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第六幕 闇

少し気分転換して来たらどうだい、という仙の余り有り難くもない助言により、私は少しだけ気力を取り戻した様子のひさぎと共に東京駅にやって来ていた。


乗合馬車が広い往来を闊歩する。美しい鬣を靡かせたその馬の蹄が高らかに鳴っている。

茜色の振袖を揺らした若い女性が、真新しい反物屋へと入って行く。

その隣では行商人が声を張り上げて唐辛子を売っていた。

駅前の巨大で無機質な舗装道路とそんな光景を眺めながら、停車場の薄茶けた煉瓦に腰掛けた。


止めどない雑踏と人ごみに酔いそうになる。

藤堂家の二つ目の事件から二日が経った。

警察がどの様な捜査をしているかは解らない。

所長は特に焦る様子も見せず、今朝も呑気に新聞を読んでいた。


やはり、あの犯行は“鬼”に因る物なのだろうか。

もしもそうだとしたら、一体何故同じ“鬼”である上田を殺害したのか。

それとも、何か、仲間割れの類か。


私がその様な事を取り留めもなく考えていると、横からひさぎの声がした。

「巽さん、どうかしましたか」

気遣う様な其の言葉に、私は自分が気を使うべき人間に心配されてしまった事に気付くと、慌てて謝った。


大体、今そんな事を考える必要は無い。それでは気分転換の意味が無いではないか。

「もう、日が暮れますね」

ぽつりとひさぎが呟いた。その言葉に私が空を見上げると、今まで澄み渡っていた青空に茜色が混じり始めているのが見えた。一月ほどでは無いものの、未だに日が落ちるのは早い。

