第九話 ぼくらのまちのほうしゃせん その2
サリー先生と園児たちの授業シリーズ。今回は「放射線」ですが、放射性物質ではなくて、都心から「放射状に伸びた道路」について触れます。二回シリーズの後半です。
今回は常磐道、京葉道路について、よいこのみんなとお勉強しましょう。
今日は、幼稚園が終わった後に、茨城県くんと千葉県ちゃんが二人で話している様子も見てみましょう。舞台となった渋谷駅東口の歩道橋はだいぶ撤去が進んでいます。
今日もサリー先生が教壇に現れた。
「前回は、神奈川、東京、埼玉と三県やって、いくつか論点が出てきて『このへんでいいかな(*˘︶˘*).。.:*』っと終わりにしようとしたら、幼稚園のお庭の方から全部やれって声があったので、続けて北関東編に入ります」
「あたしはどうなのよ? あたしは北関東じゃねえぞ!」と千葉県ちゃんが怒ったように言った。
「千葉県ちゃんは僕のな・か・ま!」とうれしそうに千葉県ちゃんに話しかける茨城県くんは、自分の感情のコントロールが未熟なせいもあって、好きなものに好きと言ってしまう素直な五歳児だ。
しかし千葉県ちゃんは、茨城県くんを嫌がっている。
「うぜんだよ、マジくんなよ、てめえ、転がすぞ!」
だが、茨城県くんにはその気持ちはわかっていない。
「転がす?」
千葉県ちゃんは、癇癪が切れたように言い放った。
「物騒な漢字は使わねえ主義なんだよ、転がしてほしいのか?」
人見知りをしないのはいいが、相手の感情を理解するのが困難な茨城県くんには、千葉県ちゃんが怒っていることに気づいていない様子だ。
「いや、だから千葉県ちゃんと茨城県は同じ仲間でしょ、『チバラキ』って言葉は全国的にも有名だし……」
「あたしは、その言葉が嫌えなんだよ。マスコミがどー言ってるか知んねーけど、うちはうち、よそはよそ」
千葉県ちゃんはマスコミが嫌いで、特にオヤジ週刊誌が嫌いだった。過去にひどく傷つけられたことがあるからだ。しかし茨城県くんはナイーブな千葉県ちゃんの感情を掴み切れていない。
「福は内〜、鬼は外〜」
「てめえ、ざけてんじゃねえぞ、このやろ!」
マジで怒っている千葉県ちゃんを茶化すようなことを言う茨城県くん。これは茨城県くんが天然なせいだ。
あまりの剣幕にサリー先生が止めに入った。
「二人ともやめなさい。千葉県ちゃんには謝るわ。北関東は群馬県、栃木県、茨城県の三つで、千葉県は南関東ね。先生も気をつけます」
「衆議院の地方ブロック分けでも南関東になってるんですから、気をつけてください」
しかし茨城県くんは言ってしまう。
「でも国会議員の選挙区分けって、しょせん党利党略でできているのだから、南関東に指定されているとかって関係ないと思……」
「うっせんだよ、せっかく南関東でって先生がまとめてくれてんだから、混ぜっ返すんじゃねえよ、このやろ!」
「ごめんなさい……」としょぼくれる茨城県くんだった。
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サリー先生は埼玉県くんに質問した。
「それで東北道はどうなってるの?」
「東北道は、埼玉県内は土手に囲まれていて、あまり外側が見えない。それが利根川を越えるところだけ少し見えて、利根川の鉄橋を渡っているのが昭和40年代の『キューティーハニー』みたいでかっこいい」
群馬県くんが呆れて言った。
「どこがキューティーハニーだよ。高速道路の大きな鉄橋なんてどこも似たような作りだろ!」
サリー先生は別のことに関心があった。
「羽生パーキングの江戸時代を再現した催事場ってどうなの?」
「一本うどんの店がある」
サリー先生は一本うどんの話に詳しかった。
「『鬼平犯科帳』の『一本うどん』の話って、兎忠が地下牢で縛られてて、男色趣味の盗賊にいたずらされて、それが日々エスカレートする話だよね」
「よく覚えてますね」
「もしかして兎忠がいぢれるの?」とサリー先生が妙なことを言った。
埼玉県くんはサリー先生のことを深く考えなかった。
「違いますよ。店の中でそんなことしたら、店の管轄が厚労省から警察庁になっちゃいますよ。一本うどんが食べられるだけです」
