21、敗北
俺は、冬華と共に会場へと戻った。
先ほどと同じ場所に座る池をすぐに見つけ、彼の隣に座る。
「遅かったな、何かあったか?」
池が、俺と冬華に視線を向けてから、そう問いかけた。
冬華は池の問いかけには応じず、コート上の葉咲を見ていた。
どうやら彼女に、兄と会話をするつもりはないらしい。
「いや、特には」
俺はその冬華の意思を汲み取り、そう答えた。
俺の答えを聞いた池は、「そうか」と、呟いてから、ニヤリと笑う。
「そういうことにしといてやるか」
池の言葉を聞いた冬華は、「クソ兄貴うざっ……」と、ぎりぎり池に聞こえるような声量で呟いた。
あの女子二人と会ってからのご機嫌斜めが続いている。
一切気にした素振りを見ずに飄々としている池に、俺も気にせず、問いかける。
「今試合はどんな感じだ?」
「ゲームカウントは5-3で、夏奈のサービスゲーム。このゲームをきっちりと取れば、勝てる」
俺と冬華が席を立ってから、1ゲーム取られたのか、と俺は少し驚いた。
得点板に目を向ける。
現在、30-0で葉咲がリードをしている。
その葉咲が、サーブを打った。
外野から見ても反応しきれない速球を、なんとか返球した対戦相手。
しかし、葉咲にとっては絶好のチャンスボールでしかなかった。
そのボールを逆サイドへ強打すると、対戦相手はそれを見送ることしかできない。
これで、葉咲のマッチポイントだった。
あと一点で決まる、そんな時……。
「ダブルフォルト!」
葉咲のサーブが、急に決まらなくなり、二回連続でダブルフォルトにより失点した。
勝ちが見え、気が抜けてしまったのか?
これで、スコアは40-30。
もう一点失点すればデュースとなる。そうなれば、間違いなく流れは相手に向かう。
次の相手のサービスゲームをキープされれば、ゲームカウントは5-5。
勢いに乗った相手と、自分のミスによって流れをきった葉咲、この後のゲームで有利なのは、言うまでもないだろう。
葉咲は深呼吸をし、ボールをトントンとラケットで数回叩く。
それから、これまで以上に真剣な表情を浮かべ、サーブを打った。
ファーストサーブが入ったものの、これまでよりもスピードは遅い。コントロールを重視してしまったためだろうか。
さっきまでのサーブの速さに慣れていた対戦相手にとっては、絶好のチャンスだろう。
腰の入ったスウィングで、ボールを強打する。
葉咲のバックハンド側に向かう軌道、この試合中最高のレシーブに間違いない、そう思った矢先。
対戦相手の打ったボールが、白帯にぶつかりコート中央の真上に上がった。
葉咲はそれを見て、全力でネット際に走る。
だが、白帯にぶつかったボールは、低い。
到底間に合いそうにない。
葉咲のラケットは届かず、そのボールはコートに落ちた。
「ゲームセットアンドマッチ、ウォンバイ葉咲」
そして、審判が葉咲の勝利を宣言した。
白帯に当たったボールは、対戦相手のコート上に落ち、葉咲の得点となった。
悔しがりつつも、どこか清々しい表情の対戦相手。
無表情のままコートを立ち去る葉咲。
果たしてどちらが勝者なのか、分からなくなりそうだった。
☆
「大丈夫だと思うか、葉咲?」
「……どうだろうな」
俺の問いかけに、不安そうに池は答えた。
葉咲の次の試合が始まった。
先ほどの試合の後、暗い表情をした葉咲に俺たちは話しかけたものの、
『ごめんね、ちょっと今の試合は反省点多くて、調整しなくちゃだから』
そう言って、ほとんど相手をしてもらえなかった。
そのまま別れ、今に至る。
「……外野の私たちが心配しても、コートに立てば一人なんですから。あれこれ考えても、結局は応援するしか出来ないんですよ」
冬華は、冷静にそう言った。
流石は元テニス少女の冬華、ハラハラしながら見ている俺とは違い、落ち着いている。
「ま、どんなに調子が悪くても……あれには負けないでしょうけど」
葉咲と向かい合う対戦相手は、冬華に絡んでいたあのポニーテール女子だった。
試合を始める前からどこか諦めたような雰囲気を漂わせていた。
「あんなにやる気のない格下の相手に、不調とはいえ葉咲先輩が負けるはずがないですよ」
つまらなさそうに、冬華は言った。
葉咲の勝利を信じて疑っていないようだった。
しかし、俺は冬華の言葉を聞くたびに、縁起でもないことを思ってしまう。
……これはもしや、負けフラグという奴ではないだろうか? と。
☆
「ゲームセットアンドマッチ、ウォンバイ葉咲」
しかしそれは杞憂に終わった。
これまでにない圧倒的な力の差を見せつけ、葉咲のワンサイドゲームとなった。
おいおい、瞬殺だよ。
あまりにも差が付きすぎたためか、ポニテ女子は半べそをかいていた。
「……なんか今日の夏奈は、調子に波があるな」
池が心配そうにそう呟いた。
「みたいだな」
俺はそう返す。
それから試合が終わった葉咲のもとに、俺たちは向かう。
これまでよりも疲労の色が濃ゆく見える葉咲と合流し、池は言う。
「おめでとう、圧勝だったな」
不調のことには、あえて触れないのだろうか?