ただ東京と神田の間を歩いただけで、一日が終わって仕舞った。


鴉の鳴き声が聞こえた。

夕焼けが一層濃くなる。

私は静かに、右手に佇むひさぎの方を向いた。

彼女は今日ずっと口数少なかったが、今も俯いたまま黙っている。


その柔らかな形の眉は寄せられ、薄紅い唇は強く閉ざされて、どこか辛そうな表情だった。まるで今にも泣きだしそうである。

どうやら気分転換の意味が無いのは彼女も同じの様だ。

「ひさぎ」

私が声を掛けると、彼女は弾かれたように肩を揺らせて顔を上げた。

「すみません、ちょっと考え事をしていました」

慌てるひさぎに、私は苦笑する。

「僕達は結局、何処に居たって考え事をしてしまう様だね」

私の其の言葉に彼女は少しだけ笑った。


買い物を終えて帰路につく人々が、眼前を忙しなく歩いて行く。

私は煉瓦に腰掛けたまま其れをただ見つめていた。

すると唐突に、ひさぎが私に何かを云った。


「え」

彼女の口が動いた事は判ったのだが、丁度良い具合に豆腐屋の角笛が聞こえた為、ひさぎが何を云ったのか判らなかった。

「今、何て」

私が聞き質すと、彼女は顔は上げたまま、しかし視線は下に落として今一度云った。


「私が、倒れていた場所と云うのは何処でしょうか」








夕焼け空は既に、その色を闇に呑まれ始めていた。

私とひさぎは人気の少ない路地を静かに歩いていた。

正直に云えば、ひさぎを此の場所に連れて来たいとは思わなかった。

自分が倒れていた場所を見れば、当然彼女が何かを思い出す可能性はある。

しかし私は、彼女に余計な事を思い出して欲しくはなかった。

其れは彼女を苦しめるだけであると、私には解るから。


「此処だ。ひさぎが倒れていたのは、この四つ辻の真ん中だよ」

結局私は彼女を案内し、数日前に私がひさぎを見付けた場所にやって来た。

ひさぎは少し小走りにその中心へ向かう。

そして無表情のまま、辺りをゆっくりと見回した。


四方は土塀に囲まれており、東側の角に一つだけ瓦斯灯が立っている。

鬱蒼とした柳の木が、其の街燈に凭れる様に掛っていた。

そのため橙色の明かりは遮断され、日が完全に落ちれば殆ど何も見えなくなるであろう。


「此処に、わたしが」

ひさぎが静かに口を開いた。

私は黙ったまま頷く。


暫くひさぎは、黒い土塀と地面とを見比べるようにしていたが、やがて其の首は動きを止めた。

「何か、思い出す事は有ったかい」

しかしひさぎはそっと俯いて、瞳を閉じるとそっと首を横に振った。

「いえ、何も」

彼女の口調には失望が滲んでいたが、漸く上げた其の顔は、先程以上に決意に溢れていた。

其の顔を見た私は、動揺した。

そして彼女が紡いだ言葉に、更に衝撃を受ける。


「わたしのお父様が亡くなったと云う神社は、此処から近い筈ですよね」

ひさぎの美しい、しかし強い瞳が、私に投げ掛けられた。

「真逆、其の神社に行きたいとでも云うのかい」

自分の父親が残酷な方法で殺されていた現場である。

彼女の好奇心が強い事は既に承知しているが、そんな場所まで訪れる勇気があると云うのか。

「はい。お願いします、連れて行って頂けませんか」

彼女は白いブラウスの袖口を、互いの手で握り締めながらそう云った。


どうして、と尋ねるのは不毛な気がした。

それに、死体が実際に転がっている訳では無い。

彼女に現場を見せるだけならば、何の問題も無かろう。

私はそう判断して、一つ頷くと、彼女を連れて歩き出した。


四つ辻の、瓦斯灯の角を曲がり、其のままただ真っ直ぐと歩く。

住宅が余り無いからか、道は非常に暗かった。


「此処だよ」

私は、左手に現れた大きな暗がりを指して云った。

既に日は暮れ、心許ない小さな街燈だけが土をほんの少しだけ色付けている。

ひさぎは何も云わずに其の暗い石段に近付いた。


途端に彼女の肩が一瞬震えた。

石段に染み付いた血痕に気付いた様だった。

私は何か云おうと彼女に近付いたが、ひさぎは振り返りもせずに石段を登り始めた。


自分の父親の殺害現場だと云うのに。声一つ上げないとは。

全く、大したものだ。

私は彼女の冷静さと大胆さに、一人で感嘆した。


石段を登り切ると、其処には大きな朱い鳥居があった。

侍女の話では此の鳥居の真下に、藤堂氏の首が落ちていたそうだ。

私はそう考えて、少しだけ吐き気を感じた。


鳥居の向こう側には、巨大な社殿がある。

神社自体は小規模だと云うのに、驚く程に大きな其の社殿は、夜闇のために背後の森に紛れ、全景が不確かだった。

少なくとも、柊エージエンシイのビルよりも更に高く見えた。


「何て大きい建物」

ひさぎが驚いた様にその目を見開いた。

私はそんな彼女の横顔を眺める。

ただ純粋に社殿の大きさに驚愕しているのか、それとも他に何か思う事があるのか、ひさぎの瞳は真っ直ぐに闇の中の建築物に向けられていた。

「見覚えはあるのかい」

私が尋ねるも、彼女は首を横に振った。

「いいえ。夜だからかもしれませんけど」

ひさぎは遠慮がちにそう呟いた。

確かに、昼と夜とでは景色は全く変わってしまう。

特に今日は月すら出ていない。辺りはほぼ完全な闇だ。


「また日が高いうちにでも来ればいいさ」

私はそう云って彼女を促そうとしたが、どうした事か彼女は其の場に固まった様に動かなかった。

「ひさぎ」

名を読んでみるが、彼女はじっと下を向いたままだった。

「すみません」

ひさぎは聞き取れない程に小さな声でそう云った。

そして私は、彼女が泣いている事に気付いた。


突然の事に私が何も出来ないでいると、彼女はそっと私を振り返った。

「御免なさい。自分でも何だか良く判らないのですが」

彼女は静かに涙を流しながら続けた。

「わたし、あの家に帰らなければいけない」

いきなりそう云い出した。


「どう云う事だい。何か、思い出したのかい」

私は聞いてみたが、ひさぎは首を横に振る。

「それじゃあどうして」

ひさぎはまるで混乱したかの様に、ただ首を振り続けた。

「判りません。でも、お家にいなくてはいけないお云い付けだけ、思い出したのです」

彼女の言葉は私には理解出来なかった。


けれど、藤堂家に帰ると云うひさぎを無理に引き止めるのもおかしいと思い、私は云った。

「それなら、僕が送って行こう」

しかしひさぎは自分の震える体を抱く様にして立ったまま、今一度首を振った。

「此処から家は近いですから、わたし一人で帰れます」

「でも」


こんな状態のひさぎを一人にする事は出来ない。

私はそう思って声を掛けたが、彼女は思い詰めた様な表情で私を見た。

「我儘を云ってすみません。少しだけ、一人になりたいのです」

そんな顔をされて、私は何も云う事が出来ず、仕方なく彼女を見送った。



一体、何を思い出したと云うのか。

私は神社の石段を一人で下りながら、ひさぎの突然の混乱ぶりを回想した。

四つ辻にいた時は何とも無かったと云うのに、神社の社殿を見た後、唐突に泣き始めた。


家にいなければならない、という云い付けを思い出した、と彼女は云った。

それが誰の云い付けだったのか、そして其れに何の意味があるのか。

私には全く解らなかった。

何だか胸がむかついた。

私は道端に落ちていた小石を思い切り蹴り飛ばした。

小石は土塀に当たって、かつんと云う音を立てて落ちた。

辻の瓦斯灯が私の影を映す。


そう云う事をしているから子供だと云われるのだ。

私は自分が苛立っている事を認識すると、急に恥ずかしくなった。


まあ、いい。

明日にでも藤堂家をもう一度訪ねて、落ち着いたひさぎと話せば、全て判るだろう。

そんな風に思い直して歩みを速めたその時だった。



矢庭に耳に届いた其れは、悲鳴。


私は自分の愚かさを罵りながら、その声の元へと走った。

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