「そりゃそうでしょうね。だけど東北道は東名に比べて走りやすわ。今でこそ休日の渋滞があるけど、以前はゴールデンウイークとかお盆、年末年始くらいだったじゃないの。関越はバブル時代から渋滞が多かったけど」
「だから先生は、いったい何歳なの?」といつもの通り質問する茨城県くんだったが、埼玉県くんは続ける。
「やっぱり設計が新しいため、速度を落とさないようにカーブや傾斜を緩やかにしているとかが影響あるんじゃないですか。常磐道はその点が顕著だし。やっぱり東名はオリンピックに間に合わせるために突貫工事的なところがあって、用地買収の容易なところやトンネルを少なめにして建設費用のかからないような場所を選んで作ったりとかして、特に輸送関連のユーザーへの配慮が足りない部分もあったと思うんですよ。実際、海のそばを通っている由比のあたりは高波のために通行止になることが多いですし」
「だけど、一概にユーザーを考えていないってことにはならないと思う。久しぶりのドライブで高速を走るように、移動のための道路でなくて、景色を楽しむための道路の側面を考えれば、海岸線のそばを走る風光明媚な由比は、利用者にとってマイナスの側面ばかりではないでしょう。実際、東名上りの興津トンネルを抜けた時、突然目の前に広がる海の景色は感動的じゃん。その観点からすれば、必ずしも悪いルート選択ではないと思う」
「だけど、海に近すぎるせいで、高波でたびたび通行止になるわけじゃない。今だって、去年の高波で由比パーキングが損壊したときに、防波壁が歪んだりパーツが取れたり割れたテトラポッドが見られるでしょ」
「道路を輸送手段、移動手段として捉えるのか、それとも利用者の享楽のため、観光資源の開拓の手段とみなすのかの違いがあると思う。物流や人員輸送手段が止まったら問題だみたいに、経済性優先の観点から見るというのは一方的なんじゃないかな」
「それなら景色を楽しむための道路を作ったらいい。両立しない」
「一本の道路で両方考えろって言うのは難しいけど、とりあえず新東名はできたわけじゃないですか」
「新東名は風が強すぎる。トラックとか横転の危険が高まっていると思う。もともと車高の低い一般車両はいいかもしれないけど、いまは小型車も軽自動車もハイトワゴンとかはやってるじゃん。高機能で便利だけど危険性も高まっていると思う」
「それでは常磐道と京葉道路について、茨城県くんと千葉県ちゃんにお話ししてもらいましょう」
「常磐道は東名とか中央道とかに比べてのんびりしている。ということは、スピードが出しやすい」
「そんなことしてるの?」
「中央道の国立付近で235km出して捕まった人がいたけど、その程度の速度ではオービスは反応する」
「はぁ?」
クラスのみんなが唖然としている。茨城県くんの天敵・群馬県くんが言った。
「お前、自分が何を言ってるのかわかるのか?」
茨城県くんは当たり前のように言う。たとえ天然であっても、言っていることがヤバすぎる。
「オービスはメーカーによって測定可能速度が違うんだけど、だいたい240kmを超えると反応しなくなる。それを超えればスピード違反の証拠が残らない」
群馬県くんは茨城県くんを叱りつけている。
「お前、自爆するのは勝手だけど、もし事故で他人を巻き込んだらどうするつもりだよ。バカじゃねえの?」
茨城県くんは悪びれていない。自分がどんな危険なことをしているのかわかっていない様子だ。
「俺はこの幼稚園に来る前まで、深夜の常磐道で練習してた」
「なにで?」
「俺のワゴンRスティングレーで」
「だから、お前、捕まるぞ」
「大丈夫だ。那珂インターからいわきまではオービスないし」
広い知識を持っている栃木県ちゃんが言った。
「常磐道の北の方ってめっちゃ飛ばしてる車多いけど、水戸から先って片側二車線よね。追越車線に誰かいたら追突しちゃうわよ」
ときどき常磐道を使っている千葉県ちゃんも言った。
「つーか、あそこで制限速度の時速80kmだと流れに乗れない」
群馬県くんはまだ呆れた感じでいる。
