9. 災難
「上出来だ。」
ミシュマルは辺り一面に狂い咲く薔薇を見回すと、左手を挙げてゆっくりと空を切るように振った。その動作に応えるように、一帯を囲っていた結界が溶けるように崩れていく。
「やっと結界を解くことが出来た。…お前のお陰だな。」
疲労が混じった声でそう言ったミシュマルの表情はまだぎこちなく、ディアスの顔色を伺っているように見える。先程ディアスに怒鳴りつけた事に対し、多少は悪く思っているらしい。
ディアスは心の中でミシュマルに舌を出した。
ミシュマルは強面で責任感が強く、側近やエフベド達に厳しく接する事が多々あるが、一方で下の弟達には甘い。あからさまに甘やかしはしないが、弟達から嫌われないように接している節がある。
「ディアス。先程は――」
「別に大したことじゃない。それより、腕を出して見せて。」
ミシュマルを不自然に遮り、ディアスは遠慮なく手を差し伸べる。ミシュマルは一瞬また何か言いかけたが、諦めたのか袖を捲り両腕をディアスに見せた。その腕の状態を見て、ディアスは思わず顔を顰めた。想像していたよりもかなり重傷に見える。手首から二の腕までの広範囲に浮かぶ、斑模様のような血の滲んだ痣が痛々しく、所々が血豆のように大きく膿み膨らんでいる。
ディアスの表情を見てミシュマルは鼻で笑った。
「結界を張る際に穢れを受けてしまった。我ながら迂闊だったな。」
「誰かに診せた?」
ミシュマルは首を振る。
「いや。これに関しては実は誰にも言っていないのだ。小石の対処のついでに、お前に何とかしてもらおうとは考えていた。最初は手首にだけ発症していたのだが…。」
ミシュマルはため息をつき、それ以上は言わなかった。
7日も間が空いた事で手首から二の腕まで穢れが広がったということか。ディアスは苦々しく奥歯を噛み締めた。これは相当痛いに違いない。神にも痛覚はもちろんある。
「このまま放って置くのはさすがにまずいだろうな。」
ディアスはミシュマルの両腕の痣に顔を近ずけ、暫く観察したあと、手の平を両腕にそっと当てた。穢れた両腕を直接触れられ、ミシュマルは驚いて身動いたが、ディアスは大丈夫だと目配せをする。
暫くすると、ディアスの手の内側からスルスルと光り輝く筋が伸び、ミシュマルの両腕にゆっくりと絡みつきはじめた。光が幾重にも重なり、腕が完全に覆われた瞬間、ディアスは手を離し、それと同時に光も消え失せた。両腕から痣が跡形もなく消え去ったのを見てミシュマルは眉を上げた。
「いつ見ても仕組みがわからない。便利なものだな。」
「これが他人でも出来るようになったりしちゃあ 、俺の存在意義はなくなるだろうな。」
腕をまじまじと見つめるミシュマルにディアスは肩を竦めた。
「これは治療というより、ただ『無かった事』にしただけだから、後で誰かに診てもらう事を勧める。」
「あぁ。わかった。」
ミシュマルはふっと口角を上げ、ディアスの頭をくしゃりと撫でた。ミシュマルの指先にディアスの細い絹糸のような髪の毛が絡まる。ミシュマルに撫でられながら、ディアスは俯いて目を閉じた。
タイミング的に言うなら今しかない。
「手紙は今日受け取ったんだ。」
ディアスの言葉に、ミシュマルの撫でていた手が止まる。ミシュマルは長くため息を吐き、ディアスの頭から手を離した。
「そういうことか。」
ミシュマルから微かに殺気が漏れ出ている。顔を上げると、恐ろしく冷たい表情を浮かべたミシュマルと目が合った。
「催促の手紙は?」
「催促?いや、届けられたのはあの一通だけ。」
「遅れた理由は?」
「直接会ったときに弁明するとだけ。」
「なんだ?どういうことだ?あの女は直接お前に手紙を届けたのではないのか?」
「いや、側近が一人で届けに来た。」
「…アレはもう駄目だな。」
そう冷たく言い放ったミシュマルにディアスは肩を竦めながら空間移動の脳内演算を始めた。
とりあえず誤解が解けて良かった。今回の緊急招集への遅延は自分の意思ではなかったことだけは伝えたかった。あとはミシュマルがネヴィームに怒鳴るなりなんなりするだろう。
ディアスの周りを光り輝く粒子が旋回し始める。
「じゃあ、俺はもう帰る。」
「帰る?」
ディアスがどうやらミッケダシュから出ようとしている事に気付いたミシュマルは驚いた顔で声を挙げた。
「お父様から聞いてないのか?」
「何を?もう用は済んだのだし、帰っても文句は言われないだろう?」
ディアスが肩をすくめると、そういう事じゃない、とミシュマルは首を振った。
「お前が創ったというあの空間はもう無いのだよ。お父様が消滅させた。」
は?と、ミシュマルの言葉にディアスは目を瞬かせ、あんぐりと口を開けた。
確かに先程からあの蒼の空間へ向けての演算をしているが、なぜか上手くいかない。ミシュマルは嘘を付かない。まさか本当に…。
「なんだ、その顔は。別にお前にとっては――」
空間を創る事なぞ、造作も無いではないか、とミシュマルが言い終える前に、ディアスは忽然と姿を消した。