11.別れ
「いらっしゃいませ」
「女将さんがえらく勧めるか気になってな」
「本当に、気持ちがいいんだよ。勧めた私に感謝することになるよ」
「ふむ、それでは、とりあえず竹コースで」
初めてのお客さんは、女将さんと仲の良いくつろぎ亭の常連さんの商人のおじさんだ。くつろぎ亭に泊まっていればよく会う、顔見知りのおじさんだから気が楽だ。
「ありがとうございます」
「こちらにどうぞ」
「へえ、くつろぎ亭の隣にこんな部屋があるとは知らなかった」
「どうぞ、こちらに横になって、楽にしてください。どこか痛むところはありますか?」
「腰が痛む。長い時間馬車に乗るから、座っている時間が長くてな」
「なるほど、それでは失礼します」
うつぶせになってもらい、体に布をかけて、ゆっくりと手で触れていく。
触られることを嫌がってはいないけれど、身体が緊張しているようだ。
「馬車には何時間ぐらい乗っていますか?」
「長い時は、寝る時間以外は移動だからな、一日中ずっとだ」
「それは大変ですね」
「ああ、道が悪いとまた、大変でな」
少しずつリラックスして、力が抜けてきた。
「痛いときは遠慮なく教えてください」
「ああ」
「強さ、これぐらいは大丈夫ですか?」
「おお、問題ないぞ」
腰の骨の位置を確認して、背骨に向かい親指で指圧していく。
「おおおお」
「……」
「おお」
「……」
「おおおおお」
「大丈夫ですか?」
「なんだこれは、ものすごく気持ちがいいではないか」
「ありがとうございます」
内心でガッツポーズをして、体重をかけながら施術していく。
「しかし、嬢ちゃん、運がよかったな」
「運ですか?」
「下町の女帝と呼ばれる女将さんに気に入られれば、この辺りでは怖いものなしだぞ」
「女将さん下町の女帝と呼ばれているのですか?」
「なんだ、知らなかったのか?」
「初めて聞きました」
「この辺りで一番顔が広く、女将さんには逆らえない。逆を言えば女将さんに嫌われた奴は、この辺で商売しようにも誰にも相手にしてもらえない」
「それは、知りませんでした」
「女将にお礼を言っておくんだぞ」
「はい、教えていただき、ありがとうございました」
腰回りから、お尻周り、太ももの裏まで筋緊張を緩めたところで、砂時計が落ちて時間になった。
「終わりました」
「もう終わったのか?」
「はい、竹コースなので二〇分で終了となります」
「次は松コースだな」
「ありがとうございます」
どうやら、マッサージを気に入ってくれたようで、一安心だ。
心配してくれたのか、覗きに来た女将さんは、にっこり笑って商人のおじさんに言った。
「ほら、私が勧めてよかっただろう?」
「こりゃ、一本取られた気分だな。よし、開店祝いに俺からも何か送ろう。せっかくの店なのに殺風景すぎる」
「ソフィ、遠慮せずにもらっておきな」
「は、はい、それではよろしくお願いします」
その翌日から商人のおじさんが、行く先々でマッサージの話を広めてくれたようで、少ないながらもお客さんが来てくれた。
それからしばらくの間は、口コミで少しずつお客さんが増えていった。オープンしたてのお店としての滑り出しは上々だ。毎日疲れはするけれど、美味しいご飯に温かい寝床、やりたいことができている喜びもあって充実している。
「疲れたけど、楽しい」
休憩時間、裏口から外に出れば、ニコラさんが椅子に腰かけていた。
「ニコラさん。お疲れ様です」
「ああ、客が増えたようで、よかったな」
「はい、なんとかなりそうです」
「棚も椅子もできたぞ」
「わあ、すごいですね。ありがとうございます」
ニコラさんは器用で、数日で棚と椅子も完成させてくれた。
多くを語らないニコラさんだけど、ここにお店を出せたことを喜んでくれていると思っている。
「あの、実はこの椅子は、お店でニコラさんに座ってほしくて」
そう切り出した私は、思いの外真剣な面持ちのニコラさんに胸騒ぎがした。
「俺は、もう行く」
「え?」
「ここにずっとはいられない」
予想もしていなかったその言葉に、咄嗟に言葉がでなかった。
無意識に首を横に振ってしまった自分に気づいた瞬間、やっと理解が追い付いた。
「え、でも、前の場所に帰ると危ないかもしれないし」
「俺のことは気にしなくていい」
