第29話(epilogue2):舞子の思い
エピローグ第2話。舞子篇です。
満が杉山家に電話したところから始まります。
今回もまた長い(5000字以上)のでご注意ください。
松永さんは約束どおり、私たちには手を出さなかった。以前のような緊張した空気が嘘のようだ。
なつきと美由は学校に通っている。もしかすると借金のことでいじめの類でもあるかもしれないと心配していたけど、二人によるとみんな優しく接してくれるらしい。
買い物に出かけても、娘と一緒に出かけても、誰もついてくることはない。噂話は少しあるけれど、以前に比べればおとなしい。無視していればいい。
この生活が、とても幸せに感じる。「普通の生活」というものが、こんなに幸せを感じるものだとは思わなかった。
余命を宣告された人や、戦争に巻き込まれた人、病気のウイルスで隔離された人たちは、元のなんでもない生活に憧れるらしい。
きっとそんな心境を私自身も感じているのだろう。
ただ、そこに欠けているものがあった。彼がいない。
私には独りになる時間が少なからずある。そこで、満を誘い出す取引をしたことを考えてしまう。
家族に被害が及ばないように、彼を切り捨てたことを。
本当に正しかったのか。彼はこんな私をどう思うだろうか。娘たちに恥ずかしくないことをしたのだろうか。いくら考えても答えはうかばない。でも、考え続けている。
考えることをやめるために、無理にでも外に出ている。これは、うつ病にかかった人が家にどじこもると悪化するという話を聞いたからだ。外の空気は少なからずリラックスの効用があるみたいだ。
ご近所の奥さんと軽く会釈をしたり、買い物をしたりするだけでも気分が晴れるし、答えの出ない問いを自分に課すこともない。
彼は、満は、借金を返していつか帰ってくる。それまでは、私がなつきと美由を支えないといけない。そう思っている。
松永さんとの取引から5日経った昼間、突然目の前にある電話が鳴った。
着信履歴を見ることもせず、その電話に飛びついた。勢い余って本体を突き飛ばした。
「…もしもし! もしもし! 、あなたなの!?」電話の相手が満だと思い込んでいた。
でも違っていた。松永さんだった。
借金が完済されたという話だった。それどころか、私や満の親類が貸してくれたお金まで利子をつけて返していたという。
ありえない。まったく信じる気が無かった。むしろ、満が見つからないから、私を油断させて捕まえるつもりなのではと疑った。
でも、違っていた。松永さんは心底困っているような口調だったし、私が疑いをかけたら気分が悪くなったのか、松永さんのほうから電話を切ったからだ。
私を捕まえるためなら私が何を言っても切るはずがない。
確実に確認できる方法が1つあった。通帳記入だ。銀行の通帳は私が持っている。
早速町の銀行で通帳記入した結果、松永さんの言うとおりだった。約3000万が知らない名前で振り込まれ、2500万が返済に回されていた。親類の名前もそこにあった。何十行も取引があって数えるのに苦労した。
そして、残り500万の振込先は…”スギヤママイコ”となっていた。
「…私!?」 あまりにびっくりして声をあげてしまった。すかさず自分の通帳で通帳記入をした。”スギヤマミツル”名義で500万が振り込まれていた。
どうして私に振り込まれているのかわからない。戻ってお茶を淹れて独りで飲んだ。
彼に何かがあった。それは確かだ。何があったのか、考えたくなかった。
松永さんから完済の電話をもらって2日経った。続くと思われた彼を待つ日々は、あっけなく終わりを告げた。
それは、一本の電話からだった。
「…もしもし」焦って満と勘違いすることはなかった。
「私、栃木県警の粒木といいます。杉山満さんのお宅でしょうか。」
彼の名前が出て、少し正気でなくなった。
「警察の方? ……あの人が何かしたんですか? もしかして…」私はしたくない想像を再び始めた。
「落ち着いてください。」粒木と名乗る刑事は私をなだめて話を続けようとした。ドラマの脇役にいそうな、訛りを含んだイントネーションだ。
「大変申し上げにくいことですが、満さんと思われる方の遺体が栃木県で発見されました。」
…言葉が理解できない。彼がどうしたって? 栃木県?