それなら、俺もせめて勝利を祝おう。
「次勝てばベスト4なんだろ、すごいな?」
俺たちの言葉に、
「ありがと、二人とも。でも、すごくなんてないよ、これでも私優勝候補なんだし」
その高慢だとも捉えられそうな言葉とは裏腹に、自嘲を浮かべる葉咲。
「……ごめん、ちょっと嫌味言ったかも。やっぱりまだ本調子じゃないから、メンタルリセットしてくるよ」
弱々しく笑った葉咲。
池は頷いてから、
「そうだな。集中の邪魔をしちゃ悪いし、俺たちは客席で夏奈の勝利を応援させてもらう」
「応援だけじゃ、なんの力にもなれないかもしれないけどな」
俺と池の言葉に、
「ううん、そんなことない。皆の応援は、すっごく心強いよー。……ホントにごめんね、折角応援に来てもらったのに、かっこ悪いとこばっかり見せちゃって」
葉咲はこちらを伺いながら、そう言った。
「……いや、真剣にテニスをする葉咲は、カッコいいと思うぞ」
俺の言葉に、ぎりりと歯噛みした後、葉咲はどこか申し訳なさそうに俯いた。
「次の試合は、ちゃんとカッコいいところ見せられるように、頑張るから」
そう言い残して、彼女は俺たちの前から立ち去って行った。
俺は本当にカッコいいと思っていたのだが、葉咲としては納得できるプレーができていないのだろう。
かなりストイックな奴だな。
「……上手く言えないですけど、なんか空回ってる感じですねー」
先ほどまで一言も口を開かなかった冬華が、葉咲の背中を見送ってから、どこか呆れたようにそう言った。
「そうだな」
池が一言答える。
俺も、それに同意を示した。
どの試合も、追い詰められたような表情で試合に臨む葉咲。
その必死さをカッコいいと思う反面。
もっとのびのびとしたプレーも見てみたいと思った。
☆
しかし。
俺が望んだ葉咲のプレーを、その日はとうとう見ることができなかった。
「ゲームセットアンドマッチ、ウォンバイ有住」
審判が宣言したのは、葉咲の対戦相手の名前。
スコアは……6-0。
両手を膝について俯き、苦しそうに荒い息を吐く葉咲。
観客席からでは横顔しか見えないが、それでも彼女が悔しんでいるのは、すぐに分かった。
格上である葉咲を倒した対戦相手は、歓喜し、多くの仲間から温かな声をかけられていた。
――こうして。
優勝候補本命とまで言われた葉咲夏奈は、ベスト8での敗退が決まった。
☆
「あははー、ごめんね、良いところ何も見せられないまま負けちゃって」
コートから出た葉咲と、俺たちは再び顔を合わせる。
彼女の表情には一切の晴れやかさがなく、申し訳なさそうに笑っていた。
……無理をしているのが、丸わかりだった。
ホントは悔しくて仕方がないのだろうが、それでも俺たちの前だからと気丈に振舞っているのだろう。
「テニスの試合を観るのは、これが初めてだったが、面白かった。また応援に来させてくれ」
俺は葉咲の言葉に応える。
負けたとはいえ、俺は葉咲をすごいと思ったし、カッコいいとも思った。
そのことが伝われば良いと思ったのだが。
「……うん、次こそもっとカッコいいところ見せられるように、頑張るね」
彼女の表情を見る限り、上手く伝わりはしなかったようだ。
「このあと、夏奈はどうするんだ?」
池が葉咲に問いかける。
彼女は視線を俯かせつつ、
「この後は、クールダウンをしてから、残りの試合を観ようと思う。……だから、できたら一人にさせてほしいかな」
弱々しい声音で、そう呟いた葉咲。
「そうか。それなら俺たちは帰るとする。夏奈も帰りは気をつけろよ」
池は葉咲の言葉に従い、彼女を一人にするようだった。
「うん、そうする。今日は、応援に来てくれてありがとね、友木君、冬華ちゃん」
「ん……俺は?」
「あ、ごめん。普通に忘れてた。春馬も、ありがと」
「全く感謝を伝えられた気がしないな」
やれやれ、と肩を竦める池を見て、少しだけ、普段の葉咲のような無邪気な笑顔を浮かべる。
