」
「限りなくゼロに近いかと思われます」
そもそも毒によってダメージを受けている人を診たのは初めてだ。だから、悪化しないようにすることはできても、治すなんて言えない。
肩を落としたオーリー殿下はひどく残念そうだけれど、それ以上かける言葉は見つからなかった。そっとお尻を浮かせてお暇しようと思っていたら、オーリー殿下は庭園を見つめながら話し始め、私は浮かせたお尻を戻した。
「兄上は剣術が得意だったのだ。さらには馬に乗るのも上手くて、一緒に習い始めても、なんでも兄上の方ができた。しかも、それを鼻にかけることなく、俺ができるまで一緒に練習に付き合ってくれて、本当に優しい方なのだ」
オーリー殿下の話はニコラさんを褒めてばかりの内容で、オーリー殿下がニコラさんを尊敬していることが伝わってきた。
「お二人は仲のいい兄弟なのですね」
「そうだな、今は話す機会もあまりなくなってしまったが幼き頃はよく一緒に過ごしたものだ。兄上ほど皇帝に向いている方はいないのだがな」
そういえば、ニコラさんもオーリー殿下のことを皇帝に向いていると話していたことを思い出す。二人ともお互いを認め合って、本当に仲のいい兄弟なんだろうと思う。
「ソフィ、引き続き兄上を頼むぞ」
「はい、それでは失礼します」
今度こそ、立ち上がりその場を後にした。
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