22、本音
「……ムカつく」
この場に流れる静寂を破ったのは、冬華の呟きだった。
その言葉の通り、酷くイラついているようだ。
彼女が腹を立てている相手……。
それは俺か、甲斐か。
あるいはどちらとも……なのか?
「私がああ言ったのは、全部……私のことだからですよ!だから私は、あいつに対して先輩のことを庇うふりして、八つ当たりをしたんです!」
冬華はそう言って、俺を見つめる。
その瞳の奥には、仄暗い怒りが秘められているように見えた。
「外見や風評だけで判断されて、中身を全く見られていないのは、私もおんなじじゃないですか! どいつもこいつも、私の外面だけ見て好意を持って、それを押し付けてくる。女子だって、兄貴目当てで私に近寄ってくる。……ウザい、気持ち悪い、めんどくさい」
いつか見た、冬華の登校時に一緒にいた一年女子のことを、俺はふと思い出した。
冬華の周りには、いつもああいった手合いがいるのかもしれない。
「ねぇ、先輩。それって、私でいる必要があるんですかね? 結局、あの『池春馬』の妹だったら。何でもできるみんなのヒーローの妹であれば。……別に私じゃなくても、誰でも良いってことですよね?」
冬華は、止まらない。
「だから、私は『私』になりたかった。『池春馬』の妹じゃなくって、『池冬華』になるために、私は努力をしたんです。兄がやっていたスポーツ、芸術に関する習い事は、すべて私も一緒にしていました。何でもいいから、一個だけでも良いから。あの兄に勝ちたかった」
冬華の言葉には、鬱屈とした思いが込められていた。
「……どんなに私が努力を重ねて、結果を残しても。それでも兄より優れた結果を出せませんでした。その程度であれば、『流石は春馬の妹だ』って言われて、それでおしまい」
きっとこれは、誰にも言えずに一人でため込み続けてしまった思いだ。
「だったら、勉強では負けない。そう思って、私は頑張りました。寝る間も惜しんで、兄よりも優秀な成績を修められるように、ずっと頑張りました。……それでも、やっぱり駄目でした。精々私は、この学校の入試で一位止まりですよ。全国模試トップの兄とは、比べ物になりません」
彼女はこの劣等感と常に向き合い続けていた。
「でも、一番悔しかったのは。……努力の量でも、私は兄に勝てないんです。私が限界だと思うほど頑張っても、兄は軽々とそれを超え、信じられないような努力をします。にもかかわらず、私には平気な顔で『無茶はするなよ』なんて言ってくるんですよ? もう、ほんと惨めですよ」
目を背けずに、正面から受け止めていた。
「……中学の途中からは、もうほとんど気づいていました。私はもう、何をやっても兄には勝てないんだ、って。でも、逃げたくもなかった。そうしたらきっと、私は一生『池春馬の妹』になってしまうから。だから、わざわざ兄とおんなじ学校を受験したんです」
彼女の心に蓄積された重荷がいかほどのものなのか。
俺には、想像することすらできなかった。
「この学校に通うことが決まって、兄から一番の親友の話を聞きました。うっとおしいなと思いつつも、兄の嬉しそうな表情を見て思ったんです。その人と兄の仲を邪魔すれば、勝てなくってもちょっとはスカッとするんだろうな、って」
冬華は、俺に恨めしい視線を送る。
それが、俺だったのか。
……池に一番の親友と思われたことに喜んでいる場合ではないな。
「でも、ダメでした。私のお願いじゃなくって、結局兄からの手伝いを優先しちゃうんですから、先輩は。……そりゃ、そっか。こんな性格の悪いニセの恋人の頼みより、親友の頼みのほうが大事ですよね」
諦めたようなその表情を見て、俺は一つ気がついた。
「……冬華は池のことを『クソ兄貴』呼ばわりをしたり、暴言を吐いたりするが、一度も『嫌い』とは言ったことがなかったな。本当は、兄貴のことが好きなんだな」