「それじゃ、俺たちはもう帰る」
「うん、バイバイ」
葉咲はそう言って、胸の前で小さく手を振った。
俺と池は手を上げてそれに応じ、冬華は軽く会釈だけした。
――それから、俺たちは歩き、駅へとたどり着いた。
ここに来るまでの道のりは、ほとんど話をしなかった。
それぞれの中で、今日の葉咲の様子や調子について、考えていたのだろう。
俺は彼女の力ない笑い顔を思い出し、改札近くで二人に問いかけた。
「なぁ、葉咲をあのままにしておいて、良いんだろうか?」
俺の言葉に、二人は立ち止まり振り返った。
スポーツに打ち込んだことがない俺には、負けた時の悔しさが分からない。
だから、彼女が今、本当はどんな気持ちなのか。俺には窺い知れない。
「……一人になりたい時ってのは、あると思う。それが夏奈にとっての今だったとしても、不思議ではないとも思う」
「私も、試合で負けた後は一人になりたいって、思いますね。特に、あの状況だったら」
「……そうか。葉咲の気持ちを考えれば、放っておくのが一番なのか」
「それは……そうとも限らないけど。それでも、夏奈が一人になりたいって言うのであれば、俺は尊重してやりたい」
池の言葉に、冬華も頷いた。
俺と違ってコミュ力があり、同じ競技の経験があるこの二人が言うのであれば、それが正しいのだろう。
「そうか。……変なこと聞いた、すまん。それじゃ、俺はトイレに寄ってから帰るから、ここで別れよう」
俺の言葉に、池と冬華はどこか呆れたように笑っていた。
これから俺がすることに、気が付いたのだろう。
それでも、止めないということは。きっと、やるだけやってみても良いんだろう。
「そうか、それじゃまたな」
「また連絡するんで、ちゃんと返してくださいね、先輩」
二人が笑みを浮かべて、俺に言った。
それから俺は一つ頷いてから、踵を返した。
――余計なお節介、なんだと思う。
ここで帰るのが正解なんだって、そりゃ頭では分かっていた。
だけど俺は、これでもあいつの友達だ。
ただ一言、友達になろうと言われた、それだけの関係だとしても。
俺にとっては、貴重な友達なんだ。
何ができるかは、正直言って分からない。
だけど、友達が辛い時には、何もできなくても傍にいてやりたい。
そんな勝手な自己満足を胸に、俺は来た道を引き返すのだった――。
【とある兄妹の会話】
「冬華は、あのまま優児が家に帰ったと思うか?」
駅のホーム。
一組の男女が電車を待っていた。
その二人は周囲の誰もが視線を奪われるほどの美形であり、羨望の声がささやかれていた。
「思わない」
少年の言葉に、少女はどこか不機嫌そうに一言だけ答える。
「俺もそう思う。優児は、絶対に、葉咲のところに向かったな。……自分じゃない他の女の子のために、彼氏が動こうとしているのは、冬華的には嫌じゃないのか?」
どこか試すかのように、少年は少女に問いかけた。
「嫌に決まってんじゃん。先輩が葉咲先輩の『友達』として行ったってのは分かってるけど、それでもやっぱり嫌なものは嫌」
誰もが見惚れる整った表情を、少女は不機嫌そうに歪めて即答した。
「だけど、仕方ないとも思ってる。私は先輩のそういう馬鹿だけど、底抜けにお人好しなところが、大好きだから、私は止めない。……止められない」
寂しそうに呟いた少女を見て、少年は白い歯をのぞかせる。
「は? 何笑ってんのキモ」
攻撃的な少女の言葉。
それでもなお、笑みを崩さない少年は、少女に優しい声音で言った。
「優児が冬華の彼氏になってくれて、良かったな」
不満を浮かべるものの、どこか複雑そうな表情を浮かべつつ、
「先輩が恋人とか、最高に決まってんじゃん……」
少女は、顔を真っ赤にして、少年の言葉に応えた。






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