「お前も異常だが、利用者も異常だな。だからお前は普段から危ねぇんだよ」
しかし相変わらず茨城県くんは危険運転の自覚がない。
「捕まらないように万全の注意を払って運転しているから大丈夫」
群馬県くんは怒り気味だ。
「捕まる捕まらないとかじゃなくて、他人を怪我させたり、命を奪いかねないという意味で危険なんだよ。車は重さ1トン近くある金属の塊が高速移動しているわけだ。それが超高速で容易に車線変更できるかといえば無理で自爆しかねないだろう。ましてお前のようなワゴン車は車高の高いて、横風に煽られてふらつきやすく、他の車を巻き込んで事故を起こ可能性だって大きいんだぞ」
サリー先生も茨城県くんに言った。
「これまで事故を起こさずにいまこの幼稚園にいられるのは本当に幸運なことなのよ。もう二度と他人を自己に巻き込みかねない危険運転をするんじゃないのよ」
茨城県くんは、ようやくわかってくれたようだ。
「この幼稚園に来てから常磐道で練習していないし……お前らがそんなにいうなら、これからやめようと思う」
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「京葉道路は、他の高速道路と違って無料区間が多いみたいだけど、これって珍しいわよね」とサリー先生は千葉県ちゃんに質問した。
元は真面目ないい子なのだが、このところ「反抗期」で怒りっぽい千葉県ちゃんは答えた。
「江戸川区の篠崎インターから江戸川を渡って市川インターの間と、千葉西料金所手前の幕張と武石の間のこと?」
「これはなぜなの?」
「本線料金所は、用地買収を含めた建設費用・運営費用がかかることと、渋滞を招くという二つの理由があって、できるだけ減らしたいらしい。だけど、篠崎・市川間は、インター近くの住民にとって、近くに江戸川を渡る橋がないから、その区間は無料通行区間にされているらしい」
「その先の千葉西料金所手前にも無料区間になる場所があるわよね」
千葉県ちゃんは答えた。
「この辺りは中央自動車道との違いね」
その発言を受けて、東京都くんが言った。
「中央道は八王子と三鷹・高井戸の間は均一料金にしている。料金的にちょっと違うよね」
クラスの中で最もきらびやかな神奈川県ちゃんが言った。
「ごきげんよう。例えば西湘バイパス上りは、橘から大磯東の間は無料で通行できますわ」
サリー先生は問題提起した。
「中央道のように料金を徴収するところもあれば、京葉道路や西湘バイパスのように取らないところもあるのね。どうしてなの?」
それに埼玉県くんが答えた。
「簡単にいうと、もともと高速道路だったのか、それとも自動車専用道路だったのかの違いだと思う」
「つまり……」
「京葉道路や西湘バイパスは自動車専用道路から始まったため無料区間があるけど、中央道はもともと首都高4号線と中央道直結で、高速道路として始まったため、最初からお金を取る」
「じゃ、高速道路は無理っぽいけど、自動車専用道路は無料化の可能性が残されているのね」
「そういうことでしょうね」
「それなら、関越道は、東京川越道路に起源があるから、練馬から川越インターまでは無料になる可能性は?」
「ないと思う」
「高速道路化されたら、無料の可能性はないのか」
「まったくないわけじゃないけど、何十年も先のことになる」
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サリー先生は今日の授業についてまとめた。
「というわけで、今回は料金のことに焦点を当てて考えて見ました。こんなに短い文章だけど、けっこう時間がかかったのよ」
茨城県くんが突っ込んだ。
「『短い文章』とか、何を言っているのか、わけわかめ」
「そういえば、わかめラーメン35周年記念で、わかめ3.5倍増しをやったあと、今度はその二倍の7倍増しが出たって話だけど」
栃木県ちゃんが発言した。
「このわかめラーメンの公式ウェブサイトに行くと、いきなり柳沢慎吾ちゃんが出てるんだけど、この人は焼きそばバゴーンのコマーシャルにも出ていたような気がするけど」
サリー先生はそれに反応した。
