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30話、先生

「……なんだか、妙に長かったわね」


 風呂から上がった俺と千之丞さんをジトっとした眼差しで見てから、真桐先生は言った。


「男同士の話をしていただけだ」


 ふん、そっぽを向く、目元を赤くはらした千之丞さん。

 彼はそれから、真桐先生に向かって、続けて言う。


「千秋も、久しぶりに風呂に入ってくると良い」


「いいえ、結構よ」


「遠慮することはない。友木君は私がもてなしておこう。それに、何だったら今日は家に泊まっていっても良い」


 嬉しそうにそう言った千之丞さんに、真桐先生は一つ溜め息を吐いてから、言う。


「もう良い時間なのだし、このまま友木君を家に送り届けるわ。これ以上、こちらの勝手な都合で友木君を振り回すわけには、行かないわ」


 真桐先生の言葉に、千之丞さんはどこか寂しそうな表情を浮かべてから、言う。


「……確かに、まだ学生の友木君を遅くまで引き留めてはいけないな」


 千之丞さんの言葉に、真桐先生は立ち上がる。

 それから、微笑みを浮かべてから言う。


「今日はお父さんに、ちゃんと話せてよかったわ。……それじゃ、もう行くわ」


「ふん。……見送りくらいはしよう」


 千之丞さんのその言葉に、真桐先生は柔らかく笑う。

 それから三人で玄関に向かい、俺と真桐先生は車に乗り込んだ。


「また、二人で遊びに来ると良い。……いつでも、歓迎する」


「それは……どうかしら?」


 視線を泳がせて困ったように答える真桐先生と、どこか楽し気に笑みを浮かべる千之丞さん。

 確実に誤解をしたままだった。


「それと、もう一つ」


「何かしら?」


 どこか疲れた様子で聞き返す真桐先生に、千之丞さんは穏やかな眼差しを向けながら、


「……おめでとう。お前がなりたいと言っていた大人にきっと、なれているぞ」


 彼は、驚くほど優しい声音で、真桐先生に告げた。

 一体、何のことだろう?

 そう思って真桐先生の横顔を見ると、彼女はどこか気まずそうな表情を浮かべ、


「……ありがとう」


 と、小さく呟いていた。

 

「それじゃあ、帰るわ。またね、お父さん」


「ああ、気を付けるんだぞ。……優児君も、また会おう」


 穏やかな笑みを浮かべる千之丞さんに、俺は苦笑を浮かべつつ、


「はい」


 と、一言返す。 

 それからすぐに真桐先生は車を動かし、彼の姿はあっという間に見えなくなった。



 車内は、しばし無言だった。

 さっきの千之丞さんの言葉から、どこか気まずそうな様子の真桐先生。

 気になった俺は彼女に聞いてみる。


「さっきの……真桐先生がなりたかった大人っていうのは、何のことすか?」


 俺の問いかけに応える代わりに、


「少しだけ、寄り道をするわ」


 と、彼女は言った。

 俺は無言のまま、その言葉に首肯した。


 そして、数分間の移動の後、真桐先生はとある公園に車を停め、外に出る。

 俺もそれに続いた。


 冷房の利いた車内から出ると、熱を含んだ夜風が頬を撫でる。

 早速、額から汗がにじんだ。


「寄り道って……ここすか? ただの公園すよね?」


「ええ、そうね」


 そう言いつつ、真桐先生は歩を進めていく。

 俺も彼女の後に続いて歩く。


 どこにでもありそうな、こじんまりとした公園で、人気も全くなかった。

 そして、奥にまで進むと柵があった。

 どうやら丘の上にある公園のようで、ここからは街並みを見下ろすことができた。


「学生時代、私はこの公園に一人で良く来ていたの」


 柵にもたれて、真桐先生は懐かしむようにそう言った。


「……この景色を見にすか?」


 俺の言葉に、彼女はゆっくりと頷いてから言う。

 

