1.婚約破棄、上等
新連載です。よろしくお願いします。
「マリー、婚約を破棄してほしい」
大勢の人がいる前で婚約破棄を宣言した男性に平手打ちをする女性の姿に、私はフッと思った。
婚約破棄なんてよくある話だな。
そう思った瞬間、とてつもない違和感が私を襲う。
なんで私は、婚約破棄がよくある話だと思ったのだろう?
生まれてこの方、婚約破棄現場に居合わせたのは初めてのはずなのに。
あれ? 何だろう、この感じ。
妙な違和感に首を傾げる。
王城なんて非現実的な場所にいるから、変なことを考えてしまったのかもしれない。末端貴族の私にさえ招待状がきた今日のパーティーは、たった今、目の前でビンタをした公爵令嬢であるマリー様と、頬を押さえているこの国の第二皇子であるオーリー殿下の婚約パーティーなのだ。
今日の婚約パーティーの主役である二人が揉める様子に、誰もが驚きを隠せず、会場はいつの間にか静まり返っていた。
「もう一度言ってみなさいよ」
「俺と婚約を破棄してほしいと言ったのだ」
聞き間違えたかと思ったけれど、思い切り振りかぶるマリー様の手を見て、殿下が言った言葉が聞き間違いではなかったと知る。
折れそうなほど細い体のどこにそんなパワーがあるのだろうと不思議に思うほど力強い一発で、オーリー殿下が吹き飛んだ。
「恥を知りなさい!」
そう言ったマリー様に、頬を押さえたまま座りこんでいるオーリー殿下。オーリー殿下と言えば末端貴族の私さえ知っているほど、女好きで有名だ。この婚約破棄騒動も、女性関係が問題なのかもしれないと思って聞き耳を立ててしまう。
「……痛いじゃないか」
「黙りなさい、くそ男」
「くそ男?」
「そうよ。婚約破棄? 上等ですわ!」
最後に中指を立ててそう言ったマリー様の姿に誰もが言葉を失っていた。
それは、私も例外ではなくて、ただただマリー様の横顔から目が離せなかった。
マリー様を見つめたまま、時が止まったかのように立ち尽くす私の視界に、婚約者のマイケルが入り込む。
マイケルは、私をチラリと見てから、なぜか人の輪の中心に飛び出た。
そして、大声で言った。
「ソフィ・ブラウン」
「はい?」
改まって名前を呼ばれるなんて、何を言い出すだろうかと身構える。
「俺も、便乗して婚約を破棄させてもらう」
ビシッと私を指さして、そう言ったマイケル。
良くも悪くも人に流されやすいマイケルは、目の前で起こった第二皇子の婚約破棄発言に触発されたのだろう。
婚約破棄なんてよくある話だけれど、便乗とはどういうことだと腹が立った。
その瞬間、違和感が再び私を襲った。
婚約破棄がよくある?
さっきもそう思ったけれど、なぜ私は婚約破棄がよくあると思ってしまうのだろう。
婚約破棄なんて、よくあることではないのに。
本当に?
そう、自分を疑い、記憶を辿った瞬間だ。
「え? ええええええ」
脳内に溢れる記憶は、前の私の記憶だ。
地球の日本で生まれ育った前世の私、島江ひかりは、三五歳のマッサージ師だった。
ただのマッサージ師ではなく、凄腕のマッサージ師だ。
趣味は、空き時間にスマホで漫画や小説を読むことだった。
その話の中でよく見たのが婚約破棄から始まる物語だったのだ。
だから、婚約破棄現場に居合わせたこともないのに、よくある話だと思ったのだろう。
ソフィ・ブラウンとしての一六年間の記憶と島江ひかりの三五年間の記憶が私の中に溶け込んでいく。
たった数秒の出来事だけれど、私の頭の中には二人の人間の記憶が存在している。
意識を目の前の婚約者、マイケル・ウッドに戻す。
突如、前世の記憶が戻って驚いて呆然とする私の反応に気を良くしたのだろう。
マイケルは得意げな顔をしている。
「泣いて頼んでも婚約は破棄するぞ」
マイケルと一緒になりたいかと聞かれたら、なりたくないけれど、貧乏末端貴族のブラウン家はウッド家に借金がある。だから婚約破棄をされたら非常に困るのだ。
そこまで考えてハッとした。
「いや、別に困らない」
「は?」
「むしろこれは神様がくれた大チャンス」
私の小さな呟きにマイケルは驚いた顔をしている。
「なに?」
昨日までの私ならきっと、下を向いて耐えて、自分が悪くもないのに謝っていただろうけれど、今は違う。島江ひかりとして三五年生きた経験がある。私は、後悔の気持ちを知っているのだから。
「言いたいことを我慢する人生なんてくそくらえだ」
「はあ?」
「婚約破棄、上等」
マリー様を真似て、中指を立てることも忘れない私。
「何を言っているんだ? ウッド家の支援がなければブラウン家はやっていけないんだぞ」
「爵位を返上すればいいのでは?」
「な、ななな、なにを言っているかわかっているのか? そんなことをしたら平民になるのだぞ」
マイケルが驚くのも無理はないけれど、私は貴族であることに思い入れはないし、借金まみれの家がこのまま続いていくとは思えない。そもそも今の家族は全員他人だ。血なんて一滴も繋がってないし、情はない。
「おまえ……本当にソフィか?」
「もちろん」
「ちがう! 俺が知っているソフィはこんな奴じゃない」
「こんな奴?」
「そうだ、こんなに気が強い女じゃない。いつも下向いて、謝ってばかりで、小さな声でもごもご喋って何を言っているのかもわからない陰気な女だ」
「そんな、陰気な女と婚約破棄したかったんでしょう?」
「ぐっ」
「かしこまりましたよ」
「な、なんだよ、後悔しても知らないぞ」
唖然するマイケルににこりと笑い手を振る。
一瞬目が合った公爵令嬢のマリー様に、小さく会釈してその場を後にした。
世の中なにがあるかわからないというけれど、まさか転生していたとは驚いた。
今の私は、トラル王国の末端貴族の長女、ソフィ・ブラウン、一六歳。家庭環境は複雑で、家族構成は父、母、弟、私の四人家族だけれど、私は誰とも血が繋がっていない。前妻の連れ子である私は邪魔以外の何物でもなく、使用人のような扱いを受けているせいか、口癖はすみませんだ。今、現在、追い出されずに済んでいるのは、私に婚約者がいたからだ。
婚約破棄が家族の耳に入ったら碌なことにならないだろうけれど、早く帰宅して、自分の口から説明しなければと思う。怒り狂うのは変わらないだろうけれど、自分の口から説明した方がましな気がするから。
そう思って、急いで帰宅した。
それなのに、待っている人はいなかったのだ。
まだみんな起きている時間のはずなのに、屋敷は真っ暗で、人の気配がしない。
「……えっと?」
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