「その話は古すぎでしょ。車のコマーシャルの方は、いろいろな人がクロスしていましたよ。お酒についてだと、もともと飲めない田宮二郎がお酒のコマーシャルに出ていたり、お酒飲めない天知茂が、番組の最後に広島の酒を飲むシーンがあったりして」
茨城県くんが定番のツッコミをした。
「それは古すぎる話でしょ。先生はいったいいくつなんですか」
「(それを無視して)それでは今日の最優秀者を発表します。今日は、前回に引き続いて授業の中で発言を頑張ってくれた埼玉県くんです」
サリー先生はレースクイーン水着に着替えて、埼玉県くんの愛車「73式小型トラック」のボンネットに高尾山交通安全お守りステッカーを貼った。
「茨城県くんが高速道路で制限速度を超過する運転をしているっていうから、君も真似しちゃダメだよ」
「速度超過はしませんよ。でも気をつけないと……」
「それはどういう意味?」
「いえ、ただのオタク趣味ですよ」
「……変なことしないでよね」
サリー先生は埼玉県くんの発言が気になった。このまま何も起きなければいいのだが……。
……………………
サリー先生の二回に渡る授業は終わった。交通違反はいけない。スピードの出し過ぎには気をつけなくてはならない。良い子のみんなは、明るい未来を築くために、守ろう道路交通法規! 撲滅、危険運転!
……………………
授業の後に茨城県くんと千葉県ちゃんが一緒になって話をしている。
「で、さっきの『転がす』ってどういう意味?」
「あぁん? やってほしいのか?」と、口の悪い千葉県ちゃんだ。
「うん、ぜひボクに」と、茨城県くんは千葉県ちゃんの前では変態が入っている。
「じゃ、このビルに入所しているどこかの会社の事務所に行って、『台車』借りてこい」
ぶっきらぼうに言う千葉県ちゃん。
「『台車』って、印刷用の紙とか事務用品を運んだりする取っ手がついた四輪車のこと?」
「そうだよ! 手で持つところの下に『アイケー 101』とか書いてあるやつだよ! 大きさはなんでもいいから行ってこい。一階の入り口で待ってるからな」
茨城県くんに対しては、命令口調の千葉県ちゃんだった。
そのまま茨城県くんはだいぶ下の階に降りてある自動ドアの前に立った。ドアが開いた。
「すいません」
「はい、『東京わかものハローワーク』です、今日は転職のご案内?」
カンパチ幼稚園のビルにある「東京わかものハローワーク」は、特に若者に対してフレンドリーな対応に心がけている。職員の方々が、まるで自分の友だちや気心の知れた親や先輩のように気軽に話しかけられるように対応してくださる珍しいところなのだ。
「いえ、『台車』をお借りしたいのですが?」
「『代車』って車検の時とかで代わりにお借りするお車のこと?」
「いえその『代車』じゃなくて、『台車』です」
「それは、印刷用の紙とか事務用品を運んだりする取っ手がついた四輪車のこと?」
「そう、その台車をお借りできないでしょうか?」
「台車ね〜、うーん……そうだ、ボクにぴったりのがある。ちょっと待っててね……はい、持って来たわ、『台車』」
「これ、僕たちより少し下の子で、やっと歩けるようになった子が歩行の補助用に使って、転がすとアヒルが上下にぴこぴこ動く手押し車ですね」
こんな幼児用の手押し車が職安にあることに、誰も違和感を持たなかった。
「そうよ、ボクにぴったりね」
「これで大丈夫かな、じゃ、とりあえずお借りします」
「うちは夜6時までやっているから、時間のあいた時に戻してね」
「東京わかものハローワーク」は、活動的な若者のために、一般的な役所にしては遅い時間まで対応している。
「千葉県ちゃん、お待たせ」
「ここはどこだかわかる?」
「ここって、カンパチ幼稚園のあるビル前の246の上の歩道橋を渡ったところでしょ。ここは昔、東邦なんちゃらビルって言ってたけど」
「聞いたのは、ここの場所のこと」
「目の前が六本木通りで、赤坂の方からやってくる246が交わるところ」
「だから、勘が鈍いな。この歩道橋に書いてある地名は読めるか?」
茨城県くんは頭の回転が少し鈍いのだ。しかし、
