3 記憶の始まりと森
真っ白な視界の眩しさから目を逸らすように瞼を閉じたアンジェリカは、しばらくして水の中にあった息苦しさが失せていることに気がついた。
慌てて目を開くと、そこには。
アンジェリカの記憶の始まりである森があった。
「どういうこと……?私は、死んだはず……!?嘘、声が…?」
周りを見回していたアンジェリカは疑問を口にし、声が出たことに驚き喉に手を置く。
その手が触れた肌は、やけに柔らかく、幼い頃に戻ったような錯覚を受けた。
指先に触れた白い髪は、腰のあたりまで伸ばしていたはずが、肩に触れるほどの長さしかなかった。
アンジェリカは、髪を切った覚えも、切られた覚えもない。
わけもわからず短くなった髪は、長年手入れがされていないような、やけにゴワゴワしているように思えた。
この森にやってきた理由もわからない。
どうやってあの状態で生き残ったのか。どうしてもここにいるのか。
アンジェリカが助かったのであれば、家族は、どうなったのか。
ぐるぐるとまとまらない考えが頭の中を回り続ける。
「なんで……なんで……」
言葉が漏れていることにも気づかないほど、アンジェリカは混乱していた。
だからこそ、気づくのが遅れた。
目の前の茂みから、目を血走らせたオオカミが顔をのぞかせていることに。
のそりと踏み出したオオカミが、芝を踏みしめる音でやっと気づいたアンジェリカは、へたり込んでいた足を片膝立ちにし、いつでも動けるようにした。
(失敗した……っ)
思考に気を取られて周囲の安全をおろそかにしたことを悔やみつつアンジェリカは拳を握りんだ。
爪が刺さり、皮膚に血が滲む。
じわじわと掌から血が伝う。
ぽたり、とアンジェリカの手を伝った血が、地面に落ちたその瞬間。
オオカミが飛びかかってきた。
思わず横に避けたアンジェリカは、思っていたよりも歩幅が小さく、オオカミの爪を避けきれなかった。
ピリっと頬に痛みが走る。
久しぶりの感覚に思わず眉根を寄せる。
避けきれなかったことを疑問に思いつつも、油断することなくオオカミを見つめる。
このオオカミに続いて出てこないということは、このオオカミは群れからはぐれたはぐれオオカミなのだろう。
しかし、なおさら、油断できない。
オオカミの習性は詳しくないが、このオオカミは目を血走らせている。明らかに普通の状態ではないのだ。
恐らく、どこかに怪我をしている。
手負いの獣は厄介なのだ。
再びオオカミが飛びかかってくる。
アンジェリカは落ちていた枝を折り、尖った枝の先をオオカミへ向ける。うまく行けば、オオカミに刺さるはず。
(来い…っ!)
しかし、オオカミがその枝に刺さることはなく、直前でオオカミが腹から血を出して倒れた。
サクリと何者かが芝を踏む音がする。
アンジェリカが目を向けると、そこには一人の男がいた。
耳の下で薄茶の髪を切りそろえ、理知的な薄黄緑の瞳にメガネをかけた男。
アンジェリカはその男を知っている。
孤児院の院長であるホークス・アズト。
公爵の遠縁であり、孤児院の子どもたちを何よりも大切に思っている人。
だが、彼のその姿は、アンジェリカが最後に見た姿よりも年若く見える。
そう、まるで若返ったような。
「迷子かい?お嬢さん」
目を見開いた。その言葉を、アンジェリカは知っている。
だから返した。
「わからない」
記憶の通りの言葉を。
「ふむ、お父さんは?」
「知らない」
「では、お母さんは?」
「知らない」
そう、知っている。この状況を。
だって、このやり取りは。
──アンジェリカが孤児院の院長に保護されたときの、アンジェリカと院長のやり取りだ。
(時が、巻き戻ったの……?)
ありえないその答えに、アンジェリカは動きを止める。
再び思考の海に沈んでいきそうになる自身を掬い上げ、考えるのは後でいいと自身を説得した。
「迷子なのかな。それとも捨て子?」
そう呟いて首を傾げるホークスを見つめながら、アンジェリカはこの後の流れを思い出す。
以前は、こうして声をかけられたあと、ホークスはアンジェリカを保護した。
親を探そうと言い、アンジェリカの身体的特徴から捜索願いを出したのだ。
その間、アンジェリカは孤児院の子どもたちとともに過ごしており、貧乏ではないが、裕福でもない暮らしをした。
そして、見た目から大体の年齢を定められ、五歳の孤児として孤児院に世話になった。
一年ほどアンジェリカの両親の捜索は続き、やがてアンジェリカが六歳になった頃、見た目の稀有さ故に事件に巻き込まれる可能性を考え、アクエスト公爵家に養子として引き取られたのだ。
一度、アンジェリカは人生を送っている。
だから、どれだけ探そうともアンジェリカの両親が見つからないことは知っていた。
捜索するにはお金がかかる。
もとより、身元不明の孤児であるアンジェリカのために、大金を注ぎ込むようなことをしていた。公爵家は、今までの孤児もそうやって両親の捜索をしていたのだろうか。
だとすればどれだけの人間がアクエスト公爵家に救われているのだろう。
アンジェリカは、一度目の人生をアクエスト公爵家の養女として過ごし、様々なものを発明してきた。
今まで、かまどでしか料理をすることはできなかった調理場に、魔力で動くコンロを作った。
蝋燭に火を灯していた生活に、魔力を使った照明器具を作った。
魔力を注ぐことで自動で洗ってくれる洗濯機を作った。
それ以外にも様々なものを作り出してきた。
だが、それに目をつけられてアクエスト公爵家の人間は殺された。
ならば、アンジェリカは公爵家に養子として引き取られなければいい。
公爵家の家族には会いたいけれど、会ってしまうことが破滅へのレールを敷くことのように思えた。
家族に会えば、アンジェリカの色を失った白黒の世界は色づくのかもしれない。
だが、そのために、アンジェリカ自身のためだけに、家族を危険に晒すかもしれない行動はできなかった。
愛する人たちを危険に晒すくらいならば、アンジェリカは自身が傷つく未来を取る。
だから、アンジェリカは色を失った白黒の世界で、感情らしい感情もなく、ホークスを見つめる。