第八幕 アンチテーゼ
福島忠は愛想の良い警官であった。
彼は私と右京が座っていた椅子に腰掛け、笑顔で夫人と会話していた。
「私共の力不足であります。誠に申し訳御座いません」
福島は夫人に対して平に謝り、その頭を低く下げた。
夫人は暗い表情のまま、そっと首を振って云った。
「いえ。仕方の無い事ですから」
私は話の内容を掴めないまま、机の傍に寄ると福島に挨拶した。
「お久しぶりです、福島さん」
彼は私の姿を認めると、僅かに顔を此方に向けた。私の顔を覗き込みながら、申し訳無さそうな声で福島が云う。
「ええと、どちらかでお会いしましたか」
私は静かな声で応える。
「八神の弟で、巽と云います」
彼の顔が一瞬強張り、それから直ぐに元の笑顔になって云った。
「警部の弟さんでしたか。済みません、私は忘れっぽいものですから」
穏やかな微笑の中に、何か鋭い物を私は本能的に感じた。
しかし福島は笑みを崩さずに続けた。
「警部は貴方の事を心配しておられますよ」
「兄が心配しているのは僕ではなく家名です」
私が耐えきれずについ本音を口にすると、福島は声を僅かに上げて笑った。
福島は私の兄の部下であり、政府から選ばれた“阿頼耶識”でもある。
その理念に反目して柊の庇護下にいる私は、彼等から見れば国賊も同じだ。
彼の笑顔の裏に軽蔑と憤激がある事など容易に知れる。
其れに気付かない振りをして、私は福島に尋ねた。
「何か奥様と話されていた様ですが」
答えたのは彼では無く、椅子に腰掛けて俯いていた藤堂夫人だった。
「今回の件については、警察の方でこれ以上の捜査は不可能だそうなのです」
其れを聞いた私が反射的に福島の方を向くと、彼は眉を寄せて申し訳無さそうな声で云った。
「此れはお上の決定でして。私達としても大変遺憾ですが、どうしようも無いのです」
二人もの被害者を出した猟奇殺人の捜査をたった三日で諦めるなど、通常起こり得る事では無い。言うまでもなく何らかの理由が在るのだ。
しかし私は、福島の顔を見つめただけで何も云いはしなかった。
この状況を予測していたからだ。
第一、問い詰めたところで適当にはぐらかされるのは目に見えている。
私は僅かに振り返って、背後に立っていた右京を見た。
彼は面倒臭そうな顔をして頷く。
「そうですか。それは残念ですね」
夫人に向かって私がそう云うと、彼女は此方を見ずに只顔を俯けた。
「何とか犯人を捕らえようと、私共も手を尽くしたのですが」
何処か形式的な響きを持たせて、福島が夫人に声を掛ける。
其の言葉を捉えて、私は云った。
「それなら御心配はいりません。犯人は判っています」
ぴくり、と福島の肩が静かに跳ねた。
夫人とひさぎが此方を見る。
凍った笑顔を貼りつかせたまま、福島は私に云った。
「何を仰られているのか」
「誰が藤堂氏と上田氏を殺したのか、犯人は判っている、と云いました」
一瞬声を失った福島は、我に返ったように瞬くと、私に対して呟く様に云った。
「どういう事ですか」
私は机の脇に立ったまま、落ち着いて答えた。
「其のままの意味です。たった今証拠になりそうな物も見付けた所です」
福島の表情が僅かに変わる。
笑ったままであったが、目が細められたのは直ぐに分かった。
「それは素晴らしい。是非お話を伺いたいものです」
まるで機械が喋っているかの様にそう云った福島を見て、私は確信した。
「随分態とらしいですね。犯人は貴方でしょう、福島刑事」
福島はそう云われて動揺するでもなく、微笑すら浮かべて云った。
「興味深い推理だ」
椅子からゆっくりと腰を上げると、彼は私の前に立った。
「一体私が、どの様にしてお二人を殺したと云うのでしょう」
福島の顔からは人当たりの好い笑顔が消え、不敵な表情が浮かんでいた。
座ったままのひさぎと藤堂夫人は、ただ目を大きくして其れを見ている。
