第七幕 記憶
途切れる事無く響く声に、私は酷く焦った。
考えるまでもなく、其れはひさぎの物だ。
頭の中が半ば真白の状態で、私は暗い土の上を走った。
月はおろか、星すら出ていない闇夜である。視界は覚束無い。
悲鳴だけを頼りに、私は土塀を右手に曲がった。
突然白い物が目に飛び込んで来た。
「ひさぎ」
私は慌てて声を掛けた。
まるで幽鬼の様に淡く、彼女の白いブラウスが地面に浮かんでいた。
「大丈夫かい、ひさぎ」
倒れている彼女を抱き起こすと、ひさぎの大きく見開かれた瞳が私の物と交わった。
「あ、ああ」
恐怖に怯えた様な表情を張り付けたまま、ひさぎは意味の無い声を上げた。
そして彼女は私の胸元に頭を唐突に埋めると、引き攣る様な嗚咽と共に泣き出した。
「一体、何があったんだ。怪我は」
私が尋ねるも、ひさぎは只首を横に振るだけだった。
どうしたものか。
取り敢えずは、彼女が落ち着くまで此処にいるしか無いだろう。
泣き続けるひさぎを座ったままで抱えながら、私は思った。
其の時だった。
正面から、何かの音がした。
誰かが近づいて来る様だった。
土を踏む音が大きくなって行く。
「いや、来ないで」
突然腕の中でひさぎが叫んだ。
恐怖に歪んだ其の顔を更に引き攣らせ、彼女は酷く震え出した。
真逆、
以前彼女を狙っていた、あの…
私は或る考えに思い当って、身の毛がよだつ思いがした。
しかし、思いがけず降って来た声は、予想だにしない形で私の想像を裏切った。
「逃げ足の速え野郎だ。夜道でなけりゃ、追い付けたんだが」
声に続いて現れたのは、闇夜でも目立つ紅の袢纏。
其れに金獅子の刺繍がある事を、私は知っていた。
大柄な右肩に担がれたのは木刀の鞘袋。
てんでに乱れた長髪を一つに括っている様は、まるで中世の野武士である。
そんな人目を引く恰好で天下の往来にのさばる男、一人しか居ない。
「右京、どうしてお前が此処に」
私の前に突如として現れたのは、我が探偵事務所の幽霊所員、時村右京その人だった。
「俺が東京に居ちゃいけねえってのかい」
何処かからかっている様な声で彼が云った。
私は答えずに半ば呆然と彼を見つめた。
「それより巽、手前こそこんな処で何してやがるんだ」
右京の問いに、私は自分の腕に抱かれたままのひさぎを思い出した。
彼女は少し怯えていたが、先程よりかは落ち着いた様だ。
私のシャツの袖口を掴む右手が、まだ小刻みに震えている。
「そいつは何だ。お前のこれか」
右京は真顔のまま不謹慎に小指を立てた。
「馬鹿。説明は後だ。事務所に戻る」
私はそう言ってからひさぎを見た。
彼女は未だ藤堂家に帰るつもりだろうか。
しかしひさぎは、聞き取れない程小さな声で言った。
「わたしも、連れて行って下さい」
事務所には、所長と仙が居た。
倫太郎は既に帰ってしまった様だった。
仙は私とひさぎの後ろに紅の衣を見つけるや否や、繕っていた番傘を右京に向かっていきなり投げつけた。
私とひさぎは慌てて身を躱す。
赤い傘は見事に右京の額を捕えたものの、彼の持っていた紫の鞘袋に叩き落とされた。
「突然何しやがるんだお仙」
一種の焦燥を顔に浮かべながら、右京が呻いた。
「黙りな時村。アンタ一体何処ほっつき歩いてたんだい、こんな大事な時に」
仙は死に神よりも恐ろしい目で彼を睨むと、座椅子の背凭れに体を預けた。
私はひさぎを室内に招きいれ、最初の時と同じようにソファに座るよう促した。
「全くとんでもねえ歓迎だな。折角来てやったと云うのに」
右京は未だ眉根を寄せたまま、自分もソファに腰掛けた。
ひさぎと私がその正面に座る。
「来てやっただって。何考えてるんだい。所員が仕事すんのは当然じゃないか」
仙の言葉に不服そうに顔を上げた右京を、ひさぎは驚いた様な顔で見つめていた。
無理もない。
彼の風貌は確かに異質だ。
濃墨の着流しと金獅子の袢纏だけでも十分珍奇であるが、其れだけでは無い。
先程は夜道で暗かった為に見えなかっただろうが、部屋の中の明かりの下でなら、ひさぎにも彼の顔がはっきり見て取れるだろう。
高い鼻筋と薄い灰青色の瞳。肌は青磁の様に白い。
無造作に束ねられた長い髪は酷く薄い亜麻色。
