29話、君の名は
真桐先生の言葉を聞いて、親父さんは押し黙った。
眩しいものを見る様に、彼は目を細めて真桐先生を見る。
それから、固く閉ざしていた口を、ゆっくりと開いた。
「……全く。こんなバカ娘を他人様に紹介するなど、恥ずかしくてできるわけがないだろう。責任を持って、私が先方に頭を下げなければならんな……」
ふぅ、と短く息を吐いた。
それから、親父さんは続けて言う。
「お前のようなバカ娘のことなぞ知らん。……好きにするがいい」
突き放した言葉を放つ親父さんだが、その表情は……どこか、柔らかかった。
「ええ。そうさせてもらうわ。……ありがとう、お父さん」
真桐先生がお礼の言葉を言うものの、彼はプイとそっぽを向いたまま。
困ったように、真桐先生は苦笑する。
親父さんが、今度は俺に視線を向けてくる。
「……思えば、自己紹介もまだだったな。私の名前は、真桐千之丞。千之丞と呼ぶがいい。それで友木君とやら。君の……名前は?」
親父さんと呼ぶいわれもないし、真桐さんと呼ぶのも先生と混同しそうでややこしい。
俺はお言葉に甘えて、千之丞さんと呼ぶことにした。
「友木優児す」
「そうか、優児君。……うむ、良い名だ」
唐突に褒められた俺は、「どうも」と一言返す。
すると彼は満足そうに頷いてから、
「少し早いが、二人とも夕飯を食べていくと良い。……田熊さん、そこにいるのでしょう?」
千之丞さんが言うと、襖が開き、お茶をお盆に乗せた田熊さんがそこにいた。
慌てた様子でお茶を卓袱台の上に置いてから、
「それじゃあ、私はお料理の準備をしてきますね。出来上がったらお呼びしますから、お茶でも飲んでいてください」
そう言ってから、あはははは、と乾いた笑い声を上げて、彼女は立ち去った。
……あれだけ言い合いをしていたら、気まずくて部屋の中には普通入れないよな、と。
俺は田熊さんの心中を察した。
☆
真桐先生が千之丞さんに近況報告をしてから、1時間ほど俺は質問責めをされていた。
そのたびに答えるが、そろそろ限界だった。
早く晩飯にならないかな、そう思っていると、襖が廊下から叩かれる。
それから、田熊さんが、
「ご飯の支度が、出来ましたよ」
そう俺たちに言った。
田熊さんに素直に俺は感謝する。
部屋を移動し食卓を前にして、豪勢な料理の数々に驚いた。
一時間程度で作れるのだろうかと疑問に思っていたが、そもそも真桐先生が戻ってくるために用意をしていたのだろう。
千之丞さん、一人娘が返ってくるのを楽しみにしていたんだろうな。
俺と真桐先生は隣同士座り、その正面に千之丞さんが腰を下ろした。
ちなみに、田熊さんは今日はもう帰ったようだった。
「それでは、頂くとしよう」
箸を手にした千之丞さんは、そう言ってから料理に手を伸ばす。
俺と真桐先生も「いただきます」と呟いてから、料理を食べ始めた。
「美味い!」
どれも美味くて、箸が止まらない。
「そうね、やっぱり田熊さんの作るご飯は美味しいわ」
真桐先生も、久しぶりの他人の料理に喜んでいるようだ。
しかし、千之丞さんは仏頂面を浮かべている。
どうしたのだろうかと思ったら、
「確かに、田熊さんの料理の腕は確かだが……千秋の手料理も、負けず劣らず、美味い」
唐突にデレた。
「確かに、真桐先生の作った料理は、どれも本当に美味かったす」
俺が言うと千之丞さんは、
「うむ、分かっているのならば、良い」
と満足そうに頷いた。
「きゅ、急に変なことを言わないでちょうだい……」
不服そうに呟く真桐先生は、照れているのか頬を赤くしていた。
田熊さんの料理に舌鼓を打ちながら、時折会話を交わしていく。
「時に、優児くん。君は法律関係の仕事に興味はないかね?」
千之丞さんが俺に問いかけてくる。
「ちょっと、何を言っているのよ、お父さん?」
真桐先生が慌てた様子で問いかけるが、
