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穏やかな時間

三条 楓から柏木 楓に変わって数日が経った。


私の15年の人生の中で一番穏やかな時間が流れている。


毎日、多江さんと広い屋敷の掃除や洗濯、食事作りをしたり、庭師の栗野さんを手伝って庭掃除をしたりしている。

最初は、奥様にここまでさせるわけには!とやらせてもらえなかったが、「どうしてもさせて欲しいの、迷惑にならないようにするから」と頼み込んで少しだけ仕事を分けてもらった。


それでも1日を仕事で費やすこともなく、暇を持て余してしまう。

そんなとき、「良いところのお嬢さん」は何をするのだろうかと考えてみるが、知っている「良いところのお嬢さん」は妹くらいだ。

活発な妹は芝居やら人形劇やらをよく観に行っていたのを思い出した。

しかし、私には芝居やらを観に行くお金もないので、結局自分の部屋で編み物をしたり、暇を察した多江さんがくれた本を読んだりして過ごしている。



結婚してから、旦那様と顔を合わせたのは片手で数えるほどしかない。

旦那様はとても多忙な方で、夜もすっかり更けた頃に帰って来られて、朝は夜明けと共に出勤される。


多江さんも栗野さんも住み込みの使用人ではないらしく、日が落ちるのと共に家に帰っていく。

二人とも旦那様が帰ってくるまで居ます、と言ってくれるけど、この2人はきっと暖かい家庭を築いているんだろうから、私なんかに時間を使ってはいけないと思って、なんとか説得して毎日家に帰している。



結婚初日、旦那様を出迎るために玄関で待っていたところ、


「出迎えなど不要だ、こんなところにいるんじゃない」


と言われてしまった。

あぁ、不快な気持ちにさせてしまった、これは「妻の役目」ではないのね、と思い、出迎えはやめようと思った。

その後すぐ、旦那様は務める軍部から召集がかかり、再び出掛けてしまわれた。


次の日の昼、旦那様のものであろう達筆な字で、


「今日は帰らない」


とただ一言書いた紙が、軍部から届けられた。

やはり私がいるから帰りたくないと思われたのだろうか、私が不快な思いをさせたから・・・不安が頭をかすめる。


「あらあら、旦那様がこのように帰らない時に連絡をよこすなんて初めてです。

旦那様なりに奥様に心配をかけないようにと思っていらっしゃるのですよ」


多江さんがそう言ってくれて、そうだと良いのだけど、と呟いた。


「旦那様は不器用な方なのです、奥様には見捨てずにいただけるとありがたいのですが…」


「まさかそんな!私の方こそ見捨てられないように頑張らなければ」


私が見捨てられることはあっても、私が旦那様を見捨てるなんてありえない。そういって笑うと、あまり無理はなさらないでくださいね、と言われて本当に優しい人だと思った。


夕飯にシチューを作ったのでもしお口に合うようでしたら召し上がってくださいね、と言って多江さんは帰っていった。

旦那様に作ったものを私が食べて良いのだろうかと思いながらも、せっかく多江さんが作ってくれたから、と少し皿によそって食べた。

初めて食べたそれは、「シチュー」という食べ物なんだそうで、暖かくて、美味しくて、でも広い家に一人だと不安や孤独が胸の中に一気に広がって、泣きそうになった。

今泣いて叱責する人はここにはいないけど、ぐっとこらえて静かな食卓でただ黙々とシチューを味わった。



その後も、旦那様は朝食は基本的にとらずに仕事に行かれるので、朝食の準備や見送りも不要だと言われてしまったため、いよいよ旦那様と会う機会もない。たまに顔を合わせても、とても素っ気ない態度を取られる。

やはり私の存在が旦那様の迷惑になっているのだろう。

だから旦那様が家に帰って来られた時には、多江さんが旦那様のために作った食事を並べて、旦那様のお風呂と着替えの準備をするとき以外の時は部屋にこもり、極力旦那様の視界に入らない様に過ごしている。


