21.マイケル
「どけと言っているだろう!」
マイケルの手が私の頬を打つ。
熱くなった頬を押さえた自分の手が震えている事実に、呆然としてしまう。誰かに助けてほしくて、扉に視線を向けるけれど、こんな時間に誰かくるわけがない。お金を数えてポケットに入れるマイケルを止めたいのに、言葉がでなくて、ただただ小さくなっていた。
「フン、そうやっていつもみたいに大人しくしていろ」
そう言い残したマイケルが去っても、私はしばらくそこから動くことができなかった。
出てくる涙は、悔し涙だ。
前世の記憶を思い出す前の自分は、ただただ小さくなって毎日すみませんと言うだけの、気の弱い人間だった。使用人のように働かされても、それが当たり前だと思って受け入れて、その環境に疑問を持つことすらしなかった。ただそこに存在しているだけで誰かの迷惑なると本気で思っていたのだから。
でも、前世を思い出したあの日から自分は変われたと思っていた。それなのに、さっきはまるで昔のように委縮して身体が動かなくなってしまったのだ。
泣いている自分は嫌なのに、涙がどんどん溢れてくる。
少し殴られたぐらいで、怖くなって、言いたいことも言えなくて、怯えた自分が情けなくて、悔しくてたまらない。
私は後悔する生き方はしないと決めたのに。
「あー、もう! くやしい!」
ピンチの時にヒーローが現れるなんて、そんな都合のいいことが起こるわけがないと知っているはずなのに、一瞬誰かが助けにきてくれないかと考えてしまった。そんな自分の甘さが今は悔しくて、涙が止まらなかった。
「次は負けない。絶対に」
その日は、宿に帰って私の顔を見た女将さんがものすごい勢いで厨房からでてきてくれた。さすがに顔だから隠すこともできず、私はさっきの出来事を話すことになった。マイケルが訪ねてきたところから順を追って話していけば、女将さんの顔が険しくなっていく。
「それで、売り上げを奪って、ソフィの可愛い顔を殴って泣かせたのは、どこのどいつだい?」
殴られた私よりも、怒ってくれる女将さんの勢いに圧倒されてしまう。
「一応、元婚約者です」
「……訳ありとは思っていたけれど、婚約者がいたのかい?」
「はい、いろいろありまして……」
これまでのことを説明していけば、最後まで聞き終わった女将さんが優しく抱きしめてくれる。
「今まで辛かったね。私のことを母親と思っていいからね」
「ありがとうございます」
「それで、そのマイケルとかいう男、また来るんじゃないかい?」
ブラウン家がウッド家にどのぐらい借金をしているかはわからないけれど、一日分の売り上げでは返しきれる額ではないだろうと思う。女将さんの言う通り、きっとまたくるだろう。
「次に来たときは、黙って殴られはしません」
「こんな細腕で仕返しできるのかい?」
本気で心配してくれる女将さんに心配ないとわかるように、私は満面の笑みで答える。
「私、自称ですが敏腕マッサージ師なので、人体の急所は心得ております」
「……それなら、もしものときは」
「ええ、問題ありません」
グッと握りこぶしを作ってそう言った私に、女将さんはにっこりと笑っている。
「それなら、遠慮なくやっておしまい」
「もちろんです」
「よし! 今日は、たくさん食べて、顔を冷やして、よく寝るんだよ」
女将さんのその言葉に、厨房の奥から料理を持った旦那さんが出てきてくれた。
「……困ったときは呼んでくれ」
「はい、ありがとうございます」
寡黙な旦那さんの一言が心強い。今はマイケルに叩かれた頬の熱さよりも、女将さん達の優しさに胸が熱くなった。
翌日から、警戒心が強くなった私は、来客の度に、窓越しに誰がきたかを確認した。そして夕方になり、暗くなる前に店じまいをする。昨日と同じ時間まで営業していたらまたマイケルがやってきそうで嫌だったからだ。
