あるバレンタインの日に
2月の風は冷たい。それでも乾いた空気は洗濯物を良く乾かしてくれる。天気予報では、夕暮れから太平洋低気圧が近づき、この冬一番の寒気団とぶつかるために空模様は急激な下り坂になると言っていた。
小さな小さな庭に立ち、空を見上げると西の方角には真っ黒な雲が湧いているのが見えた。つっかけを履き、柴を踏んで、大きなランドリーバッグに香りの良い下着やら、シーツやらを放り込む。
長男の翔太のパジャマに付いた鼻血の跡が取れていないのが私の唯一の不満だった。 小さな家の小さな寝室で、乾いた洗濯物を畳み、必要ならアイロンをかけて、箪笥に丁寧に入れる。それからベッド脇にある小さい棚の抽斗を開けてこぎれいに包装された包みが中に有る事を確認した。旦那にあげる値段の高めなチョコレートだ、翔太はとても目ざといので、こういうものを見つけるのが上手い上、直ぐに開けてしまうから困ったものだ。 特に中に有る物がチョコレートだと分かれば、さっととお腹に収めてしまう。ぱらぱらという音が屋根を打った。雨の音ではない、もっと硬いなにか。
「お母さん雪だよ!!」翔太の声が届いた。
そそくさと居間に行ってみれば、寒いというのに翔太が窓を開けて外を見ていた。黒々とした艶のある髪、そして大きな瞳、長い睫。大きくなれば、どんなにもてる男の子になるだろうと思わずに居れらない。私は、翔太の後ろに立ち、外を見た。
「あれは雪じゃないわ、霙よ」
「霙?」
「そう霙、でももうすぐ雪になる前触れね、早く買い物に行かないと大雪になったら大変だわ、一緒に行こうね翔太。」
「うん」と翔太は頷いて床に広げていた紙を片付け始めた。集めた包装紙の裏にはクレヨンで沢山の絵が描かれている。
*
家を出ると、辺り一帯が暗くなり、何時もより街灯が早く点灯していた。周りの住宅は私の家と同じデザインが並ぶ。この小さい家も本当は私と主人が選んで買ったものではない、主人と彼の前妻が買ったものだ。
そんな家など、本当ならさっさと売って他所に引っ越したいものだと何時も思っていたが、気が付いてみれば住めば都のようになっていた。
誰も通らない住宅街の道も、小さいマーケットの前と中だけは賑やかだ。特にこんな天気となれば遠くまで買出しに行く気も起きないのだろう、むしろ何時もより多いくらいだ。
「寒くなるから今日はお鍋かなぁ」私は、そういいながら籠の中に家族用のパックになった野菜セットを入れた。そして肉にしようか鱈にしようかと迷っていると翔太が私の服の裾を引いた
「おかぁさんチョコレート買っていい?」甘やかすのはどうかと思う、もう2回おねだりをされたら、あとはだだをこねられるだけなので買うしか無いだろうなと思いつつ
「家に沢山あるでしょ」と小さい声で諭した。
案の定、テレビでやっているキャラクタのじゃないと嫌だと翔太は甘えた声を出した。そして私の後ろを付いてきながらおねだりを続ける彼にとうとう根負けをしてしまった。
家に帰ると、徳用袋のチョコレートもあると言うのに、翔太はそれを食べてくれない、スーパーを出ると。ちらほらと白いものが舞い降りはじめた。寒い。息が白くなる。翔太だけが、目を輝かせて雪を目で追っていた。
*
鍋には翔太の好きなつみれを入れる事になった。主人が帰宅する時間を見計らい、酒肴にと柵で買ったブリの刺身を切り、小松菜と油揚げを煮びたしにした。そこに電話が鳴り、受話器を取ると主人が出た。
「悪い、今日付き合いが入ってしまったんだ。遅れるから先に夕飯にしてくれないか、多分10時くらいになると思うから」
「ええ…あまり飲み過ぎないでね、大雪になるみたいよ」
「大丈夫、それに飲み会じゃないから。さっさと終わらせて上がるよ」
私は、自分で缶ビールを開け、自分で作った肴で飲み。翔太には、鍋とご飯をよそった。テレビでは、雪のニュースをやっていた。転倒して怪我人も出たようだ。このテレビを消してしまえば、恐ろしいほどの静寂が私と子供だけしか居ないこの部屋を覆う、これがなによりも怖い。
「ねぇ、マンガぁ」翔太はニュースが良く分からないから直ぐにそう言う。