太陽の下に晒せば、其れは殆ど金に近い。
明らかな事であるが、彼は異国の血を引いていた。
尤も、本人でさえ何処の国の血がどれほど混ざっているのかは知らない。
彼の母親は貿易の要衝、横浜の遊女だったのだ。
「おかえりなさい、巽君、ひさぎさん。右京も、良く来てくれました」
所長の声が正面から、右京の肩越しに聞こえた。
「何でまた、皆さんお揃いで帰って来られたのです。何かあったのですか」
何時も通りのんびりとしたその声に、右京が答えた。
「東京駅の辺り歩いてたらいきなり女の悲鳴が聞こえたからよ、急いで角曲がってみりゃあ、何だか慌ただしく蠢いている黒い影が見えた訳さ」
其処まで云ってから、右京は後ろを振り返って所長の方を見遣った。
柊は表情を変えずに其の話を聞いていた。
「そいつ俺に気付いたのか、矢庭に其の場から逃げ出しやがった。怪しいと思ったから其のままそいつを追ったんだが、あの暗闇の中、すぐに見失っちまった」
気の無い声でそう言うと、今度は正面に座す私とひさぎに目を移した。
「辻に戻ってみたら、良く判んねえがこいつらがいたのさ」
顔を向けられたひさぎは、慌てた様に少し目を逸らした。
私は所長に向けて説明した。
「僕とひさぎは、例の神社へ行ったのですが、ひさぎが藤堂家に帰りたいと云うのでその場で別れました。直後、ひさぎの悲鳴が聞こえたので駆け付けてみたら、彼女が路上に倒れこんでいたんです」
ひさぎはじっと俯いたままでいたが、やがて小さな声で話し始めた。
「わたし、混乱していてよく覚えていないのですが、あの暗い四つ角の処で、誰かに突然背中を強く押されたのです。それで、怖くなって、訳も解らないまま悲鳴を上げて仕舞いました」
ひさぎは其処で深呼吸をすると、更に語った。
「わたしは声を上げた後、どうやら気絶してしまったみたいで。次に気付いた時は、巽さんに助けられていました」
彼女は申し訳無さそうな瞳で私の方を向いた。
そして、消え入りそうなか細い声で云った。
「あの、本当に、迷惑を掛けて申し訳ありません」
云われた私は慌てて首を振る。
「何事も無かったのだから、良かったよ」
その間、何かを考える様に上を向いていた所長が、ゆっくりと向き直って尋ねて来た。
「では右京もひさぎさんも、その襲って来た人物を、はっきりと見る事は出来なかったのですね」
その問いに、二人は静かに頷いた。
「でも一体どこのどいつがそんな真似したんだろうね。全く、危ない世の中だよ」
其れまで黙って聞いていた仙が口を開いた。
ひさぎはやや俯いたまま、首を縦に振った。
私は心の中に蟠りを感じたが、敢えて何も云いはしなかった。
やがて夜も深くなった頃。
仙に一から十まで事件についてを聞かされた右京は、面倒だと云わんばかりの仏頂面で、欠伸をしながら事務所を後にした。
右京が以前使っていた三階の部屋は、今ひさぎが入っている為、彼は恐らく私の部屋で勝手に転寝するつもりだろう。鬱陶しいがまあ仕方ない。
仙はそれを忌々しそうに見送った後で帰路に着いた。
ひさぎは見るからに疲れている様子だった為、早く休む様に云って部屋に返した。
彼女は終始不安そうな表情を見せていたが、今は休むことでしかそれは癒せないだろう。
斯く云う私も疲労を感じていた。
動く気が起きずただ黒いソファに埋まる。
何も考えずに天井を見上げていると、段々全てが如何でも良い様な変な気持になってくる。
そんな中で、所長が唐突に声を掛けて来た。
「巽君も、相当疲れている様ですが、大丈夫ですか」
其の言葉に、私は胡乱な返事をした。
「ええ」
殆ど無意識に相槌を打つと、柊は更に言葉を続けた。
「今回も何も見てはいないのですか」
別段責めている様子の無い其の言葉に、私は必要以上に反応した。
曇っていた頭の中が、突然冴える。
「何も」
大きく首を横に振り、わざと所長の席から目を逸らせた。
何故こんなに動揺しているのだろう。
今回何も見ていない事は事実なのだから、別に慌てる事など無いと云うのに。
こんな態度を取れば、只でさえ鋭い彼に怪しまれない訳が無かった。
少しの間沈黙があった。
何故か心臓が高鳴る。
「巽君。何か、私に伝える事はありませんか」