少し冷え込み始めた夜のこと、お風呂を上がった旦那様のためにお茶を入れていると、思ったより早く上がってこられた旦那様と鉢合わせた。


旦那様が来られて、


「こんなところで何をしている」


と睨みつけながら言われ、反射的に謝った。


「も、申し訳ございません」


「・・・部屋に戻る、好きにしろ」


そう言い残して、部屋に戻っていかれた。

いないと思った私がいて、不快な気持ちになったんだろう。

こんな状態で持っていっても、怒らせるだけかもしれない。

しかし、旦那様の書斎は夏は涼しいが冬は寒いと多江さんが言っていたし…そう思って、お茶をお盆にのせた。


旦那様の書斎を尋ねると、扉を開けてくださった。

なんだ、と短く問われ、


「あの、今夜は冷えますので、もしよろしければ…」


そう言ってお茶を乗せたお盆を差し出すと、少し驚いた様な顔で受け取ってくださった。


「・・・ああ、すまない」


「夜分遅くに、失礼しました」


嫌われているのだから、早く出なければ。急いで書斎を後にした。


よかった、怒られなかった。

見捨てられない様に、気を引き締めなくちゃ…

部屋に戻っても失敗してばかりの自分が不甲斐なくて、なんだか眠れなかった。

月明かりを頼りに、多江さんから借りた本を読んだが、その内容にはあまり集中できなかった。


旦那様には嫌われてしまっているようだが、今のところ罵声を浴びせられたことも、折檻を受けたことも一度もない。毎日暖かいご飯、暖かい寝床があり、飢えに苦しむことも寒さに凍えることもなく、驚くほど平穏な日常が流れている。


だからこそ、この後に何か悪いことが起こるに違いないという、確信がじわじわと私の心を締め付けてくる。





 《多江視点》


私は柏木家には、旦那様を坊ちゃんと呼んでいたころから仕えている。


昔から旦那様は苦労の多い方だった。

先代、つまり旦那様のお父様がそれはそれは奔放な方で奥様を早くに亡くされてからはその寂しさを埋める様に賭け事や女遊びに没頭され、家が没落するのも時間の問題だと言われていた。


しかし、幼い頃よりとても賢く、自分の父親のせいで家が大変なことになっていると察してしまえた旦那様は、年齢より早く大人にならざるをえなかった。

まだ遊びたい盛りの少年時代に父の代わりに財政を立て直すために奔走し、策略や裏切りだらけの大人の世界を渡り歩いた旦那様が、常に不機嫌そうに眉をひそめ、冷たい物言いしかできない、人嫌いの大人になってしまったのも仕方がないことなのかも知れない。本当に冷たい方ではないのに、世間は誤解している、と不服に思っていた。


そんな旦那様が三条家のご息女と結婚をする、と言った時、私と庭師の栗野は正直、先が思いやられた。

旦那様のその地位や顔によってくる良家のお嬢様たちはとても多い。「冷たいお人と聞いてはいますが、私は愛する自信がありますわ」そう言って寄ってきた全員が、その誰もが「こんなに冷たいとは思わなかった」と勝手に失望し、泣いて逃げてしまうのだ。

そんなことが何度も続き、旦那様の人間嫌いにさらに拍車がかかってしまった。


そんな旦那様と結婚するだなんて、まして、それがあの名家三条家のご息女だなんて、生まれてからこの方叱責どころかきっと厳しい言葉などかけられたこともないだろうに、旦那様の物言いや厳しい雰囲気に耐えられるはずがない。

