第01話:逃走
「待て! この野郎!」
俺は駆けずり回った。あっちの道こっちの道、路地裏、他人の家、裏をかいて繁華街を堂々と。人ごみにまぎれながら、ひたすら逃げていた。借金取りから。自分の親、妻の親、友人、同僚、果てはヤのつくところからも借金した。ある程度は返済しているが、人間関係はおかげさまで絶縁状態だ。金の切れ目が縁の切れ目とはこのことだ。合わせるとだいたい1000万くらいあるだろうか。
俺は杉山という。とにかく、借金取りに追い詰められているところだから、今詳しい話をしているヒマはない。さすがに、マンガのように借金取りに追われるなんて現実に起こるとは思わなかった。
捕まったら、タコ部屋か? 生命保険か? 東京湾か?
走って疲れすぎて気がおかしくなったのか、つまらないことを考え始めた。そのとき、どこかから声がした。
「こっちよ!」
いきなり女の声がした。姿は見えないが、確実に自分の耳で聞いた…はずだ。
「どこいきやがった!」「探せ!」
やつらのいきりたった声がすぐ近くで聞こえる。
「どうするの? 逃げる? 捕まる?」
今度は確信だ。誰かが俺を逃がそうとしている。それが罠でもいい。今はやつらから逃れられればそれでいい。悪魔だっていい。逃げられるならそれでいい。
声のする方向に進んだ。そこは袋小路だった。袋小路に曲がる直前に奴らに見つかった。
「いたぞ! こっちだ!」「待てコラ!」
奴らの怒声がひびく。袋小路。行き止まりの壁に女の姿が写っていた。白い服を着た、髪の短かそうな女だ。本来なら異常な光景だ。夜なら幽霊だと思うだろう。壁から白い手が伸びてくる。女は無言だったが、「つかまりなさい」とその手が言っているように見えた。もう、いちいち正常だ異常だと考えていられない。とにかく逃れたい一心でその手をつかんだ。手は、信じられない力で壁の中へと俺を引っ張りこんだ。俺は、壁の中に吸い込まれ、女の胸に飛び込んだ。女は俺を抱きしめて「じっとして! 動かないで…」と強い口調で言った。俺は、息を立てるのも遠慮して、女の胸に埋もれた。奴らの怒声が壁の向こう側からしてくる。
「いねえぞ!」「いない!? そんなはずはねえ! 確かにこっちに来たはずだ!」「くそ! どこ行きやがった!」「絶対に捕まえてやる!」
俺を見つけた1人と、反対側の道から俺を追い込んできた1人が問答している。そのうちに、あと2人がやってきた。幹部らしい2人だ。
「落ち着け。奴はこの中だ。」と、1人が4本指の人差し指で袋小路を指している。あちらから俺たちは見えないらしいが、こちらからは奴らが見える。見つかったんじゃないかと気が気でない。
「この中、って、何もないじゃないですか」
「こうするのさ」と、ボスらしい奴は袋小路を蹴飛ばしだした。
ガン!! ガン!! ガン !!
こちらの中にまで響く轟音が20回30回と続いた。しかし、塀はびくともしない。
俺は思わず声を出しそうになったが、女の手のひらが俺の口をふさぐ。「大丈夫。そのまま。そのままよ。」と、さっきと違い優しい声でささやいた。
いいかげんあきらめてくれたのか、轟音が鳴り止んだ。男たちは悔しそうに袋小路から去っていった。袋小路から離れていくのが足音でわかった。
ふーう、と長く一息をついた。気がつくと、女の姿はなかった。
背面には袋小路が見えるが、硝子張りにでもなっているのか、進むことも手を出すこともできなかった。もっとも、怖くて出られないが…。
正面を向きなおすと、その先に明かりのついたドアが見えた。
「こちらへどうぞ」ドアの向こうからさっきの女の声をはっきり認識できた。
奥に進み、ドアをあけると、女がいた。さっき見た女だ。見た目は20代後半くらいの、髪の長い女だ。さっきは暗闇で髪まで見えなかったようだ。見方によっては大学生くらいに見える。白で、腰から下がふわっとしているワンピースだった。
そこはリビングルームだった。広間の奥に4人座れる木目のテーブルと、りっぱなシステムキッチンがある。
女はキッチンでお湯を沸かしている。俺は無意識にドアを閉めた。
タイトルにある「アナザーズ」は03話以降に出てくる予定です。
(09/03/24修正)