「千秋には聞いていない。大人しくしていなさい。……それで優児君。君のように自分の言葉を堂々と相手に伝えられる若者は、うちの事務所にも中々いない。大学卒業後の話にはなるが、私の事務所で働いてみる気はないか?」
先ほど質問責めにあっていた時から薄々感づいてはいたが、どうやら俺は、千之丞さんに気に入られたようだ。
生意気なガキと思われていないようで、安心する。
「法律関係っていうのは、まだぴんと来ないんすけど……選択肢の一つとして、考えさせてもらいます」
「ああ、今はそれで良い。今後の進路を考えるときの選択肢の一つとして、前向きに検討してくれたまえ」
満足そうに千之丞さんは言う。
「何を勝手なことを言っているのよ……」
隣では真っ赤な表情で真桐先生が呟いていた。
自分の生徒の進路について、教師でもない親が口出しをするのが気に入らなかったのかもしれない。
☆
「優児君、折角だ。風呂にも入っていくと良い」
食べ終えた食器の片づけをする俺と真桐先生の姿を温かな眼差しで見ながら、千之丞さんはそう言った。
「お父さん、友木君を送り届けることも考えて、そこまで遅くまではいられないわよ」
「良いではないか。私の自慢の風呂場を、彼に見て欲しくてな」
どこか照れくさそうに、千之丞さんは言う。
……そこまで俺のことを気に入ってくれたのか。
俺は、嬉しくなる。
「それじゃ、お言葉に甘えて」
俺の言葉に、千之丞さんは嬉しそうに笑顔を浮かべ、真桐先生は呆れたように溜め息を吐いた。
タオルを借りて風呂場へ向かう。
脱衣所で服を脱いでから浴室に入り、そして驚く。
「おおっ! 檜風呂だ……!」
広い和風な浴室内に、大人でも2,3人ほどは同時に浸かれそうな浴槽。
自宅に設置できるもんなのだと感心しつつ、俺はまずシャワーで髪の毛を洗う。
次に身体を洗おうとしたところで、扉が開かれる音が聞こえて、俺はそちらを振り返った。
そこにいたのは――。
「どうだね、私自慢の浴室は?」
一糸纏わぬ姿の千之丞さんだった。
年齢を感じさせない、弛みなく引き締まった筋肉。
「凄いっす。俺も広い風呂って好きなんで、こういうの憧れます」
正直な感想を言うと、彼は満足そうに頷き、笑顔を見せた。
「そうだろう。この浴室の手入れだけは、田熊さんにも任せずに、出来る限り私がしているのだ。その甲斐あって、いつも気持ちよく風呂に浸かれる」
「……ところで、なんで千之丞さん、ここに入ってきたんすか?」
「君の背中を流そうと思ってな。嫌だったかね?」
どこか遠慮がちに問いかけてくる千之丞さんだが、嫌なことなど何もない。
「それじゃ、俺も千之丞さんの背中を流させてもらいます」
「ははっ、楽しみだな」
俺の言葉に、快活な笑みを見せる千之丞さん。
早速、俺は彼に背中を洗ってもらうことに。
ボディタオルで石鹸を泡立て、それでごしごしと背中を擦られる。
心地よい力強さだ。
「時に、優児君」
「なんすか?」
「千秋とは、いつから交際をしているんだね?」
……あ、お見合いの話が流れたことで安心をしていたが、そういえばまだ俺と真桐先生が付き合っているという誤解をしたままなのか。
俺ははっきりと言う。
「いえ、俺と真桐先生は恋人ではないすよ」
「ははは、下手くそな嘘だ。ただの生徒をわざわざ実家に連れて、見合い話を持ってきた親に紹介する教師など、いるわけがないだろう」
あまりにも正論過ぎて俺は何も言え返せなかった。
「しかし、確かに世間には隠さなければならないことだろう。私にすら言ってもらえないのは残念だが、それほど徹底的に隠すつもりなのだと解釈しておこう。だが、いつかちゃんと、話をしてくれたまえ。私は君たちを、応援しているのだから」
少しだけ寂しそうな声音で、彼は言った。
……誤解が深まったようで、俺は焦った。
そんな俺に、彼は続けて言う。
「私は、愚かな親だった――」
背中を擦る手が止まった。
千之丞さんは、固い口調でそう呟いた。
