心をころして
呼吸がだんだん苦しくなる
胸元を抑えて呼吸を整えようとしても、余計に苦しくなるばかりで、だんだん視界もぼやけて足もふらついてきた。
苦しい・・・っ
「おい!大丈夫か!?しっかりしろ」
誰かにしっかりと抱き止められた。その人物の顔を見て分かった。
ああ、これは夢だ。この人が、旦那様がこんなにも必死になるなんて、まして抱きしめられてるなんて。でも、夢でも嬉しい、久しぶりに話せたなぁ。今はなんでか焦っているけど、低くて穏やかな声も硬くて大きな腕も、全部私のものだったら良いのに。
夢なら、今だけ、今だけで良いから・・・
震えながら差し出した手を大きな掌でぎゅっと包まれて、嬉しくて、苦しくて、やっぱり夢だと思った
「楓!お茶がまずいと何度言ったらわかるんだっ」
罵声とともに湯のみが飛んできた。幸い怪我はなかったが貴重な着物がお茶の染みを作っている。
申し訳ございません、と頭を下げれば、「全く辛気臭い子だ、可愛げもない」と憎々しげに吐かれた。
その口で「平吉こっちにおいで、ばあちゃんがまんじゅうをあげよう」と弟に優しくまんじゅうを差し出している。
弟がこちらを一瞥し、あの汚いのどっかやってよ、というと、祖母はこちらを睨みつけ、
「早く片付けてどこかにいきな!ほんとうにとろいね」
とまた罵声を浴びせた。
俯き食器を片付けていると、何度も何度も繕った着物にまたほつれを見つけてしまい、憂鬱な気持ちになった。
由緒正しい血統を持つ一条家の分家、三条家の長女が私、三条 楓。
この三条家で私の立場は明確で、私が召使で、それ以外は主人。妾の子である私はこの家には不要な子どもで、でも世間体を気にする三条家の人たちにとって、妾の子も育てる愛情深い自分たちを演じたい祖母や義母にとって私はちょうど良い道具なのだろう。
私は7歳まで孤児院で育った。それがある日突然、見たこともないくらい綺麗な着物を着た女性がやってきて、今日からあなたは三条家の子になるのよ、と言ってにっこり微笑み手を差し出した。
決して良いとは言えない環境の孤児院で育った私にとって、新しい家族ができることは期待しかなく、迷いなく手を取った。三条家ってあの大きなお家の?もうお腹が空かないで良いんだ、寒さに凍えなくて良いんだ、ぶたれたりしないんだ、そういう私の期待は、三条家の門をくぐった瞬間に打ち砕かれた。
「さっさとその汚い手を離しなさい」
繋いでいた手を振り払われて、その勢いに爪で手のひらに血が滲んだ。あまりに激変した態度に痛いとか、どうして、とかは思わずただびっくりした目で女性を見上げた。
「本当、あの忌々しい女にそっくりね。平蔵さんは一体どこが良かったのかしら。いい?あなたの母親はね、人の夫を盗む嘘つきの泥棒だったのよ。たかが娼婦の分際でまさか子どもまで作ってたなんて。
平蔵さんが死に際に親戚がいる中であなたの存在を明かすから、仕方なくうちに入れてあげるのよ。可哀想なあなたを仕方なく三条家に入れてあげるんだから、あなたは私たちのいうことはなんでも聞かなくちゃね?」
その言葉の意味の全てを理解できたわけではないけど、自分がとても嫌われていること、自分に自由なんかないことは、よく理解できた。
妹の茜、弟の平吉はまだ幼かったが、祖母や母親がそのような態度をとっているのだ。すぐに同じように振る舞うようになった。
こうして私の三条家での生活は始まった。
洗濯物を取り込んでいると、妹の茜が学校から帰ってきた。
「買い物に行きますので、茜様の着物を貸していただけないでしょうか」
そう言いながら、妹に頭を下げる。
「ふふん、ほんと惨めだよね、妹に頭下げなきゃ服も着れないなんて」
惨めだ、なんて気持ちはとっくになくなっている。投げ捨てられた私のきているボロ切れとは違う綺麗な着物に袖を通す。月に1度だけのこの瞬間だけが、本当に小さな、私の楽しみだ。
「行ってまいります」
家から一歩出た瞬間、私は召使いから長女へと変わらなければならない。
馴染みの魚屋で、妹の同級の母だという女性に、三条家の長女さんなんだってね、あなたは学校には通わないの?と聞かれたが、
「私は身体が弱いもので、、、お母様たちは無理しないでと言ってくださるのだけど、調子のいい時だけ炊事をさせてもらってるんです。」
そう言いながらニッコリと笑顔を作れば、そうそれなら、とそれ以上は何も言われない。
何度言っただろう、この台詞は、スラスラと笑顔で言えるようになるまでひどい折檻が続いた。
そのときに脇腹にできた火傷痕は、いまだに忘れるなよ、とでもいうように痛み出す。
世間体を保つためのアリバイは完璧だ。私がこうやって外に出れるのは月に1.2日しかない。
他の日はお手伝いさんが買い物だけはしていて、近所の人は体の弱く家に引きこもっている妾の子の長女と、それにも関わらず愛情深く接する優しい家族だと信じきっている。
お祖母様は、お母様は、三条家の人々は私の苦しむ姿を見たいのだろう。
こうして、心を殺して生きてきた。
なるべく、何も感じずに、ただ平穏に過ぎる日々を願って