「もうちょっとね」このまま雪が降り続けば主人の帰宅はより遅れそうだ。電車が止まるような事になる事が酷く不安だった。窓はうっすら結露を始めている、それなのに白い大きな雪の影が映って見えた
私は5年前のこんな雪の日に、私は主人の前妻から主人を奪い取った。5年前、ホテル ラ・ヴィラの一室で彼がシャワーを浴びている時に、私は彼の自宅に電話をかけた。出るのは彼の妻以外は居ないことは知っていた。翔太がアニメに勝手にチャンネルを変え、派手な効果音が部屋を満たした。しかし、私の想いは遠い過去に行きっぱなしだった。
「五百蔵です」と電話口に出たそのときの女性の声は今でも頭を離れない。
「芳さん?」私は、ホテルの中にあるテレビを点けた。画面では、濃厚なラブシーンがいきなり始まった。しかし音量を落としてあるので、今はただの静かなホテルの一室に過ぎない。もっとも暫くすれば私の歓喜の声で満ちる部屋になるだろうが。
「どなたですか?」私はそれに無言で応えた。
「奥さん、旦那さんが今何処にいるか知っています?」と私は言った。私は彼女の夫が家には会社の飲み会と言ってあるから大丈夫さと嘘を付いているのを知っていたが、受話器の向こう側で無言で対応されたので、一呼吸を置いた。
「旦那さんは、ホテル ラ・ヴィラに居るわ」私は冷たい声を出した。
「え?」受話器から聞こえる声は震えている。
その電話の向こうにから、アニメソングも聞こえる。彼から写真で見せてもらったことがある、彼に似ない醜い男の子がきっとテレビをじっと見つめているのだろう、あんな素敵な男性からどうしてこんな子が出来るのかが不思議なくらいだった。
「S駅の前にあるホテル ラ・ヴィラに旦那さんがいるわよ。」S駅といえば歓楽街で有名な処だ、ここでホテルといえばラブホテル以外にはない
「うそ」震える声。
「本当よ、可愛い女性と今頃よろしくやっていることでしょうね」自分の事を可愛いといえる自信が私にはあった。彼をモノにした自分の魅力は、彼の妻には負けないのだから
「今、入ったところだから、きっと2時間後には出てくるわ」
「なぜ私に…」
「さぁ、真実を見に来るかどうかは貴女自身の問題だけど、私は、教えてあげたかっただけ。お宅からS駅までは30分もあれば行けるでしょ、考える時間はたっぷりあるわよ。旦那さんの本当の姿を見たければ来ることね」
「あなたでしょ…貴女が主人と居るのね?」流石に女の直感は鋭い。
「ご想像にお任せするわ、私は教えただけ」そして電話を切った。
バスルームのドアが開き、彼が腰にバスタオルを巻いただけの姿で私の胸の中に戻ってきた。避妊具を取り出した彼に、ピルを飲んでいるから大丈夫とそれを押しとどめた。そしてめくるめくような愛の時間の中で、私は、快楽以上のものを欲した。
何時も彼を見つめていたい、何時も触れ合っていたい、何時もその声を聞いていたい、そうでなければ、死んでしまいそうだった。
不倫とさえ言わせたくない、私と彼の関係こそ本来あるべき夫婦だ。あの女は違う。彼と結び合うことさえ本当なら許してはいけないのだ。なのに、私と彼の逢瀬の時間は2時間しかない。
行為が既に終わり会話もなくただじっと寄り添っているとベッド脇の電話が鳴った。
彼が受話器をとると事務的なフロントの声が私の耳にも聞こえた。
「まもなく時間です。延長しますか」
「いいえ」と応える彼の声がもどかしい、延長して欲しい。もっとこうして居たいのに。
*
着替えをすませ、部屋を出る。キーをフロントに返して他人に戻るつかの間、私達は短いキスをした。自動ドアから外に出ると、いつの間にか銀色の世界に変わっていた。いつもならここから、距離を置いて歩き出した私達は、異なる駅舎を目指す筈だった。
だが、道の反対側に彼女が立っていた。傘をさしてじっとこっちを見ていた。脇には小さい男の子が彼女に寄り添っていた。写真で見た醜い男の子だ。大きな頭、小さい目、つぶれた鼻そして…
「おかぁ、ちょこれーとほしい」と言う声がしわがれた老人のような声なのにはびっくりした。まったく子供の声ではない
「だめ」と叱る彼女に