「妻が早くに亡くなり、きっと千秋は寂しかったのだろう。だがあれは、わがままも言わずに、こんな不器用な私を支えてくれた。……私は間違いなく、千秋がいてくれたからここまでやってこられたのだ。妻が亡くなり、辛かったが。それでも、家族を持って私は幸せだった」
優しさに満ちた声で、千之丞さんは言った。
「……だが、私は間違えてしまった。千秋を大切に想うあまり、自分の都合を押し付けた。初心な娘だ。悪い男にコロッと騙されて不幸な目に合うくらいならば、私がこれと見定めた相手をあてがい、幸せな家庭を築いてほしかった。そう思って千秋の意思を無視してまで、見合い話を進めていた。……彼女は既に、自分の幸せを自分で手に入れられる大人になっていたにもかかわらず」
まるで、懺悔するかのように千之丞さんは言葉を紡ぐ。
「結局私は、娘のことも信じてやれない、愚かな親なのだ」
俺はその言葉を聞いて、背中をお湯で流してから、立ち上がる。
それから、彼が手にしていたボディタオルを受け取って、一度流してから再び泡立てた。
「何を……」
動揺する千之丞さんの背中を、俺は泡立てたボディタオルで強くこすりながら、口を開く。
「前、真桐先生が言ってたんすよ。俺の背中の広さと、千之丞さんの背中の広さを重ねたって」
俺の言葉に、彼は無言のままだった。
「でも、こうして実際に見ると、それって勘違いだと思うんすよ」
「……確かに、君の方がよっぽど大きな背中をしている」
自嘲気味に呟いた千之丞さんに、俺は言う。
「俺は、ただ図体がでかいだけっす。娘の人生背負った親父の背中に、俺みたいなガキの背中を重ねるなんて、困った勘違いすよ。……こんなデッカイ背中の男になれるか、正直自信ないすから」
目の前にある背中の大きさに、俺は尊敬の念を抱く。
「千之丞さんが真桐先生を大切にしていたのは、きっとわかってもらえてます。男手一つ、必死に育ててくれた父の誇れる娘でありたい、って。彼女は、俺にそう言ってました」
シャワーを使って、俺は彼の背中の泡を流していく。
真っすぐに伸びた背筋はきっと、彼の娘に対する想いと、何ら変わりはないのだろう。
「その言葉を……千秋が?」
震える声で、千之丞さんは確かめる。
俺は、「はい」と一言応じた。
「そうか。……そうか」
千之丞さんはそう呟いた後、堪えきれずに涙を流し、時折嗚咽が漏れ聞こえる。
彼が真桐先生に自分の都合を押し付けて、話を聞こうともしなかったのは、確かに間違えだったのだろう。
――それでもきっと。
彼が彼女を大切に想う気持ちに、間違いなんてなかったのだと。
涙を流す彼の背中を見ながら、俺はそう思った。
「優児君っ。あれは、私の宝だ! それでも君なら、千秋を間違いなく幸せにできると、私は信じている」
そう言ってから、俺の方を振り返り、そして頭を下げてから千之丞さんは告げる。
「これから、君たちの前には様々な困難が待ち受けているだろう。だが、どうか千秋のことをよろしく頼む。……私にできることがるのならば、協力も惜しまない」
――残念ながら。
その誠実な想いが勘違いであることに、俺は気づいている。
「本当に言い辛いんすけど。俺たちは恋人同士というわけじゃないんすよ」
気まずいが、俺は正直に、もう一度そう言った。
「君は、呆れるほど強情な男だな。……私によく似ている。益々、気に入った」
くつくつと可笑しそうに笑い声を上げて、千之丞さんは続けて言う。
「分かっている。君たちは交際をしていない。……だが、それでも改めて言わせてくれ」
それから真剣な眼差しを俺に向けながら、彼は力強く告げる。
「千秋を、よろしく頼む」
その晴々とした千之丞さんの表情を見て――。
あ、これ絶対に分かってないやつだな。
と、内心で頭を抱える俺だった。






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