「ボクはエリートのカンパチ幼稚園の園児だ。そんな漢字くらい読めるよ、『きん○まざか』」
「ブッブー、なんてこと言うのよ! ここは『金王坂』の歩道橋でしょ」
「だけど、実際に見てごらんよ。ちゃんと『○玉坂』って書いてあるから」
「バカなこと言って、千葉県民のあたしをからかおうとして……って、本当だ!」
実際に歩道橋を見た千葉県ちゃんは驚いた。
「でしょ〜、誰かかがあそこに点を打ったんだよ」と誇らしげな茨城県くんだ。
「ことわざの『弘法も筆の誤り』っていうけど、もしかして『玉』の『、』を書き忘れた弘法大師が、下から筆を投げて、あの文字に点を入れた伝説の歩道橋なのか?」
「そんなわけなかっぺ! あれは酔っ払った青学か國學院の学生がいたずらしたに決まってっぺ」
「なるほど、十分に考えられるわね。だけど、あんなに高い歩道橋から命がけで書いているわけ? 下は交通量のめっちゃ多い246、青山通りよ!」
茨城県くんは、男の本質について言った。
「男ってのは、バカなことに命をかけたがる生き物なんだよ」
「ばっかじゃないの!」
「ボクも男だよ」
しかし千葉県ちゃんは、茨城県くんに対しては厳しい。
「じゃ、お前にはお仕置きだ」
なんと言うドSな発言なんだ。しかしかわいいところもあった。
「台車はそれか……懐かしいな」
「ハローワークのおばさんが貸してくれたんだ」
「これ、どこのメーカー?」と意外な質問をした。
「こういうのに、メーカー名記載ってあるの? 僕は知らないけど」
千葉県ちゃんは当たり前のことのように言った。
「バカ! さっき例であげた『アイケー』っていうのは、石川製作所で作っている台車のブランド名だ。なんと創業三百五十余年、浅香工業の金象印っていうのもある」
この発言も十分に詳しいのだが、さらに茨城県くんも詳しかった。
「石川製作所って〇〇を作って〇〇○に納入していて、北側クリステルさんが不穏なことを言うと株価が爆上げになる上場企業だね」
「正確に言うと、北の将軍様の発言を北側さんがニュースで紹介するのよ。もっとも爆上げは年に一度くらいしかないけどな……っておぬし、詳しいじゃねーの。もしかして安いところをぽちぽちと拾って仕込んでるのか?」
茨城県くんは意味深なことを言った。
「親しい千葉県ちゃんにでも、そればっかりは言えないよ」
もしかしたら仕込んでいるのかもしれない。なんという五歳児なのだろう。
千葉県ちゃんは、ハローワークから借りた「台車」にいたずらを始めた。
「車の押すところの裏にメーカー名を書いちゃおうぜ、金色のマジックを出して『あいけーきゃりー for YOUNG』っと!」
「大丈夫ですか? これハローワークから借りてきたんですよ」
「いんだよ、細けえこたあ! じゃ、さっそく乗れ」とあいかわらず乱暴な口調だ。
「これに乗るの」
「そうだ」
「乗りました」
「ここの金王坂は傾斜が急だが、歩道が比較的広いから車道に出ることはないだろう。うまくいったら、渋谷警察前の歩道橋の下に着陸する。そこまでうまく転がれたら、『やすべえ』のつけ麺おごってやる。喰いたけりゃ、後ろ手にハンドルをしっかり握れ! 転がすぞ! そりゃー」
「『着陸』って言葉が気になるが、うわぉぉぉぉぉ! マジ怖えぇぇぇぇ!」
急坂を下りる歩道は、途中、右にカーブしている。ハンドル操作を誤って左のガードレールを越えれば246の対向車線に出て即死だし、右に曲がればどこかのビルに突っ込む。
しかし茨城県くんは、常磐道で愛車ワゴンRに乗って運転の練習したことがあった。そのコースは、かつてフェラーリで320km出して撮影したビデオを売って、道交法で逮捕された人がいたという伝説があって、そこを夜な夜な走る練習をしていたのだ。ハンドルさばきには自信がある。
しかし加速がついたアヒル台車はホイールが木製で、サスペンションがお尻の肉という貧弱な足回りだったため、転がるというよりは、勢いづいてダイナミックに転がるように坂の下に落ちていった。しかし、ごろんごろんと転がりながらも、ついに、
「はあはあ、どうよ?!」
茨城県くんは見事、歩道橋のところまでたどり着いた!