「ええ。……あまり、ここの景色は好きじゃないけれどね」


「……え? 好きでもない景色を見るためにここに来るって……なんですか?」


 真桐先生の言葉の真意が分からず、俺はそう問いかけていた。

 彼女は、寂しそうな表情を浮かべながら、言った。


「この公園から見下ろせる街並み、暖かな家庭の光を見て、私はいつも……寂しかった」


 彼女の言葉に、俺は眼下に広がる景色を見る。

 家族の団欒が、きっとそこにはあるのだろう。


「私は、裕福な生活を送れていたとは思うの。それでも、友人がいないことが。……遅くまで父が帰ってこないことが、母がいないことが。……私には辛くて、寂しかった」


 真桐先生は、目を細めながら言う。

 彼女の眼にはきっと、この街並みの光が、眩しく輝いて見えているのだろう。


「その辛さも寂しさも、私は今も覚えている。きっと、忘れることなんて出来ないでしょうね。……だから。私と同じように寂しさや辛さを抱えている子に、手を差し伸べられるような大人になりたいって。それで……教師になりたいと思ったの」


 彼女はそれから、視線を俺に向ける。

 とても、申し訳なさそうに、弱々しい笑みを浮かべながら。


「友木君。あなたは私に『救われた』なんて言ってくれるけれど。でも、それは違うのだと私は思うわ。……だって、私はかつての自分を勝手にあなたに重ねて、手を差し伸べたのだから。……私がしたことは、子供じみたエゴに過ぎない。だって、そうして私は救われた気になっていたんだもの」


「……は?」


「……幻滅、したでしょう?」


 とても不安そうな表情を浮かべて言う真桐先生。

 俺は彼女の言葉の意味を考えてから……


「動機がどうであれ、俺が真桐先生に救われたことには、何も変わりないんすけど」


 呆れつつ応える。


「……え?」


 真桐先生が驚いたような表情を浮かべる。

 俺はそんな彼女を見て、一つ溜め息を吐いてから、言う。


「そもそも、今の話を聞いても俺は、自分がされなかったことを他人にしてあげたいと思う真桐先生は、やっぱり優しくて……すげぇ素敵な人だと思ったんすけど」


 俺の言葉を聞いて、真桐先生はどこか呆けたような表情を浮かべた。

 もしかしたら、ちゃんと伝わっていないのかもしれない。

 そう思い、俺は続けて言う。


「分かりやすく言うと……真桐先生はやっぱり、俺にとって自慢の先生だって。改めて、そう思たってことっすよ」


 正直な気持ちを伝えるのは恥ずかしかったが……。

 それでも、過去の話まで教えてくれた真桐先生に、俺は真直ぐに言葉を伝えることにした。

 俺なんかの言葉が、何の慰めになるかは分からないが、それでも――。

 

 彼女には、胸を張って欲しいと思った。


 俺は真桐先生の様子を伺う。

 彼女はハッとした表情を浮かべてから、肩を震わせて俯き、それから……。


「……ありがとう、友木君」


 そう一言呟いた彼女の目尻からは……涙が流れていた。


「……泣いてるんすか?」


 俺が慌てて問いかけて、初めて彼女は自分が涙を流していることに気が付いたようだった。

 

「え? ……あれ?」


 自分が涙を流していることが信じられないといったような反応をした後、彼女はあからさまに動揺をしていた。


「え? ……どうして?」


 自覚してしまえば、涙を堪えることができなくなったようだ。

 真桐先生の瞳から、涙が零れて止まらない。


 それから唐突に、彼女は俺の胸に額を押し付けてきた。


「ちょ、どうしたんすか?」


 俺が問いかけると、彼女は華奢な肩を震わせながら答えた。


「ごめんなさい、友木君。……少しの間だけ、こうさせていて」


 それから彼女は、声を上げて涙を流した。

 ……俺に、泣き顔までは見られたくなかったんだろうな。


「うす」


 俺は短く返事をした。

 彼女が今、どんな気持ちかはわからない

 だけどきっと、この涙は……悲しいから流れているわけではないのだろう。


 そう思いながら、泣いている彼女に俺は胸を貸すのだった。





「……ごめんなさい、友木君。自慢の先生って言ってもらったばかりなのに、私はあなたに甘えてばかりね」


 しばらくの間泣いていた真桐先生だったが、少し落ち着いたのか、俺の胸に額を押し付けたまま、震える声で言った。

 