「お手数ですが、確認のため栃木県警までご足労願えないでしょうか。」電話の声はひたすら冷静で事務的だ。それがかえって私を落ち着かせた。
「わかりました。子供も連れて行きますので、少し遅くなると思います。」反射的に答えた。
「了解です。ではお待ちしています。」そういって電話を切られた。
数秒、固まった。思いたくないことを思ってしまいそうなこの感覚。何かしないといけない。何かしないと、何をするかわからない。
電話を切り、すぐに学校に電話した。車を出し、美由となつきを学校でつかまえて栃木へ向かった。
娘たちには、”お父さんが見つかったという話を聞いたから出かける”とだけ言っておいた。
彼に会えるんだ。そう思って、栃木への道を急いだ。何か重要な情報が欠落していると思ったけれど、気にしなかった。
栃木県警に着いたころにはもう日が暮れていた。粒木刑事が迎えてくれた。まだ若いが田舎っぽい印象があるのは、背広でないからだろうか。
私は美由となつきを婦警さんに預けた。始めに粒木さんから事情を聞かれた。借金に追われていたこと、その借金が完済されたこと、満と会話したのはその前であることなどを話した。
松永さんに彼を売ったことは話さなかった。
その後、粒木さんは私を地下の人気の無い場所へと導いた。ドアを開けると、真っ白な壁にベッドと簡単な祭壇があった。
そのベッドの上に誰かが寝ていた。顔には白布がかけられている。
白布を取ったその顔は、満だった。決してハンサムではないが、その優しい顔で私を迎えてくれた。
どうして目を閉じているのだろう。きっと寝ているんだ。私は満にゆっくりと話しかけた。
「満さん。起きて。私です。舞子です。もう大丈夫ですよ。起きてください。なつきも美由も来ているんですよ。早く起きてください。」
目覚めない満にいつまでも話しかける。粒木さんが私を見ていることには気づいていない。
「どうしたんですか。眠いんですか。家に帰ってからゆっくり寝ましょうよ。いいかげん起きてください。ねえ…ねえ…ねえ…!!」
知らないうちに声が上ずってきた。彼が…認めたくない思いと早く起きてよという思いがめちゃくちゃになる。
涙がこぼれ始めた。粒木さんはすでに私の様子がおかしいことを察していたようだ。
「どうしてよ! どうして覚めないの! 目を開けてよ! 満さん! なんでよ! なんで起きないのよ! 起きろ! 起きて! 起きてよ!」
満さんの体を揺さぶろうと手をかけたとき、粒木さんが後ろから私を抑えた。
「満さん! 満! ああ…!! なんでよ、なんで…!! いやよ! いや! いやああっ!」
もう涙と鼻水とわけのわからない思いで自分が何をしているのか分からない状態になっていた。
その後、記憶は一時的に途切れた。
次に目覚めたのはベッドの上だった。祭壇を壊すなど、大立ち回りだったと粒木さんに聞いた。
粒木さんにお礼とお詫びを言った。
私が落ち着いて、粒木さんとともに、彼の遺体を娘たちに見せた。3人で、満の「遺体」を確認した。
なつきは泣き崩れる。美由は「おとうさん、どうして寝ているの?」と、何が起きたのか理解できていない様子だった。
3人で抱き合って、ふたりを励ます。私は、泣いてはいけないと思った。
粒木さんが、死亡推定時刻は今日の夜明け頃だと教えてくれた。やはり事故らしい。
確認が出来れば用はないので、東京に帰ろうとした。
しかし、その状態では運転できないだろうと、娘をみてくれていた婦警さんの運転で東京まで帰ることになった。
婦警さんはちょうど東京へ出張の予定があって、トランクに荷物をいれていた。
東京までタダ(高速代は私が払った)で行けて渡りに舟だったことを笑って話してくれた。彼女の気さくさと高速道路の夜景で、東京に帰りついた頃にはほんの少し落ち着きをとりもどした。
私は婦警さんに家に泊まってもらうよう提案した。
本当は(遺族の車に便乗することも含めて)いけないらしく最初は断られたが、ならば”お友達”ということでお願いをした。
矢板さんというその婦警さんは、栃木県警に”知人の家に泊まる”と報告の上、快く応じてくれた。
その夜は娘を寝かせて、2人で少しお酒を飲み世間話に花を咲かせた。そしてそのまま眠った。
