「嫌なら読むな」は不公平だと思う。 〜批判問題についての考察〜
批判を受けた作者の方がしばしば『嫌なら読むな』という発言をされることがあります。
それならば読者側には『嫌だから読まない』があるはずです。
しかし実際にこの言葉が書き込まれることはありません。
考えてみれば当たり前のことで『嫌』かどうか知るためには読まなくてはいけないからです。
難癖の類を除けば、読んで嫌だったから批判をするという流れになるわけです。
しかし、いくら読者が傷ついたといってもそれをそのまま書き込んでしまうのは好ましいことではないでしょう。
一人一人の書き込みは些細なものだったとしても数の暴力は作者の心を容易に折ります。
ただ、だからといって批判をするなと頭ごなしにいうのもどうなのか? と感じてしまうのですよね。
もし『興味を惹かれて寄ってったらいきなりぶん殴られたから怒った』という状況で相手から「お前が近づいてきたのが悪い」といわれたら納得できないと思うからです。
それならば首からでも『殴り癖アリ』とぶらさげておいてほしいです。
そしたら最初から近づかずに立ち去るので。
では『読者側にはどうしようもない。 作者の責任だ』となるのでしょうか?
それもなんだかおかしい気がします。
そもそも一人の作者が無数の読者相手に書くという形式である以上、何を書こうが誰かを傷つけるわけです。
それら一つ一つを全て警告するのは現実的では無いと思います。
あらすじなどで予防できるなら平和なのですが、なかなかそうはいかないでしょう。
そう考えると作者としては理不尽な攻撃を受けていると感じても無理はありません。
ここまでを軽くまとめると
読者側としては『嫌な思いをしたので愚痴りたい』
作者側は『批判されるとへこむからやめて』
この対立構造になっているということですね。
ではここから対策を考えていきます。
まず作者側なんですが批判を受け付けないことを明記しておき、書き込まれたら削除しかないですよね。
ただ、先程から何度かいってますけど、読者側はその作品を読んで心に傷を負ってるんですよね。
それをシャットアウトするのはどうなんだと。
そう考えると作者側からの対策は難しいですね。
次に読者側からの対策ですがこちらも難しいです。
これも繰り返しになりますが、例えば自分のトラウマを刺激される作品は読みたくないと思っていても自衛しきれない部分もあります。
極端なことをいうと、傷つく覚悟がないなら『なろう』自体に寄り付くなって話になっちゃいますね。
そんなわけでスパッと解決できるような対策はありません。
これからも何度も問題になると思います。
だからこそこの問題には一人一人が思いやりの心を持って話し合って解決していく、そして愉快犯的な荒らしは団結して排除する。
そうした対応を地道に積み上げていくことが必要だと思いました。
以上です。 ここまで読んでいただきありがとうございました。
実は私は読者より作者の方が使うエネルギーが多いのだからその分の配慮は必要という考えなのですが、読者側に立ったエッセイが少ない気がしたので今回は中立を意識して書いてみました。
あと読者としての体験談として
私は悪役に対する『実はこの人にも事情があったんだ』がとても苦手です。
破滅の美学みたいなのを持っている悪役ならまだいいですけど、基本的にはそんなこといわれても可哀想なだけです。
何か仕方がない理由があるなら救われてほしいですし、断罪されるなら同情要素は全てなくして欲しいのです。
そんな感じなので警告していただけるとありがたいのですが、これを前振りなしにやられる方が結構いらっしゃるんですよね。
いや、でも抗議に行ったことはないですよ?
壁に向かって愚痴るだけです。 悲しい。