所長は柔和な声でそう云った。
私は固まったまま彼の方を見る事が出来なかった。
何かを云おうにも声が出て来ない。
焦りの様な、困惑の様な気持の悪さを感じ、私は俯いた。
云えない。
これは伝えてはいけない。
黙ったままでいると、所長はゆっくりと席を立ち、私の方に歩み寄った。
「何か、気付いているのですね」
見透かされている、と思った。
いや、むしろ彼も気が付いているのではないだろうか。
私は目を瞑ると息を大きく吐き出し、私が「視た」事を全て打ち明ける決心をした。
*****
翌日は早朝から雨だった。
冬だからか、じっとりとすることこそ無いものの、下手に乾燥した空気のために、如月の寒さに拍車を掛ける。
雨が瓦を叩く音だけが、静かにこだましている。
窓から見えるどんより曇った鈍色の空が、この場所の空気を更に重くしている様な気がした。
私は三度、藤堂家を訪れていた。
今回はひさぎと右京を伴っている。
以前来た時と同じ一階の応接間に通された私達は、洋式の豪奢な机を挟んで向かい合うように座っていた。
夫人が茶を入れる為に席を立ったのを見計らい、傲岸な態度で右京が云った。
「一体どうして朝っぱらからこんな陰気な場所に来なくちゃあならねえんだ」
ひさぎは落ち着きなく周りを見回していたが、私はただ黙って下を向いていた。
「昨日は一体、あんな遅い刻限まで事務所で何話してやがったんだよ、巽」
右京がそう云うと、私は一言で答えた。
「当然、事件の事だ」
「へえ、そうかい。それで、犯人でも判ったのかい」
皮肉めいた彼の其の問いに、私は真顔で云った。
「ああ。判った」
私の答えに、右京は一瞬で顔を顰める。
隣に居たひさぎも、驚いた瞳をして私を見た。
「何云っていやがるんだお前」
猜疑に溢れた目を此方に寄こした右京に対し、私は無感動に伝えた。
「本当だよ。犯人は判っている。でも証拠がない」
私は溜め息にも似た息を吐き出すと、続けた。
「だから此処に来たんだ」
右京は未だ信じ難いと云った表情で、私に云った。
「どうやって犯人が判った」
私は彼と目を合わせないままに答える。
「動機さ」
「動機だと」
「そう。藤堂氏と使用人の上田氏を殺す理由のある人間」
私は声を低くして云った。
「それだけじゃあない。昨日、ひさぎが襲われただろう」
「それと殺人事件と何の関係があるんだ」
「ひさぎが襲われた事を偶然と考える訳にはいかない。彼女は藤堂家の一人娘だ。父親と使用人が殺されている状況下で彼女も襲われたのだから、何かしらの関係があると考えるのが普通だろう」
其れを聞いた右京は、躊躇いなく云った。
「それなら、二人を殺した犯人が、昨日この嬢ちゃんも殺そうとしたって訳かい」
余りに直接的な物言いに少し戸惑ったが、一つ頷いて私は続けた。
「そう。つまり、その三人を殺す動機のある人間が犯人だと思ったんだ」
「それなら、単純に藤堂家に恨みを持つ奴じゃあ無いのか」
右京が云った。
私は首を横に振って応える。
「藤堂家への恨みだけならば、使用人をわざわざ殺すことはない。それならばむしろ狙うのは夫人の方だ」
私の言葉に対して、不満そうに目を細めた右京が云う。
「大体、“人間”が犯人だとは限らないだろうが。そうなりゃ、理由何てモンは無意味だ」
彼が云いたい事は直ぐに解ったし、そう云うだろうとも思っていた。
「あの殺人は、或る方法を使えば普通の人間にも可能だ。今朝倫太郎に確認したから間違いない。それに、もしも“鬼”が無差別に人を殺しているだけならば、藤堂家の人間だけが襲われている理由が解らない」
「藤堂家に恨みを持っている鬼とは考えられねえのか」
「もちろん考えられなくは無い。でもそれならば矢張り先に夫人を狙うだろう。使用人を殺すことはない。上田氏を殺す理由があると考えられるのは、せいぜい身内の人間だ。でも襲われた人を除けば藤堂家の中に鬼は居なかったよ」
「全員視たってのか」
「視たよ。確かに居なかった」
右京は繋ぐ言葉を失い、黙った。
夫人が戻って来る足音を聞き、私達は結局言葉を噤んだ。
彼女は慣れた手付きで茶を洋机に載せると、静かにひさぎの横に座る。