「ちょこれーと、ちょこれーと」と何度もせがむ声が耳に障った。
彼が唾を飲み込む音がはっきりと聞こえた。彼女の目がじっと彼と私を睨みつけた。
雪が私たちの間でしんしんと降り続いた。
「ばれちゃったわね。」と私は彼に小さく囁いた。「どうする?」
彼は、前に踏み出した。私の胸は動悸にゆれた。耳の中で自分の心臓の音だけが木霊する。彼と彼女の会話が聞こえない。雪が静かなホテル街のアスファルト積もる、ひたすら積もる。頬を打たれる彼。そして子供の手を引いて背を見せる彼女。その背中が雪でかき消された。佇む彼と私の周りで、雪が降り続いた。
彼は、私を一瞥してから「後で連絡をするから」と早足で雪の中に溶けて行った。
私は独り雪の中に取り残されたが、気持ちは熱かった。これで離婚は決定に違いない。鼻歌を口ずさみ、私は駅前のホテルから自分の目指す地下鉄の入り口に向かって歩いた。
いくつもあるラブホテルの間の道を恋人達が彷徨っている。雪の中を寄り添い、幸せそうに、あるいは不安そうに暗がりの道を彷徨っている。でも私はひたすらその路地をスキップしたい気持ちで幾つも突き抜け、大きな通りの向かい側にある地下鉄の入り口を目指した。
その大通りの横断歩道に女性と子供の後ろ姿があった。なんでこんな処に居るのよ、家に帰るのじゃないの?彼は、どうしちゃったのよ、周りを見回しても彼は居ない。
「おかあちゃん、ちょこれーとぉ」と子供の声が頭の中に響く、何も応えない母親に向かってその子の声が連発する。私は傘を落としてしゃがみこみ耳を塞いだ。
なんでこんなに耳障りなのかが分からない
ちょこれーと!ちょこれーと!ちょこれーと!
ちょこれーと!ちょこれーと!ちょこれーと!
雪が私の頬に冷たく当たる。道を急ぐ人々は私がこうしてしゃがみこんで居るのが見えないように脇を通り過ぎてゆく。
ちょこれーと!ちょこれーと!ちょこれーと!
ちょこれーと!ちょこれーと!
ちょこれーと!
ちょこ…
声が止んだ。目をあげると子供の手を強引に引くよう母と子は青信号になった横断歩道を渡ってゆく、まだぐずっている子供を急かしているが、やがて横断歩道の上にはその二人しか居なくなった。大小の背中が雪でかすんで見える。
交差点を左折しようとブレーキをかけたトレーラがスリップを始めた。運転台は速度を落としたかの様に見えたが、貨車が音もなく横を向き道路を塞ぐように滑り出した、シャーベット状の雪を跳ね飛ばしながら横断歩道を突っ切ってゆく、悲鳴が夜空に散った。雪がしんしんと降りつづいた。私は勝ったと確信した。
そう5年前だ、あの日、私は彼に嘘をついてピルを飲むのを止めていた。どんな事があっても彼を手に入れるために。そして翔太を身籠もった。あれもこんな雪の日だ。私はテレビの画面を眺めている翔太の背中を見てから、壁にかかった鏡をみた
老けたなと思う、彼はまるでこの5年の間歳を取っていないように見えるのに、私だけ老けてしまった、まるであの女みたいだ。
寂しい。
早く帰ってきて
あの顔が見たい。
あの手に触れたい
あの声を聞きたい
遠くで何度も雷鳴が響き始めた、それがどんどん近づき、やがて耳をつんざくような
雷鳴が響いて電気が消えた。テレビの青白い明かりだけが何故か部屋を照らしている
「あら、停電?」
と私は電話機の横においてある懐中電灯を手にした。ブレーカが落ちたくらいなら自分で処理ができるがそれ以外となると主人の帰宅まで待たなければならない。
アニメを見ながら翔太が言った。
「おかぁ、ちょこれーと」
老人のような耳障りなしわがれた声。
びっくりしてふりむくと、翔太の頭の鉢は大きく膨らみ小さい目を私に向けた。テレビの明かりが翔太…いや、あの死んだはずのあの女の子供の片頬を青白く染めている。
そして電話が鳴った。身動きをとめた私の足元にあの女の子供がやってきて足に絡みつきながらしわがれた声で甘える。
「ちょこれーと、ちょこれーと」
疲れているんだ。きっとそうに違いない、そう自分に言い聞かせながら、受話器を取ると、いきなり
「奥さん、旦那さんが今何処にいるか知っています?」
と若い女性の勝ち誇ったような声が聞こえた。