「人間の手足を引き千切り、首を転がしておく事など、私に出来るとでも」
云われた私は口だけを動かして答えた。
「ええ。出来ますよ」
福島は瞬きもせずに私を見つめる。
私は静かに云った。
「一見すれば人間には不可能な殺し方だと思われますが、ある力を利用すれば人の体を千切る事くらい誰にでも出来ます」
極力声を昂ぶらせない様に、私は斜め下を向きつつ続ける。
「利用した力とは、即ち重力です。どちらの殺害現場の側にも、高い建物がありました。貴方はあらかじめ目の荒い刃物で切断する部分を中途半端に削いでおき、その部分を縄か何かに固定したまま体を窓から勢いよく放ったのです。
削られていた腕や足は、重い胴体に引っ張られて、まるで猛獣に食い千切られたかの様な傷跡を残して千切れます。
藤堂氏を殺害した時は、恐らく初めに境内で彼の体を刻み、その上で死体を担ぎ社殿に入り込んで、その方法を繰り返したのでしょう」
椅子に座ってずっと俯いている夫人が嗚咽を漏らした。
「それこそ、人間に出来る所業ではありませんね」
私がそこまで言うと、福島は静かに笑い始めた。
「何とも恐ろしいですね。しかしどうして其れを私の仕業と考えるのです。他の誰かがやって出来ない事は無いでしょう」
余裕を見せる彼に、私も動揺せずに応えた。
「藤堂氏の件については、正直に云えば誰でも可能でしょう。しかし使用人の上田氏を殺害出来たのは貴方だけです」
そう云って私は福島を睨んだ。
「私は当時、裏庭で大きな音を聞きました。何かが割れた様なおかしな音でした。其れは上田氏の体が母屋の二階から投げ捨てられた音だったのです。
そしてその死体が落ちていたのは、貴方が居たはずの客間の真下です」
私がそう云うと、福島は突然大きな声で笑った。
「其れだけでは証拠にならないでしょう。屋敷に入り込んだ“化け物”が彼を引き裂いたのでは無いとどうやって断言するのです」
「証拠はあります」
私は福島がまだ言葉を終わらないうちに云った。
「あの日貴方は二階の客間に居た。其れは間違いないですね」
念を押す様に私が云うと、福島は僅かに狂気を湛えた笑顔で頷いた。
「客間の箪笥が不自然に移動していました。先程其れを動かしてみたところ、裏の壁には夥しい血液が飛び散っていたのです。あの部屋が殺害現場であると云う以外に、どの様な理由で大量の血が壁に飛散するのです」
私が其れを説明し終わると、福島は先程よりも大きく笑った。
長く、半ば気がおかしくなった様な声が響いた。
「下らない、実に下らないですね。
一体どうして藤堂家と関わりの無い私が、彼らを殺めねばならなかったと云うのですか」
私は彼に対して、軽蔑と恐怖、憤激を感じながら、云った。
「貴方の信じる下らない正義の為では無いのですか」
そう云い放った私の背後に、靴の音が響いた。
「その通りだ」
突然聞こえて来た其の声に、私は気を失いそうになる。
肩が竦んで振り返る事が出来ない。
「全ては正義の下に下された、罰だ」
氷の様に冷たい其の言葉が、私の背を切り裂いた。
靴の音が近づく。
彼は私の隣まで来ると云った。
「お前は何故理解しない。人に仇なす魔は絶たねばならないと云う事を」
現れた男は私の兄、八神要警部であった。
黒い官服に身を包んだ彼は、蔑む様な視線を私に向けた。
「下らない妄想を、まだ捨てずにいる様だな」
「捨てるつもりもありませんから」
私は精一杯兄を睨み付けるが、彼は其の冷徹な表情を僅かにも変える事は無かった。
「おいおい、久しぶりに会ったってえのに、俺には挨拶も無しかい」
後ろから声を上げたのは、其れまでじっとしていた右京だった。
「可愛い元部下に対してそりゃあねえだろう。相変わらず冷てえ奴だな」
右京は以前、阿頼耶識の一人であった。僅かだが、兄の下で働いていた事がある。
