2.人生のどん底
これは一体どういう状況だろうかと屋敷中を見て回れば、まるで泥棒でも入ったかのように荒れていた。唯一明かりがもれているキッチンに近づいて、そっと中を覗き込む。
「お嬢様、お待ちしていました」
そう言ったのは、この屋敷に古くから勤めている料理長で、この家で私に優しくしてくれた数少ない人だ。
「旦那様たちは、この屋敷を捨てました」
「え? 捨てたって?」
「借金返済の見込みがなくなり、逃げたのです」
「ええ?」
「使用人は全員解雇され、明日には屋敷に借金の取り立てがくるでしょう」
ウッド家の他にもいろんな家から借金をしているのは知っていたけれど、まさかこの家がここまで追い詰められていたとは思わなかった。
あの人たちは屋敷だけではなくて、私も捨てたのだろう。
「料理長、ありがとうございます。私が帰ってくるまでここで待っていてくれたのでしょう?」
「ええ、お伝えしなければと思い残っておりました。お嬢様はこれからウッド家に向かわれますか?」
「……いいえ、実は先ほどマイケルと婚約破棄をしました」
「なんですと?!」
料理長が驚くのも無理はない。
私だって婚約破棄をされた日と、家族が夜逃げした日が重なるとは思わなかったのだから。
「行く当てはございますか?」
「いいえ、ありません。でも、私、家を出るつもりでいましたから」
「私にお連れできる家があればよかったのですが……」
料理長は住み込みで働いていたから、当然家はない。恐らく、ここ最近は給金も支払われてなかったと思うからきっと自分のことだけで大変なはずだ。
「私のことは気にしないでください。その気持ちだけで本当に嬉しいです」
「今日中にここを出ることをおすすめします」
「わかりました。私も、これから荷物をまとめて出ます」
「お役に立てずに申し訳ございません」
「いえ、料理長がいてくださって助かりました。本当にありがとうございました」
「お嬢様……こんな時に言うのはどうかと思いますが、明るくなられましたね」
「え?」
「奥様や旦那様は、お嬢様に対するあたりが強かったので、いつも元気がないお嬢様のこと、心配しておりました」
ソフィ・ブラウンとしての私を心配してくれていた人がいたという事実が嬉しかった。お母様がいなくなってからは誰も自分のことを見てくれないし、気にしてくれないと思っていた。この屋敷という小さな世界で生きていた私は、存在していることだけで、誰かの迷惑になっている気さえしていたのだ。前世を思い出した今はそんなことは思わないけれど、ずっとそう思って、目立たないように小さくなって、ひたすらすみませんという言葉を使っていた気がする。
「料理長……」
「元気な姿が見られてよかったです。お元気で」
「はい、料理長も」
開けっ放しになった引き出し、倒れたままのグラス、割れた花瓶を避けながら部屋へと向かう。義母の部屋のドレッサーの中は空で、父の書斎も慌てて荷造りをしたのか、書類が散らばっていた。
屋敷中荒れているのに、私の部屋は綺麗なままなのが救いだ。急いで唯一持っていたドレスを脱いでワンピースに着替える。これからは平民として生きていかなくてはいけないから、このドレスを着ることはもうないだろう。持っている鞄に入るだけの着替えと、身の回りの物を詰めればあっという間に用意は終わり、その日、夜が明けると同時に私は家を出た。
最後にお世話になった屋敷を振り返る。
「もう後悔する生き方はしない。絶対に」
誰も聞いていないけれど、決意表明をして歩き出した。
それから一週間。
家を出てから路地裏で見つけたくつろぎ亭という宿屋に泊まっている。くつろぎ亭は、女性一人でも安全面で不安のない宿屋だ。それに、この辺りでは良心的な値段だ。それでも私の所持金では一週間もすれば出て行かなくてはいけなくなる。節約をして切り詰めているけれど、このままでは残金がなくなるのは時間の問題だ。
「あーあ、どうしよう」
仕事をすればいいと思っていたのだけれど、なかなか雇ってくれるところが見つからないのだ。私には身元を保証してくれる人がいないのが痛手になっている。
「まさか、この世界にマッサージが普及していないとは思わなかった」