なつきと美由は、学校に行きたがっていたので学校に行かせた。学校には電話で事情を説明し、葬儀日程が決まり次第休校させていただくと言っておいた。
矢板さんは私とともに娘を見送って、ゆっくり朝食をとってもらった。玄関をでるその顔は婦警さんの顔に戻っており、敬礼をして別れた。
数日後、満が、無言で家に戻ってきた。
粒木さん、矢板さん、そして警視庁の神田さんという刑事が今回の最終報告をしてくれた。検死も終わりで、事故死で確定したこと、なぜ山中にいたのかはもはや不明ということを報告してくれた。借金を返してもなお逃げ続けていた理由がわからない。もしかすると、お金がなくて食べ物でも探しに行ったのかもしれない。
遺体を返してもらったので、葬儀を早急に執り行うことにした。
粒木さんたちは仕事の都合で列席できないとのことで、まだ満の写真も無い仏壇に手をあわせて帰っていった。
この頃になって、満から振り込まれた500万の意味がようやくわかりかけてきた。
満は、罪滅ぼしのつもりなのだ。自分の借金のせいで生活を壊した罪滅ぼし。
何らかの手段で借金は返したが私たちに合わせる顔がなく、この500万で清算しようとした。俺はいなくなるけど元気でいろよ。そんなメッセージが聞こえてくるようだ。
冗談じゃない。
男の人はお金があれば責任を果たせると考えがちだ。女でもそう考える人がいるかもしれないけど、私にとってはそんなの大間違いだ。
500万どころか、500億貰っても、清算なんてできない。
私たちは家族だ。彼に、生きて帰ってきてほしかった。お金なんていい。
お金が無いなら私も働く。家なんて売り払ってもいい。小さいアパートでも、満、なつき、美由、私の、4人で暮らしたかった。
私は私自身の判断で彼を切ったはずなのに、結局はこれだ。切り捨てられなかった。自分が情けなく、間違いに後悔もした。
帰ってきて欲しかった。できることなら、今からでも目覚めて欲しい。
そんな綺麗事を、新婚夫婦が描くような幻想を、まともに考えた。その幻想は、永久に叶わない。
いざ、いなくなってしまうと、後悔という名の穴に、悲しみという穴が覆いかぶさる。永久に埋まらない幾重にも重なる穴ができてしまった。
葬儀の前日、私は娘たちを家に残して河原へ行った。電車の高架下で、思い切り泣いた。
電車の音にかき消されたと思ったが、30分も電車が通り続けるわけもなく、泣き声は河原中に響いた。
涙が残っていないと思うまで泣いた。
彼を送り出す。彼はもう帰ってこない。もう、これで泣くのは最後だ。そう、決めた。
葬儀が始まった。私と満の親類が来てくれたのが嬉しかった。
満に代わってこれまでの非礼を詫びた。親類に対する債務も解消されていることもあり、一定の譲歩は見せてくれた。
粒木、矢板、神田の連名で小さな花が贈られていたのが嬉しかった。
なつきと美由は、なんとか泣かずに過ごしてくれた。美由も、満のことを”天国に行った”と認識してくれたようだった。
枯れたと思っていた涙がまた出てくる。けなげに耐える娘を不憫に思ったからだ。こんな思いはもうさせたくないし、したくない。
私はいろんな罪を背負って、彼女たちを支えていかなければならないと、改めて思った。
葬儀や告別式がすべて済んだ後、生命保険等の手続きに奔走した。
そのなかで、以前、満が借金の担保として入っていた生命保険が継続されていたことが発覚した。受取人は私で、その額は、家のローンを支払ってもなお充分残る金額だった。
前職の会社、親類、粒木さんたちへの挨拶、遺品の整理、仕事探しで、納骨までの日々を過ごした。それでも月命日の墓参は欠かさず行い、以降三回忌まで続けた。時には娘たちも連れて行った。
四十九日は3人で納骨を行った。
満さん。いままでありがとう。そして、ごめんなさい。これからは3人で生きていきます。どうか、見守っていてください。
彼のことや今回のことは、私は一生忘れない。時が過ぎて、笑って話すこともないと思う。でも、彼を想って生きていく。娘を想って生きていく。
それが、私に出来ることだから。
舞子さんには結構辛い思いをさせています。
でも、気丈に乗り越えてくれるでしょう。
さて、いよいよ次回は最終回です。
最終回は、「美鈴」篇です。