6. 帰還
時空間の圧縮、消去、移転、改造、そのほか諸々をこなすにはコツがいる。
ディアスは生まれた時から、それを呼吸の様に無意識に理解し扱ってきた。
光る粒子を身に纏い、ミッケダシュへ向けて空間移動をする間、彼は止まる事なく悪態を付いていた。
ミッケダシュとは神々が住まう祝福の地の中心にそびえ立つ巨城である。ミッケダシュでは最高神とその直系であるハティクヴァの子供たち、そして大勢のエフベドとそれを支える神々が住まい、政を司っている。
ディアス自身もミッケダシュで育ったが、あの蒼の空間を創造して以来、用事がある時以外にミッケダシュへ赴くことはあまり無い。しかし、彼なりにミッケダシュとは良い関係を築いてきた。だからこそ、ミッケダシュどころか、祝福の地の外に住まうという、前代未聞な願いを最高神に認めてもらえたのだ。
だが、今回のこの件は、今まで築き上げてきた信頼を揺るがしかねない。黒の封蝋が押された封筒を7日も放置することは、それほど不味いことであった。
最高神からの手紙の内容は、要約すると、『緊急事態により、今すぐミッケダシュへ帰還せよ』とのことだが、この『緊急事態』についての詳しい事は記されていなかった。事態が不明瞭だからこそ、それが余計に彼を苛立たせた。
ディアスが今向かっている先はミッケダシュ内の大聖堂だ。普通は城の正門から検問を受けて入り、その後、幾重もの頑丈な門を通るたびに証明書を門番に提示するのが筋というものだが、彼には必要ない。
それに、怒られるのならば、なるべく目立たない様に怒られたい。これに関しては、他の神々にはなるべく知られないようにしたかった。
願わくは、そのまま静かに蒼の空間に帰りたい。いや、元凶である、あの女を懲らしめてから帰るべきか。
ディアスは心身ともに疲れ切っていた。今の時間なら、最高神以外誰も大聖堂に入れない筈だ。
しかし、そんな彼の思惑は大聖堂に着いた途端、一瞬にして崩れ落ちた。
「これはこれは、ディアス樣!ご機嫌麗しゅう。」
着いた瞬間、耳をつんざくような大声が大聖堂に響き渡った。
あぁ、まったく。
「ナタニエル。相変わらず息災でなにより。」
ディアスは一瞬身を固めたが、声の主に向かって落ち着き払った顔で微笑んだ。
温厚そうな見た目の老いたエフベドが在らん限りの笑顔でディアスを見つめている。
すっかり忘れていたが、ナタニエルの存在を頭に入れておくべきだった。ナタニエルは最高神の側近かつ元老院の一員であり、この時間に大聖堂を出入りしていても、まったくおかしくない。
「ほほほ。お気にかけて頂きありがとうございます、ディアス様。しかし、全く。貴方様はいつ見ても麗しい。貴方様がいらっしゃるだけで、場が華やぎます。そう思いませぬか、アンシャル樣!」
ナタニエルは両腕を広げながら歯並びの良い白い歯をにっこりと見せ、大聖堂の奥の方を振り返った。
ナタニエルは最高神の名を呼ぶことを許された数少ないエフベドの内の一人である。
ナタニエルの視線の先、大理石の長く幅広い上り階段の天辺に、最高神アンシャルが巨大な玉座に身を委ね、こちらを見下ろしているように見える。玉座の背もたれからは、左右に向かって合計16枚のプラチナ製の光り輝く巨大な翼が大聖堂の一面を覆うように伸びている。玉座の後ろ一面の壁は、細かく装飾された水晶で出来ており、外からの光が水晶石の壁を通して壁全体が光り輝き、その逆光で最高神の輪郭以外はっきりと見えない。
「言いたい事は分かるが、その位にしてやれ、ナタニエル。」
アンシャルの低く、凛とした声が大聖堂に響いた。
「ほほほ。もちろんです。では、積もるお話もありますでしょうから、私はこれにて失礼いたします。」
ナタニエルは軽く片膝を折って一礼したあと、意気揚々とほほほっと笑い声をあげながら、薄水色のマントを翻し、滑るように大聖堂から立ち去って行った。
ナタニエルのあの様子だと、ディアスが帰還したという噂がミッケダシュ中を駆け巡るのも時間の問題だろう。
「よく帰ってきたな。愛しい息子。」
少し間を空けてアンシャルがディアスに声をかける。
「ただいま帰りました、お父様。毎度のことですが、こちらへ降りて頂けると助かります。眩しすぎて目が痛い。」
ディアスはしかめっ面をして玉座に座るアンシャルを見上げた。水晶の光が容赦無く目に突き刺さって来て、目が潰れそうだ。
「第一声がそれか。この配置には意味があるのだよ、愛しい息子よ。いくら神々が相手とて、気安く我の姿を目にしてはならぬ。」
アンシャルはそう言い返したが、ディアスの要望通り玉座の前の階段をゆっくりと下り、彼の元へ降りて来た。
「しかし、偉く遅かったではないか。ネヴィームに手紙を届けるように頼んだのはかなり前だったのだが。」
「…それについては、先程お父様の手紙を受け取りました。」
アンシャルがディアスに右手の甲をディアスに向けて差し出すと、ディアスは流れるような動作で片膝を床につき、差し出された手の甲に唇を落とした。
「そうか。ネヴィームは未来にばかり気を取られ、現在の事を忘れてしまうようだ。今回こそ、きつく言わねば。」
吐息を吐き、眉間に皺を寄せるアンシャルの顔色を、ディアスは立ち上がりながらそっと窺った。
憂いを帯びた表情をしているが、お父様は俺に対して怒っていない。
ディアスはそう判断し、心の中で安堵した。
「手紙に記してあった緊急事態について教えていただけますか?」
「そうだな。この件に関しては、まだ解決していない。何から伝え始めたらいいものか…。」
アンシャルは大聖堂の大扉に立っている護衛に庭園に出ると伝え、ディアスを誘導するように右手の指先を庭園の方へ向けた。