「あの男の人たちが、また家に泥棒にくるかもしれませんよ」
ニコラさんがここにいる理由を一生懸命探してしまう。
「大丈夫だ、あそこには帰らない」
「え?」
「俺には行くべきところがある」
「行くべきところ?」
「ソフィのおかげだ。ずっと逃げていた現実に向き合う勇気が持てた」
咄嗟に置いていかないでと思った自分に驚いた。
私の中でニコラさんの存在がこんなに大きくなっていたなんて、この時に初めて気づいたのだ。
「……私は、何もしていません。むしろ助けてもらってばかりで」
「いいや、俺はソフィが逆境に負けずに頑張るその姿に、胸を打たれた」
「そんな、私なんて」
「俺もピンチをチャンスに変える」
その言葉と、真剣な瞳を見ていたら、何も言えなかった。
「ソフィ!お客さんだよ」
女将さんに大きな声で呼ばれているのに返事ができない。
「呼ばれているぞ」
「でも」
「ほら行け」
その日、私がマッサージを終えて、部屋に戻った時にはニコラさんは既にいなくなった後だった。
「ニコラさんは? どっちに行きましたか?」
「やめておきな。今から追いかけても追いつけないよ」
ニコラさんを探そうと宿の外に出ようとした私を引き留めたのは女将さんだった。
「ニコラから伝言だ。今度は客としてくるから、待っていてくれと」
「ニコラさん……」
「心配しなくてもニコラなら、また会いに来るよ」
「また会いに来てくれますかね?」
「もちろんさ」
いつも隣にいたニコラさんがいないことが、とても寂しく感じる。もう二度と会えないかもしれないと思って、初めてその存在の大切さに気付いた。
「昨日の夜、ソフィが寝た後、ニコラが私のところに来たんだ」
「ニコラさんが?」
「ああ、自分がいなくなったらソフィが一人になるから、頼むって」
まさかニコラさんがそんなことを言ってくれていたとは思わず、驚く私の前に女将さんが小さな革袋を置く。
「これは?」
「本当は内緒にしてくれと頼まれたけれどね、ニコラがソフィのために置いていったのさ。開けてごらん」
小さな袋の中には、金貨ぎっしり入っていた。
「え、これ」
「ソフィのこれから先の宿泊料だって」
「こんなにですか?」
「自分がいなくなった後にソフィが困らないようにと言っていたよ。だからね、ソフィ、これからは寝る場所の心配も食べ物の心配もしなくていい。ここを家だと思いな」
「女将さん……ありがとうございます」
「礼ならニコラに言わないとね」
「はい、でも、こんなにたくさんいいのでしょうか?」
「いいさ。本人が望んだんだ」
「こんな大金……まさか、路地裏にいた人が貴族なんて、さすがにないですよね」
「さあね。でも、こんな大金用意できる男はなかなかいないよ」
「そうですよね」
「ニコラは、何もかも投げ出した自分が恥ずかしくなったと言っていたよ。人生やり直すと、そう思えたのはソフィのおかげだって」
「ニコラさんがそんなことを」
私はニコラさんに声をかけてもらえなかったら、路頭に迷っていただろう。感謝してもしきれないほどだ。
部屋に戻って、鏡の前に立つと、心細そうな顔をした自分がいる。
これからは本当に一人で生きていかなければならないのだ。
それは家を出たあの日も同じなはずなのに、あの日よりも今の方が寂しさを感じるのは、ニコラさんの存在があったからだ。
「好きだったのかな?」
そう、自覚したのは別れた後なのだから、ただただその夜は寂しい気持ちでいっぱいだった。
マッサージには自信がある、きっと上手くやっていける。そう思っても、やっぱり一人は寂しい。これからは何かあっても全部自分で対処しなければならないのだから。
「いっそ、男になれたら……」
長い髪は、誰が見てもぱっと見で、女だとわかる。
「切ろう」
ハサミを手に取り、思い切って長い髪を切った。
この世界の貴族の女性は髪を伸ばしているけれど、平民の女性はみんな髪が長いわけではない。私は、これから平民として生きていくから、長い髪は洗うのも乾かすのも大変だし、髪を切りたいと思っていたからちょうどいい。
胸の下まであった長い髪を切れば、頭が軽く感じる。
「うん、さっぱり」
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