「千葉県ちゃん! 『着陸』に成功したよ!」と大声ではしゃぐ茨城県くんだった。しかし千葉県ちゃんは呆れたようにしながら、叱った。
「お前、軽車両はな、時速30km以上出しちゃ悪ぃんだよ。だいたい、歩道を逆走してるし、しかもブレーキもない車で走るのは、バカ以外の何物でもねーんだよ」
「ボク、根性でやったっす! だけど速度に関しては誤解だよ。軽車両にそういう速度制限はないんだよ」
まさか!
「えぇ? じゃ、いくらでも出していいわけ? 原チャリは制限30kmだよ」
「車両は、制限速度標識のあるところではそれを超えてはならないし、標識のないところでは時速60kmが制限速度。軽車両はこれに準じると考えれば、実は原チャよりも速度が出せる!」
こんなところに道路交通法の盲点があったのか!
「確かに速度計の設置が義務付けられてるわけじゃねし、しょせん人力だからな。まあ、お前の根性は認めてやるよ。しょーがねーから、今から食いに行くか」
「やった!」
茨城県くんは、つけ麺をおごってもらえるとうれしがっている。しかし、今度も千葉県ちゃんに命令された。
「今度はあたしが台車に乗るから、お前が押せ」
「歩道橋くらいは歩いて上ってくださいよ」
「まあ歩道橋だけ許してやるか。それから、『やすべえ』のある山下書店の側に降りるなよ、そっちは人通りが多いからな。こっちの、警察署の中が見えないように目隠しのしてある方から降りろよ」
「歩道橋から目隠しするって、どんなやましいことをしているんでしょうね」
「まあ、やましいことをした容疑者は、あくまでも容疑者であって、犯人と決まったわけじゃない。世間から誤解を受けることのないように人権保護の観点からやっているのだと理解したい。決して……いや、なんでもない」
かつては24時間営業していて、渋谷という土地柄、IT関連の書籍が多めだった山下書店はセブンイレブンに変わっていた。近年はみずほ銀行地下のブックファーストが閉店してしまった。かつては池袋・新宿・渋谷の三つの副都心の中で最も本屋の数が最も少なかった渋谷駅周辺だが、いつの間にか大型本屋が増えて、厨房だらけの渋谷がついに生まれ変わったかと思ったら、一軒、また一軒と老舗が消えて寂しいかぎりだ。そうして渋谷の再開発は加速している。
二人は明治通り、通称、渋谷ラーメン通りを恵比寿方面に向かっていた。この道は、特に並木橋の場外馬券場が開いているときは混んでいる。
しかし元の山下書店の方を降りなかった二人は「やすべえ」を行き過ぎてしまった。
「あっ、『やすべえ』は横断歩道の手前だった、やべぇ」
「ちょっと先の新南口入口の信号を渡ろうよ」
二人は横断歩道を渡っていた。周囲の歩行者からの注目度は抜群だった。彼らの視線が自分たちに集まっているのを感じた茨城県くんは誤解をしていた。
「まるで千葉県ちゃんと二人っきりでデートしているみたい」
違うのだ、茨城県ちゃん。正確にいえば、手押し車の二人だけが、明治通りで目立ちすぎて浮いているのだ。
千葉県ちゃんの股の前には黄色いアヒルがぴょこぴょこと動いている。それをうれしそうに押している茨城県くん。二人はともに魑魅魍魎の待ち受ける冥府魔道を歩んでいるのだった。