一員
ある夏の終わりのことだった。
「楓、お前ももう15になったわね。結婚してこの家の役に立ちなさい」
突然母から告げられた言葉で、私の人生はまた大きく変わった。
見せられた白黒写真には軍服に身を包んだ男性が写っていた。切れ長な瞳の整った顔立ちだが、不機嫌そうに眉間によった皺がその気難しい性格を表しているようだ。
「柏木家の御当主 御影様よ。この方からお前に縁談が来ているの」
噂などに疎い楓も知っている。
先代が賭け事で食いつぶした財をたった数年で取り戻し、没落しかけた家を立て直した超やり手の当主、柏木 御影。
家を立て直した敏腕さと帝国軍人としての戦歴、そして何よりその端正な顔立ちから、市井の女子たちから熱い視線を受けている。
しかし、極度の人嫌いゆえ浮いた話が一切なく、また、彼に言い寄った女子はみな涙を流して逃げ出す、と噂好きの茜が喋っていたのを覚えていたのだ。
よほど厳しいお人なのだなと思ったが、よもや自分の旦那様になるなどとは思ってもおらず、ただただ驚いた。
楓が結婚は嫌だと言ったところで、母のなかではすでに決まっていることのようなので、何も反論はせずに受け入れた。
「なんと奇特な方か、お前のような小汚い娘でも良いと言ってくださっているのよ。柏木家のため、ひいては三条家のために尽くしなさい。
本当ならお前のような不出来で暗い小娘では柏木様に釣り合わないのだけど、茜は好いた人がいるようだし、柏木様も三条家の娘ならどちらでも良いと言われたからね。まさか柏木家とつながりが作れるなんて夢のようだわ!
・・・余計なことを言いうんじゃないわよ、わかってるわね」
「分かっております。…お世話になりました」
何をお世話になったいうのか、自分でもわからないが、そう言って頭を下げた。
家のための政略結婚など、この時代珍しいことではない。むしろ、この家から離れられて良かった、旦那様が良い方だといいのだけれど・・・そう考えて、頭を振った。違う、期待なんかしてはダメ。
孤児院を出た時もそうだった。勝手に期待して、勝手に裏切られた気になって。
私が幸せになんかなれるはずがないのに。
誰からも必要とされない、みんなを不快にさせる。
そんな私に何の価値もないのだから…
旦那様がどのような人でも、今まで通りにただ従順に過ごそう。
怒らせないように、気に障らないようにそうやって日々をやり過ごそう。
しっかりと自分の気を引き締めて、ほとんどない自分の荷物を片付け始めた。
周りを緑で囲まれた、市街地から少し離れた穏やかな空気が流れる場所で、私は呆然としていた。
目の前にあるのは、大きいと思っていた三条家の日本家屋とは比べものにならないくらい、大きく立派な洋館だった。白い建物に綺麗に整えられた緑の庭。今まで見てきた中で一番大きくて、一番綺麗な建物だ。
本当にここなのかと何度も地図を見直していると、庭の方から上品で姿勢の良い老齢の女性が出てきた。
「三条楓様でございますね。初めまして私、柏木家使用人の多江でございます。遠路はるばるようこそお越しくださいました。」
頭を下げられ、慌てて自分も頭を下げる。
「は、初めまして、三条楓と申します。よろしくお願いいたします」
「まあまあご丁寧に。はい、こちらこそよろしくお願いいたしますね。
旦那様は中でお待ちです。ご案内いたします」
優しそうに目が細められて、荷物お持ちします、と自然に荷物を持ってくれた。
連れて行かれながら、これが本物の使用人なのね、お母様たちが私のことを不出来だと言われるのも当然だと思った。
洋館など入ったのも初めてで、日本家屋の軋む木材の床とは違う、硬い石でできたツヤツヤの床を恐る恐る踏みしめながら多江さんのあとをついていった。
応接間というところに通され、これまた座ったことのないくらい柔らかなソファーというものに座らされ、体の沈む感覚に驚いた。
天井の高さも、装飾品も何もかもが目新しく、まるで茜が持っていた外国の絵本に出てくるお姫様の家のようで、自分の場違い感に途端に居心地の悪さを感じた。
今身につけているのは柏木家に行くために買い揃えてもらった上等な着物で、着物だけならこの館に釣り合っているのに、自分だけがこの空間に不釣り合いでソワソワと落ち着かなかった。
目の前に出された良い香りのお茶や綺麗な色の洋菓子も、自分のために用意されたものだとは思えず、ただソファーに座って眺めていた。
目の前の派手ではないが丁寧な装飾がされた重たそうな扉が開いた。慌てて立ち上がり、扉の方に向き直る。
「遅くなった。柏木家当主 柏木 御影という」
低いがよく通る声で、そう言いながら入ってきた長身の男性は、写真で見た柏木御影その人だった。
いや、写真の何倍も険しい顔つきで、何倍も精悍な顔だ。写真と同じ軍服を着ているが、その迫力は白黒写真の比ではないくらい威圧的で、その鋭い雰囲気に気後れした。
「三条 楓でございます。この度は・・・」
「決まりきった口上などいらない。
ここの使用人は多江と庭師の栗野という男しかいない、今までのような楽な暮らしはできないと理解してもらおう。
君は身体が弱いとは聞いているが、妻としての役割は果たすよう努めてくれ。
私も夫としての務めは極力こなすつもりだが、家庭を優先したりはしない。これは政略結婚だ。
愛だのなんだのは最初から期待してくれるな。
柏木家の一員として、恥じぬ振る舞いを頼む」
挨拶すら遮られて、多江さんが慌てて旦那様!と諌めたが、私は手を揃えて旦那様に頭を下げた。
「かしこまりました。柏木家の名に恥じぬよう精一杯努めさせていただきます」
大丈夫、期待など最初からしていません。そんな気持ちを込めながら旦那様に微笑んだ。
怪訝な顔をされたがよろしく頼む、と一言言われただけだった。
そのあとすぐ旦那様は仕事に行かれ、ここが奥様の部屋でございます、そういって通された部屋は三条家での自室の何倍も広くて綺麗だった。
窓を少し開けてみると涼しい風が吹き込んできて、少し遠くに見える都会の街並みをぼんやりと眺めた。
写真で見るよりずっと素敵な方だった。
「柏木家の一員、か…」
低く響いた声で紡がれたその言葉を繰り返してみて、なんだか落ち着かないような、そんな微かな違和感を抱えながら、私の結婚生活は始まった