「良いっすよ。頼って欲しいって言ったのは、俺ですし」


 俺が答えると、真桐先生は大きく息を吸い込んでから、それでもまだ震える声で、俺に向かって言う。


「友木君の言葉、とっても嬉しかったわ。私は間違えていなかったんだって、そう思えたから」


 それから顔を上げる。

 泣き腫れた目元。朱く上気した頬。

 そして、上目遣いでこちらを見上げながら、彼女は続けた。


「ありがとう、友木君」


 屈託なく笑うその表情を見て、俺は自分の言葉が彼女に届いていたのだと思い、なんだか嬉しくなるのだった。





 そして、公園を後にして、真桐先生の車に二人で戻る。

 乗車してから速やかに車は発進したのだが……またしても、しばらくの間、車内は無言だった。

 

 先ほどまで二人でくっついていたものだから、気恥ずかしい。


「……今日は疲れたでしょう? 帰りは寝ていなさい」


「いや、真桐先生の眠気覚ましに付き合います」


「……いいから、眠っていなさい」


 ……どうやら、涙を見せてしまった真桐先生の方がよっぽど恥ずかしかったようだ。

 頑なに俺に対して睡眠を命じる真桐先生に、俺は首肯してから応える。

 

「それなら、お言葉に甘えます」


「ええ。着いたら起こすわ。だからそれまで……ゆっくり、休んでおきなさい」


 瞳を閉じた俺の耳に、彼女の優しい声が耳に届いた。

 どうやら俺は、自分が思っていたよりも疲れていたらしく、すぐに微睡に沈むことになった。




 どれくらい眠っていただろうか?

 俺は瞼を開ける。

 

 慌てた様子で顔を背ける真桐先生が、俺の視界に入った。

 窓から周囲を見ると、彼女のマンションの近くの道路で停車しているようだった。


「……もしかして、今着いたところだったんすか?」


「……! え、ええ。そうよっ! 今着いたばかりで、起こそうとしていたところだけど、ちょうどあなたの目が覚めて、驚いてしまったの」


 慌てた様子で俺の問いかけに応える真桐先生は、続けて言う。

 

「それじゃ、友木君のお家まで送るから、案内してくれるかしら?」


「いえ、ここで良いっすよ。歩いて数分ですし」


 そう言ってから俺はシートベルトを外し、車外に出る。


「そ、そう。それなら、気をつけなさい」


 どこか残念そうに言う真桐先生を見て、気が付いた。

 先ほどまでは暗くて気が付かなかったが、室内灯に照らされた真桐先生の顔が、真っ赤になっていた。


「顔真っ赤すけど、大丈夫すか?」


 俺が問いかけると、真桐先生は慌てて顔を逸らした。


「だ、大丈夫よ!」


「運転、疲れたんすかね。無理してないすか?」


「無理はしていないわ、ありがとう。……そんなに心配しなくても、原因は分かっているわ」


 真桐先生は、なぜか恨めしそうな表情をこちらに向けてから、そう言った。

 どういう意味なのかは分からなかったが、確かに元気そうではある。


「……それじゃ、俺はこれで。先生も、運転気を付けて」


 運転席にいる真桐先生に言うと、彼女は逡巡してから俺に声をかけてきた。


「ねぇ、友木君。私はこれからも、あなたのことを頼りにしているわ。だから……」


 何かを決心したような表情を浮かべてから、彼女は続けて言う。 


「あなたも、困ったことがあれば、何でも私に相談しなさい。……良いわね?」


「うす。……頼りにしてるんで。これからもよろしく頼んます」


 俺の言葉に、真桐先生はどこか照れくさそうな表情を浮かべて、プイッとそっぽを向いた。

 

 失礼だとは思うが、なんだかその仕草が子供っぽくて、可愛らしいなと思い――。


「それじゃ、私も帰るわ。おやすみなさい、友木君。……良い夢を」


 大人っぽい綺麗な笑みを浮かべつつ、優しい声音で言うそのギャップに、不覚にも俺はドキドキしてしまうのだった――。

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