閉店の札を出して、売上金を袋に詰める。いつもはお店でやっていたカルテの記入や帳簿をつける作業はくつろぎ亭でやるようにして、急いでお店を出るための用意をする。昨日の今日でさすがにマイケルの姿はないだろうと思いながらも、急いで鍵を閉めていた時のこと。
「やっと出てきたな」
その声に、振り向けばマイケルが真後ろに立っていた。
「金、出せ」
「嫌よ」
「なんだって? 借りた金は返せ」
「私が借りたお金じゃないわ」
「うるせぇ、ソフィのくせに生意気だ。おまえはおとなしくしていればいいんだよ」
「お引き取りください」
「俺の言うことに逆らうのか?」
「うるさい」
「ソフィのくせに口答えするのか?」
マイケルを無視してそのままくつろぎ亭に向かおうとした瞬間、肩を掴まれる。
「触らないで」
「生意気だぞ」
「触らないでと忠告したからね」
「はあ?」
皮下脂肪の薄い脛を思い切り蹴り上げようか、顎を強打して脳震盪を狙うか、やっぱり一番は男性の急所だろうかと悩んだのは一瞬。
思いっきり、足を振り上げる。
「な、なにをする?!」
「避けないでいだたけます?」
急所にクリーンヒットするかと思ったけれど、寸前で避けられて軽くしか当たらなかった。急所を押えたまましりもちをついたマイケルを、腕を組んで見下ろす。
「お、おまえ、誰だ?」
「誰だって、あなたの元婚約者のソフィ・ブラウンですか?」
「あのソフィが暴力を振るうなんてあり得ない」
私を指さして大騒ぎするマイケル。
マイケルは私が逆らうことなんてないと思い込んでいる。実際に過去はそうだったのだから、そう思われても仕方ないのだけれど。
「マイケル、うるさい」
「ななな、なんだよ。ソフィのくせに生意気だぞ」
「次は本気で蹴るわ」
私が本気でもう一度蹴ろうとしていると気づいたのか、マイケルは後ずさりながら立ちあがった。
「ソフィのくせに俺を蹴るなんて、許さないぞ」
鼻息荒く怒るマイケルは今にも掴みかからんばかりだけれど、私はもう負けない。例え殴られたって絶対にやり返す。そう決意してマイケルと対峙していた私だけれど、マイケルに胸倉を掴まれる。図体だけは大きく力が強いマイケルの手を振り払うことができないのが悔しい。
「離して」
「謝れよ。いつもみたいにすみませんって言え」
昔の私なら口癖のようにすみませんと言っていたけれど、今は違う。
「嫌よ」
マイケルを睨みつけて、グッと拳に力を入れる。
絶対に負けない!
「謝れ!」
「私は悪くない」
「謝れ! 謝れ!」
胸倉を掴む手の力が強くて、一瞬怯んでしまう。
意地を張らずに一言謝ればいいとは頭の隅ではわかっている。きっとその方が丸く収まるのだろう。そう考えてほんの一瞬だけれど、視線を下に逸らしてしまう。
次に顔を上げた時に、マイケルは勝ち誇った顔で言った。
「ほら、謝れ」
「……」
「痛い目見ないとわからないみたいだな」
マイケルが拳を振り上げるのが見えた瞬間、急にマイケルの様子がおかしくなったことに気づく。
なぜか視線をキョロキョロさせて落ち着かない様子だ。突然挙動不審になったマイケルの視線の先は、私の背後のようだ。
胸倉を掴んでいた手を急に離されて、私は後ろを振り返った。
私の後ろには、不敵に笑う女将さんと、腕まくりをした旦那さん、そして、フライパンや箒を持った従業員の人たちの姿があった。
「ソフィ、困っているかい?」
「女将さん……」
「もし困っているなら、くつろぎ亭一同が相手になるよ」
その言葉は私の胸を熱くした。
謝ってその場をやり過ごそうとしていた弱い自分にならなくて済んだことに、胸を撫でおろす。
「マイケル、もう二度と来ないで」
「……なんだよ、ソフィのくせに偉そうにしやがって。こんなところ二度来るか!」
マイケルの姿が完全に見えなくなって、握りしめていた拳の力を抜いて息を吐いた。




