20.平穏と不穏
翌日はたくさん寝たおかげか、昨日の疲れが嘘のように体が軽かった。
「女将さん、おはようございます」
「ソフィ、昨日はご飯食べなかったけれど、お腹は空いてないかい?」
「もうペコペコです。ご飯食べようと思っていたのに疲れて寝てしまっていました」
「たくさんお食べ」
「ありがとうございます。いただきます」
美味しいご飯に、たっぷりの睡眠、疲れの取れた体は軽くて、今日は絶好調だ。
「よし、頑張ろう」
爽やかな気持ちで一歩外に出た瞬間、お店の前に人がいることに気づく。
「おはようございます」
「約束通り来たわよ」
唇を尖らせて、不機嫌ですと言わんばかりの表情の美少女は、ミリー・オベールだ。
「お入りください」
「謝らないわよ」
「……悪いことをした自覚はあるのですね?」
「な、なによ。だって、女の影もなかったデリック様が急にあんな風になるから……」
ブツブツと文句を言いながらも、大人しくお店に入ってくる。
「それでは、こちらにどうぞ」
「どうぞって、何するつもり?」
「何って、マッサージに決まっています」
「……私はマッサージのためにきたわけではないわ。デリック様の話をしにきたの」
そう言って私をじっと見つめる瞳は真剣だ。
ミリー・オベールは同じ年齢のはずだけれど、恋する女の子のパワーはすごいと思う。ここまで誰かを好きだと思えることが羨ましいと思ってしまう。
「うーん、それでは、恋の話でもしますか?」
「恋って……あなた、デリック様のこと好きなのね。やっぱり付き合っているのでしょう」
毛を逆立てた猫のように警戒心丸出しのミリー・オベールに私は小さく首を振った。
「まず言っておきたいことがあります。私は宰相様とは付き合っていません」
「本当かしら?」
「はい、宰相様はただのお客様です」
「でも、デリック様は毎日あなたに会いに通っているわ」
「私に会いにではなく、余程マッサージを気に入ってくれたのでしょう」
まだ信じられないのか、納得のいかない顔だけれど、事実なのだからわかってもらうしかない。
「これっぽっちも好きじゃないの?」
「うーん、いい人だと思います。とても綺麗な人ですし」
「そうでしょう? デリック様ほど聡明で美しいお方はいらっしゃらないわ」
「それでも私は、宰相様とお付き合いしたいと思ったことはありません」
「なぜ? デリック様よ?」
「うーん、宰相様はお若いですよね?」
「若いって、私より年上の二二歳よ」
そもそも、昨日までデリックさんを好きだとか嫌いだとか考えたこともなかった。付き合っていると勘違いされて、はじめてそういうことを考えてみたのだけれど。
「私はもっと年上の人が好きなようです」
「え? おじさまが好みなの?」
なんだかとても嬉しそうな様子のミリー・オベールに大きく頷く。
「まあ、あんまりそういうことは考えたことはありませんが、年齢というよりは、精神的に大人の人がいいです」
「まあ、好みは人それぞれですものね」
前世の島江ひかりの記憶の影響か、二十代前半の人が若いなと感じてしまうのだ。前世を思い出してからというもの、三五年の人生で経験したことが強烈で、十六歳の純粋な女の子ではなくなってしまったのかもしれない。
「そもそも、今は好きとか嫌いとか、お付き合いするとか、そんなことを考えている暇はありません」
「なぜ?」
「自分のお店を持ったばかりですし、日々暮らしていくだけで精一杯で、他のことを考える余裕がないのです」
「……お店についてはごめんなさい。あなたの大切なお店に嫌がらせをして」
急にしおらしくなられると、怒るに怒れなくなってしまう。
「はい、謝罪は受け取りました。もう、この話は終わりにしましょう」
「でも、わたくし」
「理由もわかったし、もう終わったことですから」
「本当にごめんなさい」
「せっかくだからマッサージをどうですか?」
「いいの?」
「もちろんです」
「本当はデリック様の気持ちよさそうな声を聞いてわたくしも気になっていたの。お願いするわ」
素直になったミリー・オベールは可愛かった。もともと美少女なのだから、はにかむように笑うと可愛くて、思わず頭を撫でてしまう。
「ミリーって呼んで」
「わかりました。ミリー」
それから、ミリーに横になってもらって、足を触って驚いた。
「ミリー、もしかして、一日中ずっと座っていませんか?」
「それはもちろん、座り仕事だから」
「ふくらはぎのむくみがひどいですよ」
「いつもこんな感じだからわからないわ」
朝なのにこんなにむくんでいるのなら、夕方になったらもっとだろうと思う。棚からオイルを取り出して、足裏からふくろはぎにかけてオイルマッサージをしていく。
「あ、これは」
「……」
「本当に気持ちがいいわ」
「……」
「デリック様は気に入るのがわかるわ」
「それはよかったです」
早朝だったこともあり、時間をかけて揉み解して、少しはむくみがましになったと思う。
「あら、本当に足が軽いわ。ありがとう」
ミリーは来た時とは別人のように、満面の笑みで帰っていった。
「一件落着かな」
ここ最近続いた嫌がらせの犯人も発覚して、和解も済んだし、もう心配することは何もない。これからで平穏が戻ってくるはずだ。
その日から、常連さんにミリーが加わり、あの日マッサージ券を配った文官さん達も来店してくれるようになった。
忙しいけれどやりがいのある日々は、あっという間に過ぎていく。看板を出していない私のマッサージ店は、公言していないけれど紹介制となり、お店を出して三ヶ月が経った今は、毎日お客さんでいっぱいだ。忙しい時間には行列ができている。
その日も、夜遅い時間になり最後のお客様を見送り、店じまいをする。
三ヶ月も続けていれば慣れたもので、簡単に掃除を済ませて、一日分のカルテを記入していく。売上金を数えて、帳簿に記入する。
その時、小さくノックの音がした私は立ち上がった。
「すみません、今日はもう店じまいで……」
「探したぞ」
「……マイケル?」
扉を開けた先にいたのは、マイケル・ウッド。私の元婚約者だった。
「何かご用ですか?」
「ソフィのくせに生意気だ」
昔から偉そうな男だったけれど、それに拍車がかかっている気がする。
「ウッド家から借りた金、返してもらおう」
「なぜ私が?」
「なぜって、ブラウン家に貸した金だ」
「ブラウン家と私は関係ありません」
「それはお前が勝手にそう言っているだけだ。お前はソフィ・ブラウンなのだから、支払い義務はあるのだぞ」
「それなら、父や母のところに借金取りに行ってください」
扉を閉めようとした瞬間、足を入れて扉を閉められないようにされてしまう。
「おい、調子に乗るなよ。金をよこせ」
「だから、私は関係ないと」
「うるせえ!」
「ちょっと、勝手に入らないで」
「なんだ、そこに金があるじゃないか」
「やめて」
私に見向きもせず、マイケルの視線はテーブルの上の売上金に向かっている。
「どけ」
「やめて」
マイケルを静止しようと手を伸ばすけれど、その瞬間、マイケルの血走った瞳と目が合った。