要は肩越しに振りかえると静かに云った。
「貴様も余程暇らしいな、時村」
「暇はアンタも一緒だろうが。こんな処に隠れ住んでいる“鬼”を、態々殺しに来たんだからな」
木刀の鞘袋を肩に担いで、右京が一歩踏み出す。
「其れだけじゃない。藤堂氏も殺されている。彼自身は鬼では無かった」
私は兄に向き直って云った。
「藤堂氏は“鬼”である上田さんをそうと知りながら匿っていた。恐らく貴方達は其れを知り、そして」
冷たい兄の瞳に悪寒を感じつつ、私は其れを見詰めて云った。
「二人とも殺したのですね。それも、“鬼”の仕業に見せ掛けて」
私が云い終わると同時に、突然福島が嗤い出した。
何処か狂気を孕んだ声が慄然と響く。
私は、其の光の無い瞳に怯えた。
「其の通り、其の通りです八神警部。全ては魔の滅却の為」
福島の右手には、何時の間に手にしたのだろうか、長めの匕首が握られていた。
「この帝都東京に歴史ある家の主が、事もあろうに妖魔を飼うとは。許された事では無い。これは天意だ。魔に魅せられた悪鬼に対する神の怒りだ」
引き攣った声で福島は叫んだ。
「藤堂家は粛清されるのです。最後の鬼を殺せば」
そう云った彼は、突然右手を振り上げた。
そして、
椅子に座ったままだったひさぎに、其の刃を振り下ろした。
呆然と其の光景を見上げるひさぎ。
私は左足で強く地面を蹴ると、彼女に覆い被さる様に体を投げ出した。
遅れて聞こえて来たひさぎの悲鳴。
右肩に焼ける様な痛みを感じる。
「巽!」
右京が私を呼ぶ声がした。
何とか体を起こして振り返る。
鞘袋から抜き放った木刀を福島に向けた右京だったが、其の刀身が彼に当たる前に、要の小太刀に剣筋を阻まれた。
大きな音を立てて刀がぶつかる。
「気付かなかった、等とは云わせん」
右京の木刀を押し返しながら、要は全く冷徹な声を私に掛けた。
「私にも判るのだ。“鬼見”の力を濃く受け継ぐお前が、気付かない訳など無い」
背中の痛みの所為か、頭の中がぼやけている。
私の下になっているひさぎが、大きな瞳に涙を溜めて震えていた。
「勿論気付いていました」
私は力無い声で応えた。
「だから何だと云うのです。彼女は記憶を失っていた。自分が“生まれ得ざる者”であることも忘れていた。人間と何一つ変わることは無い」
其の私の言葉に、背後にいた福島が嗤った。
「其れが甘いと云うのです。殺戮と混沌こそ奴らの本能。幾ら無害に見えた所で野放しにして置けば、やがて我ら人間にとって脅威となることは明白です」
「ふざけた理論だ。手前らの腐った正義を押し付けられて殺されちゃあ、たまんねえぜ」
要の小太刀に木刀を合わせたまま、右京が云った。
福島は小さく嗤ったまま、匕首を構えると私に警告した。
「警部の弟君を手に掛ける事は本意ではありません。早く其処を退いて下さい」
最早其の目には、狂った光しか宿っていなかった。
私はひさぎを自分の体で覆ったままでいた。
「厭です。死んでも動きません」
福島は不気味な笑い声を上げると、云った。
「そうですか。其れでは仕方がありません。全ては我らの未来の為です」
狂気に満ちた声だった。
私は戦慄を感じたが、動くことはしなかった。
「馬鹿野郎、手前え自分の弟じゃねえか」
右京が叫んだ。しかし要は何も答えず、ただ右京が私に近づくのを押さえていた。
「駄目、駄目です巽さん。逃げて下さい」
震えたままのひさぎが、ごく小さな声で云った。
私の腕から落ちる赤い血が、彼女の白いブラウスを少し汚していた。
私は彼女に向かって、ただ首を振った。
「苦しまぬようにしてあげます」
福島が腕を振り下ろすのが分かった。
其の後ろで、右京が要の小太刀を払う音がした。
しかし恐らく、其れは間に合わないだろう。
一瞬が永遠の様に長く感じられる。