前世でマッサージ師をしていたからどうにかなるだろうと思っていたのに、まずマッサージ屋さんが存在しない。だから、マッサージができたって仕事がないのだ。
職種問わず、近隣の忙しそうなお店を覗いては、仕事がないか聞いているけれど、なかなかいい返事をもらえない。どう見ても人手不足だろうというお店でも、家もなければ身元保証人もいない私を雇ってくれる店がない。
「おはようございます」
「はーい、開店時間はまだですよ」
そう言って中から出てきた店員のおばさんに、できるだけいい印象を抱いてもらえるように笑顔を作る。
「あ、私、お客様ではなくって」
「ん? どうしたんだい?」
「仕事はありませんか?」
「仕事? お嬢ちゃんが?」
「はい。こちらで働かせていただけませんか?」
「身元を保証してくれる人はいるかい?」
「いいえ」
「……うーん、訳ありのようだね」
また断られるだろうとわかっている。家を出たあの日からずっと仕事を探しては断られているのだから。それでも頭を下げて頼み込むしかないのだ。
「お願いします」
「雇ってあげたいのは山々なんだけれど、他を当たっておくれ」
「……いいえ、こちらこそ突然お願いをしてすみません。ありがとうございました」
断られるのには慣れたと思ったけれど、やっぱり辛いのは、心のどこかで期待してしまっていたからだ。
残金が減っていく日々に焦りを感じながら、仕事を探して歩き回るのは心も体も疲労する。給金もよくて、雇ってくれそうな仕事が何か所かあったけれど、明らかに怪しくて、真っ当な仕事とは思えなかった。
結局、毎日歩き回っても仕事は見つけられなくて、その日私はくつろぎ亭を出ることにした。
「お嬢ちゃん、これ食べなさい」
「ありがとうございました」
くつろぎ亭の女将さんは、豪快で明るくて気のいい人で、最後にパンにお肉を挟んだ軽食を手渡してくれた。
お世話になったくつろぎ亭を出て、天を仰ぐ。
「今日から野宿か……」
荷物を持ちながらの移動は思ったよりも大変で、行くところもない私は、広場のベンチに腰掛けた。暗くなる前に、野宿できそうな場所を探さなければいけない。
「前世の記憶があっても、なんの役にも立たない」
婚約破棄をされて、家族は夜逃げし、仕事も見つけられず、人生の大ピンチを迎えている。
前世では自立した後は自分で自分を食べさせていくことができていたし、手に職があったから、今みたいな不安はなかった。
「あーあ。マッサージがお金になればいいのに」
この日、私は生まれて初めて野宿をすることになった。
陽が落ちて、お店の明かりが消えれば、外は真っ暗だ。多かった人通りも少なくなり、広場は人がたまに通る程度で静かになった。涼しいと思っていた風に寒さを感じるようになるまで時間はかからなかった。人影から逃げるように、路地裏に入り、荷物を抱えて壁に寄りかかる。そして、布を被って顔を隠し、座ったまま目を閉じる。
けれど、熟睡なんてできなかった。
小さな物音で目が覚めて、足音が聞こえるたびに緊張が走る。
そんなことをやっていたら、身体が休まる暇なく、夜明けになった。
「あー、やっぱり屋根がある安心できるところで寝たい」
それから数日、昼間は仕事を探して、夜になると路地裏で体を丸めて過ごす日々を送った。
外で座って眠ることになかなか慣れなくて苦労したけれど、最後は、疲れに負けていつの間にか眠っていた。
路地裏で寝ることに少し慣れてきてきたその日。
手の中の荷物が突然引き抜かれた。
「あ、ちょっと、え? 待って」
荷物を抱えて走り去る後ろ姿に大きな声で呼びかけるけれど、泥棒は後ろを向かない。
「泥棒! 待てー」
必死に追いかけても、相手は足が速く、どんどん背中が離れていく。
その内に後ろ姿が見えなくなる。
「ハァハァハァ、嘘でしょ」
持っていた荷物を盗まれた。
今、私が持っているのは、寒さをしのぐ為に首に巻いていたタオルが一枚と、ポケットの中の少ない残金だけだ。
突然の出来事に涙もでない。
ただただ、ショックで、呆然と立ち尽くした。
「人生のどん底だ……」
お読みいただきありがとうございました。
 