「警察の方は後一時間程でいらっしゃるそうです」
彼女は呟く様に云った。
私は夫人に頼んで警察を此の場所に呼んで貰ったのだった。
「そうですか。有難うございます」
礼を云って夫人を見ると、彼女は暗い瞳でただ中空を見つめていた。
相変わらず憔悴したその夫人の様子に、私は掛ける言葉を見つけられず、只用件を伝えた。
「済みませんが、二階を拝見しても宜しいですか」
夫人は虚ろな目を此方に向けて、首を縦に振って云った。
「どうぞ、ご自由にお上がり下さい」
云われて私はそっと席を立った。
「何をしに行くつもりだ」
右京が云った。
私は其方を見ずに一言答えた。
「証拠を探しに行くのさ」
「へえ」
気力の無い声で呟くと、右京はおもむろに立ち上がった。
ひさぎは少し迷っている様だったが、敢えて席を立ちはしなかった。
私は右京を連れて、黒檀の仰々しい階段から二階へと上がった。
洋風の扉が幾つも目の前に現れる。
その広い廊下の真ん中で、女中の一人が雑巾掛けをしていた。
早坂と云う名だったはずの其の女中は私達に気付くと、少し慌てた様子で立ち上がり会釈した。
「どうも、お客様がいらっしゃっているとは気付きませんで」
まだ十四、五歳と云った所であろう彼女は、僅かに赤面しながら此方を見る。
「あの、客間はあちらの奥に御座います」
右手を指しながらそう云った彼女に、私は一つ頷いてからこう尋ねた。
「君は、上田氏が亡くなった時、この二階のどの部屋に居たんだい」
早坂は特に驚いた様子も怯えた様子も無く、はっきりと答えた。
「私は由江様のお部屋を掃除しておりました。丁度此方の部屋です」
云って彼女は、自分の直ぐ隣にあった部屋を指した。
「其の時特に、おかしな音や妙な物を見たり聞いたりはしなかったかい」
私の質問に、彼女は首を振りつつ答える。
「警察の方にも云ったのですが、これと云って変な音は聞いていません」
早坂はそう云った後、一瞬云い淀んでから言葉を繋げた。
「でも、後で気付いた事があります」
「気付いた事だと。そりゃあ何だ」
右京が云うと、早坂は目を上げて少し不安げに呟いた。
「いや、もしかしたら只の勘違いかも知れないのです。最初からああだったかも」
「別に構わないよ」
私がそう告げると、彼女は一つ頷いてから云った。
「客間にある箪笥の位置が、変っている気がするのです」
「客間の、箪笥が」
「そうです。以前は部屋の東側にあったはずなのですが、其れが窓の隣に移動していたのです。昨日、客間をお掃除していて気が付いたのですが」
早坂はそれでも自信が無さそうに、勘違いかもしれないと云う事を強調していた。
私は其れを気にせず、彼女に礼を云って奥の客間へ向かった。
右京は何も云わずに付いて来る。
客間の扉は重々しい黒樫で出来ており、ひどく重圧感を持っていた。
私は其れを押し開けて中に入る。
先ず視界に飛び込んで来たのは、正面にあった大きな窓と、其の左脇に備えられた黒檀の箪笥であった。
「女中が云っていた箪笥ってえのは、こいつか」
右京が呟いた。
私は頷いて窓辺に近づく。
閂を外して窓を開けて見れば、其の下は裏庭であった。
下から見上げたよりも、高さがある気がした。
私は窓の外を見るのを止めて振り返ると、直ぐ隣に置いてあった黒い大きな箪笥を片手で押してみた。
「右京。これを動かせるかい」
私がそう尋ねると、右京は眉根を寄せて云った。
「動かしてどうするんだ」
「動かしてからのお楽しみさ」
其の答えに不服そうではあったが、右京は亜麻色の髪を掻きながら箪笥に近づいた。
仏頂面のままで両手を広げると、黒い箪笥の両脇に手を掛けた。
箪笥はかなりの幅があったが、大男の右京ならばまだ余裕がある程の長さだ。
彼は一瞬で腕に力を込めると、箪笥を自分の方に引き寄せて傾けた。
「何だ、見た目よりも重くねえな」
右京はそう呟くと、驚く程に軽々と箪笥を抱え、其れを左脇に移した。
「これで、一体何が解るって云うんだ」
そう云って視線を窓際に戻した彼は、口を噤んで目を見開いた。
私は嘔吐感を堪えた。
箪笥で隠されていた部分の壁に、明らかな異常。
私が口を開くのと、階下に警察が到着するのはほぼ同時であった。