刃が迫っている事が、本能的に解る。
酷く冷静に、私はただ目を閉じた。
其の時だった。
「今日は風が強いですね」
惚けた声が聞こえた。
耳を疑った次の瞬間、
私の真隣りにあった窓硝子が、物凄い音を立てて全て割れた。
突然、壊れた大窓から息が出来なくなる程の突風が吹いた。
硝子の破片が、散乱する。
「アンタ、知ってるかい。死に神ってのは鬼より怖いンだよ」
聞き慣れた別の声が聞こえた。
風に乗って聞こえる小さなタントラに、空気が突然冷える。
カラン、と何かが落ちる音。
福島の手から匕首が落下した。
彼の体から、白くて細い糸の様な物が出ていた。
其の糸は静かに集まって、死に神が持つ赤い番傘の先端に吸い込まれていった。
「アンタの魂、貰ってくよ」
死に神、沢野井仙が笑った。
次の瞬間、福島は其の場に倒れた。
「一体何をしているんだい時村。相変わらず肝心な処で役に立たないねえ」
散らばる硝子を踏み越えて、仙が室内に入りながら云った。
風に吹かれて更に獅子然とした髪を弄びながら、右京は返した。
「相変わらずってどう云う事だい」
不貞腐れた様な其の声を聞いて、もう一人の訪問者も笑った。
「まあ、何とか間に合って良かったですね。仙、巽君を看てあげて下さい」
柊はそう云うと、ずっと其の場に微動だにせず立っていた、私の兄に云った。
「久しぶりですね、要。元気そうで何よりです」
彼は何も答えずに、ただ自分の小太刀を外套の下にしまった。
私は仙に助け起こされて、空いていた椅子に座る。
彼女は何処かに隠し持っていた剃刀で私の上着を裂くと、背中の傷を確認した。
「深くは無い様だね。血も止まりかけだよ。これなら後で杉田センセに診せときゃ平気さ」
云うなり仙は私の其の傷口をぽんと叩いた。
私は痛みで声を失う。
「其処でぶっ倒れてる奴も生きてるよ。尤も、生きてるだけだけどね」
仙は福島を目で指して云った。
彼女も元は阿頼耶識であり、他人の生気、つまり生きる力を奪うという恐ろしい能力を持っている。
生気を奪われた者は、自ら考える力を失い、ただ呼吸をするだけの廃人となる。
其れ故彼女は「死に神」と綽名される様になったのだ。
「貴方は、彼の行いも正義と思うのですか」
柊が、兄に対して尋ねた。
彼は珍しく即答しなかったが、結局こう答えた。
「当然だ」
「藤堂氏は“鬼”ではありませんでした。其れをあの様な凶悪な方法で殺害して、あまつさえ其の罪を“鬼”に着せ、悪名を高めようと謀った」
柊が、落ち着いた声で云う。
「一体、どちらが悪鬼なのでしょう」
要は冷徹な瞳で柊を見ると、更に冷たい声で応えた。
「手段など問題では無い。“生まれ得ざる者”は悪、我らは正義の名の下に其れを誅するのみ」
兄は変わっていない。
親に云われるままの“正義”を、未だに信じている。
私は遣り場の無い苛立ちを感じた。
「貴方の正義に反する者は、全て悪と云う事ですか」
柊が尋ねる。
彼の口調はあくまでも穏やかである。
要はただ一言答えた。
「そうだ」
ゆっくりとした風が、壊れた窓から吹いて来た。
「正義の反意語は、悪ではありません」
柊が呟く様に云う。
「正義の反対もまた正義。其れを認めない限り、人々は過ちを繰り返すでしょう」
彼の言葉に、要は目を細める。
「下らない」
そう応えると、彼は倒れていた福島を引き上げ、肩に担ぐようにして抱えた。
そして静かに踵を返す。
「私が警官を辞める時、貴方は私を殺さなかった。其の時から信じています。貴方も本当は気付いているのだと」
穏やかに柊が云った。
要はそんな彼に鋭い視線を向けた。
「そんな物は幻想だ。私は躊躇わずに貴様を殺す」
そう言い残して、彼は去った。
柔らかな風がもう一度吹いた。
外を見れば、雨はとうに上がっていた。
柊の笑顔の中に、私は云い知れぬ哀しみを視た。