「好きかどうかなんて、今ではもう自分でもわかりません。だけど、すごいなって思っています。尊敬だってしています。同級生が兄に熱を上げるのもわかります。顔は良いですし、優しいですし。人間ができてますよね、私と違って。……だからこそ、自分が尚更惨めになるんですよ」
一つ深く呼吸をしてから、冬華は言う。
「文武両道、容姿端麗。人望も厚い。そんな『特別』な兄を持っている私は、顔が可愛いくて『優秀』なだけの、性格が悪い女の子。私は何も兄には勝てない。私はいつまで経っても、『池春馬の妹』であって、『池冬華』にはなれない。この一か月は、改めてそれを突き付けられているようで、すごく、惨めでした。こんなことになるんなら……この高校にくるんじゃなかった」
それから俺から視線を逸らして、続けて言う。
「今だってそう。巻き込まれただけの先輩にみっともなく喚き散らして八つ当たりして。……ホント、私って惨めですよね」
言い終えた冬華の表情は、酷く弱々しく、辛そうだった。
『池春馬』という圧倒的な才能に触れ続け、比較され。
それでも彼女は挫けずに努力を重ね続けた。
にもかかわらず、誰も彼女の努力を讃えない。
本人すらも、自らを上回る努力を兄に見せつけられ続け、誇ることができない。
そんな残酷が、ただの少女に耐えられるものなのか?
……多分、無理だ。
俺だって、耐えられない。
いや、俺はその前に、池を超える努力をしようともしないだろう。
あいつは、間違いなく主人公だ。
これがレッテル張りに過ぎないのだとしても、俺はそう思う。
俺はあの男に憧れている。
あんな主人公みたいな男になりたかったと、心の底で思っている。
でも、ああはなれないと自覚している。
……いや、なろうとする以前に、諦めている。
だから、本心を晒した冬華に、何も言葉をかけられない。
俺は所詮ただの友人ポジションで、傷ついた女の子を救うのは主人公である池だから。
……そんな詭弁を、本気で弄してしまえば。
俺は、あいつの友人ですらなくなってしまう。
そう思ったから、俺は彼女をまっすぐに見据えて、口を開いた。
「俺が冬華のニセ恋人になった理由は、最初に言ったと思う。『初めて後輩に頼られたから』。だけど本当は、それだけじゃないんだ」
俺の言葉に、冬華は顔を上げた。
「俺は、池と冬華に、仲直りをしてもらいたいと思ったから。あの時の冬華の誘いに乗った」
「……結局先輩も、私が池春馬の妹だから、付き合ってくれてたってことですね」
冬華は、憤りを見せることもなく淡々と呟いた。
「そういうことになるのかも知れない。俺はずっと、池春馬に憧れていた。いつも頼りになるあいつみたいになりたいって思っていた。だけど、なれるわけがないとそうそうに見切りをつけた。ならせめて、憧れたあいつに、少しでも受けた恩を返したいって思ったんだ」
「何ですかそれ、ずっと無駄な努力を続けていた私を、バカって言いたいんですか? 酷い先輩ですね」
自嘲を浮かべる冬華。
「逆だっての。俺は、あいつに勝とうとなんて思えなかった。あいつのすごさに目が眩んで、そこで立ち止まった。……なのに冬華は違う。どんなに池がすごくっても、どんなに周りから評価されなくても。それでも冬華は頑張り続けたんだろ? 挑み続けたんだろ? それは、凄いことだ。誰にでもできることじゃない」
「何ですか、慰めですか?」
うんざりしたように、冬華は言った。
「それも違う。なぁ、冬華。俺だってあいつに憧れたうちの一人だ。だから、分かる。冬華の凄さも、努力も。……だから、俺が認める。他の誰が認められなくても。冬華自身が認められなくても――」
俺は、真直ぐに冬華を見る。
上手く言葉にできているかは分からない。
これが彼女にかけるべき言葉なのかも、分からない。