できれば病弱で世間知らずだという長女より、姉を献身的に支える心優しく美しい次女の茜様の方が旦那様とうまくやれるのでは…とそんなことを考えていた。

しかし、嫁いでくるのは長女の方だと聞き、旦那様がこれ以上心労を抱えなければいいのだけど、とこっそりとため息をついた。



そんな気持ちでいたのを心の底から反省した。


奥様はとても素敵な女性だったのだ。

病弱ゆえ社交の場にも全く出てこられないため容姿の噂はあまり多くは聞かなかったが、可愛らしいお顔立ちの妹の茜様に比べると地味な女性だと言われていたが、約束の時間ちょうどに門を見上げていた女性は、とても美しい方だった。

黒く艶やかな髪も、伏し目がちの長い睫毛も、淡い桃色の頰も、紅を塗った薄い唇も、神秘的な美しさだった。

派手な色の鮮やかな着物からのぞく腕が折れてしまいそうなほどに細いのは、病弱だからだろうか。


楓様のご容姿だけではない。私たち使用人にも丁寧で、たった数刻お話をしただけでとても好ましく思った。

何より驚いたのは、初対面での旦那様の冷たい物言いに、ただかしこまりました、と言って微笑んで見せたことだ。

政略結婚だと分かって覚悟を決めていらしたのだろうか、それにしてもこんなにすんなり受け入れられるだろうか。

旦那様も泣くか喚かれるかすると思ったのだろう、怪訝な顔をされていた。


数日奥様と過ごして、楓様は私たちの知っているご令嬢たちとは違うと気付かされた。

確かに最近はやりのシチューを知らなかったり、世間に疎いところはあるが、高価なものを欲しがったりすることなく、世間知らずだという噂はデタラメだと思った。

高価なものを欲しがるどころか、旦那様から何か買いたいと言ったらここから出す様に、と渡されていたお金はいまだに一切手をつけていない。


嫁いでこられたばかりで遠慮されているのだろうか、と思ったが、特に欲しいものはない、と困った様に言われて、本当にないのだと分かり、驚いた。時間を持て余していらっしゃるようなので、私のお古で申し訳ないとは思ったが、本を数冊差し上げると、なんてことはない本だがたいそう喜ばれた。俗な言葉などがうつるといけない、と本を読ませない家もあると聞いたことがあり、三条家はそういう方針の家だったのだろうか、と思った。


他にも、三条家のご令嬢とは思えないほど、炊事などの家事がとても上手でいらっしゃる。庶民の娘でもそう上手くはないであろうに、魚までなんのためらいもなく捌こうとした時は、それは私がやります、と包丁をとりあげた。「家では世話になったから、料理くらいは、と思ってたまにしていたの」と話されていたが、これはたまに料理をしていたという次元の話ではないと思った。


旦那様が、初対面で奥様に今まで通りの生活ができると思うな、と言われたのは、使用人の数が少なくギリギリで屋敷を回している私たちに、実家でしていた様にあれこれ用事を押し付けるな、という旦那様なりの私たちへの気遣いで、間違っても楓様に使用人の様に働け、ということではない。


しかし、奥様は私たちにあれこれ命じるどころか、一緒に仕事をしてくださって、しかもその仕事ぶりも丁寧で素早く私たちの分まで働こうとされるのを止めなければならないほどだ。


奥様が来られるまでは、栗野と交代で旦那様の帰りを待っていたが、私にも栗野にもそれぞれ家庭があると知った奥様は、これからは私が留守を守るから、二人は家族は大切にしなくては、と私たちを家に帰してくださった。


この方は今までのお嬢様方とは違う。もしかしたら旦那様ともうまくやって下さるのでは・・・


常に張り詰めていた柏木家の雰囲気が、少しづつ変わり始めた。



しかし、私も栗野もまだ気づけていなかった。


奥様の仕事ぶりが一朝一夕で身につく様なものではないことを、

奥様の細く頼りなげな手がご令嬢ではありえないほどに荒れてしまっているのを、

慣れぬ広い屋敷でただ一人きり、不安な気持ちを押し殺して、奥様に対して優しいとは言えない旦那様が帰ってくるのを待っていることを・・・

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