それでも俺は、彼女に伝えたい言葉を、誠意を込めて告げる。
「俺が、池冬華はすごい奴だって、認める。ちゃんと、見ていてやる」
冬華は、俺の言葉に目を開く。
俺の視線を受け止めて、驚いたような表情を浮かべていた。
馬鹿なことを言っている、と思われたのかもしれない。
俺からの評価なんて、何の価値もないことを、誰よりも俺自身が一番知っている。
それでも、俺は続ける。
彼女に胸を張っていて欲しいから、たとえ自己満足に過ぎなくても。
彼女の手助けをしたいと、心底思ったから。
「冬華は池を超えようと努力して、結局何も勝てなくて。辛くなって諦めたのかもしれない。それが悪いことだと俺は全く思わない。……だけど冬華が、やっぱり負けっぱなしは悔しいって言うなら。池にも絶対負けたくないものが、これから先できたなら。俺は、池じゃなくて冬華を応援する。たとえ一つでも、冬華が池に勝てる様に、俺に協力させてくれ」
俺は、無言のままこちらをまっすぐに見つめる冬華に向かって告げた。
彼女が今何を思っているのかは、分からない。
だが、少なくとも。
あの救いを求めるような表情は、もう浮かべていなかった。
「それと、一つ良いか? きっかけは、確かに池がいたからだと思う。だけど俺は、『池の妹』じゃなくて、性格も口も悪いけど、なんだかんだで可愛げのある『池冬華』っていう後輩と一緒に過ごせることが、すげー楽しい。だから、この高校に来なければ良かった、なんてこと言ってくれるな。冬華とのニセ恋人生活をなんだかんだ楽しんでいる俺が……悲しくなるだろ?」
そして俺は情けないことに、結構切実にそう言った。
無意識のうちに、俺は冬華を『妹キャラ』として見ることができなくなっていた。
――それはまぁ、当然だろう。
なにせこいつは、俺にとって初めてできた『面倒をかけてくる後輩』なのだから。
それは、池と同じように。
俺にとって大切で、かけがえのない存在だ。
俺の言葉を聞いた冬華は、戸惑い、目を伏せ、黙り込み。
それから……顔を真っ赤にして、両目に涙をためながら、俺を見た。
俺も、彼女の視線から目を逸らさない。
視線が合うと、冬華は顔をさらに赤くしていき、何かを言おうとして諦め、俯き……最終的に、勢い任せに俺を睨みながら一言叫んだ。
「帰るっ!」
冬華はその言葉の後、出口へと向かって歩き始めた。
……励ましの言葉をかけたつもりだったのに、怒らせてしまったようだ。
反省をしないといけないとは思うものの、ずかずかと大股で扉へと向かう冬華の後を追うのが先だ。
「ついて行く。今一人で帰って甲斐に見られたら、面倒じゃないか?」
「話しかけんなっ!」
またしても、一言叫ぶ冬華。
しかし、「着いてくるな」とは言わないあたり、意外と冷静なのかもしれない。
俺は彼女の言葉に従い、無言のまま並び歩く。
真っ赤になった冬華の横顔を見ると、嫌がるように顔を背ける冬華。
……そりゃあんだけ偉そうなことを言えば、ウザいよな。
やっぱり俺は池みたいな主人公にはなれないんだな、と肩を落としつつ。
まぁ、落ち込んでいるよりかは、怒っている方がこいつらしくもあるよな、と自分を慰めるのだった。
☆
そして、お互いに無言のまま下校し、駅までたどり着いた。
そういえば前もこんなことがあったな、と思いつつ、
「じゃあな」
と、冬華に別れの挨拶をする。
絶賛激怒中の冬華からの返事は期待していなかったのだが――。
「……また明日」
と、俺の耳に冬華の呟きが届いた。……気がした。
「は?」
俺は呆けたようにそういうのだが、冬華はそれから一切こちらを振り返らずに駅構内を進んでいった。
……やっぱり、空耳か何かだったのだろう。
俺は一つ溜め息を吐いてから、帰りの電車を待つことにした。






4コマKINGSぱれっとコミックスさんより7月20日発売!