表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/10

第五幕 生まれ得ざる者

其れは酷く冷え込んだ夜だった。


藤堂家の侍女である三枝は、使いに出された先からの帰り道を急ぎ足で歩いていた。


迷った為に随分遅くなってしまった。時刻はもう、零時をとうに過ぎている頃だ。

瓦斯灯が揺らめく淡い光を放っている。

橙色に照らされた暗い道路は、何処か不吉な影を浮かべていた。


三枝の主である藤堂隆一郎氏が失踪して二日経っていた。

奥方の百合子は不安からか憔悴し切った様子だ。

一人娘の由江も、元々外向的な方では無いが、何時にも増して暗く、殆ど一日中部屋に閉じ籠っている。


無論三枝も心配していた。

藤堂氏が何の連絡も無く帰って来ない事など、過去には一度たりとも無かったのだ。

何か、事件にでも巻き込まれているのだろうか。


三枝の草履の音だけが暗闇に響く。

身を切り裂く様な冷たい風が、無情な音を立てて吹き荒んでいた。

彼女は更に足を早め、少しでも身を温めようとした。

しかし余りの寒さに、爪先がかじかみ、重心を前に掛けると鋭い痛みが走る。

思わず三枝は自分の草履の先を見つめた。


そこで、何か異常な物を見た。

自分の赤い草履の横に、それよりももっと赤く、もっと毒々しい色を見付けたのだ。


血だ。


三枝は殆ど本能的に其れを感じ取った。

自分の体温が下がって行くのが判った。


数滴の血痕、と云った物では無く、其れはまるで赤黒い池だった。

暗い土の上で、気持ちが悪い程に輝いている。

寒さから来る物とは違う戦慄を感じ、三枝はその場で足を止めた。 

おぞましい、見たくないと頭では思っても、何故か目が離せない。

良く見れば血溜まりの左方から、赤い物が川の様に流れ込んで来ていた。

恐怖を感じながらも、彼女は無表情のままゆっくりと左手に顔を向けた。

其処に現れたのは石段であった。

赤い物は、其の石段に一筋の線を描いて土へと流れている。


見てはいけない。


本能がそう叫んでいるのを全身に感じながら、別の脳が勝手に三枝の顔を上へと向ける。

視界が静かに上がって行く。

十段程の石段の上に、赤い鳥居が見えた。

其の二つの大きな柱の中心に、在ってはならない物が存在した。


人間の頭だった。


引き千切れそうな程に目を見開いた三枝が、其れが己の主の物であると気付いたのは、痙攣した悲鳴を上げた後であった。





   *


 事務所のソファに深く身を埋めたまま、私は仙と向かい合っていた。

「つまり、今回殺された藤堂家の召使いこそが、“鬼”だったって訳かい」

 気だるい声でそう云った彼女に、私は黙って頷く。

「そうです。生きた人間に憑依していたので、死体も見た目は全く普通でしたが」

例え外見が人間そのままであっても、その正体が“生まれ得ざる者”であれば、私には其れが意図せずに視えてしまう。まるで其の体の内側に有る物が透けて視えるかの様に。


私とひさぎが藤堂家の裏庭で発見した遺体は、明らかに人間では無かった。

「何だか良く判んないねえ。鬼がお互い殺し合いでもしているって云うのかい」

仙がじれったそうに云った。

私は答えずに、先程柊から伝え聞いた別の出来事を思い返した。



始まりは今から五日前。

華族の大富豪である藤堂家の主、藤堂隆一郎氏が突然失踪した。


連絡も無く突然消える事など、過去に一度も無かったため、不穏さを感じた夫人は警察に届け出た。しかし丸一日か二日行方が判らない程度で彼らは全く動かなかった。

そこで夫人は、私立探偵である柊エージエンシイに藤堂氏の捜索を依頼して来たのだった。

其れは当然、行方不明者探しの依頼となる筈であったが、柊が藤堂家を訪問した際、殺人事件の調査へと変わった。


藤堂氏が他殺体で発見されたのだ。


発見場所は藤堂家から程近い神社の境内だった。

藤堂家の侍女の一人が、帰宅途中に偶然其れを発見したそうである。


死体の状況は異常の一言であった。

まるで獰猛な肉食獣に引き裂かれたかの様に、両手両足、首と胴体がもがれて、その四肢が境内中にばら撒かれていた。

更に、其の全てが、鋭い刃物で切った切り口では無く、巨大な力を掛けて無理矢理に引き千切られた様な傷だったのだ。

誰が見ても、人間に出来る業では無い。


本来なら殺人事件などに関わらないのが柊の主義だが、今回はそうも行かなかった。

“生まれ得ざる者”が関わっているのであれば、放っておく事は出来ないのだ。

私達は、只の探偵では無い。



「ひさぎは大丈夫かい。随分動揺していたみたいじゃないか」

仙の声にふと我に帰ると、彼女に答えた。

「ええ。部屋で休んでいます」

藤堂夫人は、戻って来た由江ことひさぎを、自分の下に置いておきたがっていたが、どう云う訳かひさぎが其れを拒否した。

その為彼女は未だ、この建物の一部屋を使っていた。


「そう云えば、僕がひさぎを見付けたのは、藤堂氏の死体が発見された日だったのですね」

思い出して、私が独り言の様に呟いた。

しかも、発見場所である神社から左程離れていない場所に、彼女は倒れていたのだった。

私の脳裏に突然厭な考えが浮かぶ。

真逆、彼女が何か関係している何て云う事は。

「そうだねえ。アンタ、近くに居たのなら犯人を見ていたかも知れないじゃないか。“鬼”を視たりはしなかったのかい」

仙に云われて、私は心臓が飛び上がるのを感じた。

しかし表情は一つも動かさないまま、静かに答える。

「いいえ」

私は首を振ると、話題を変えた。


「其れよりも、今回の件です」

仙は疑うことも無く頷くと、更に深くソファに身を沈めた。黒い喪服が黒皮に滲む。

「死体の状況は、前とおんなじだったんだろう」

仙の問いに、私は小さく頷く。

「違うのは、今回の死体は首だけがもがれていたと云うことです」

藤堂氏の時のように、四肢が引き裂かれていた訳では無かったが、切り落とされた、と云うよりは引き千切られたその頭部は、暗に犯人が同一であることを示している様だった。


私とひさぎは庭園で大きな物音を聞いた後、母屋の裏側へ回り、其処で死体を発見した。

死体は前述の通り、体から首が切り離された状態で草叢の上に落ちていた。おぞましい事に、その首は死体の背中に転がるようにして乗っており、其れを見たひさぎはその場で悲鳴を上げると昏倒してしまった。

調べた所、死んでいたのは藤堂家の召使、上田竹雄という人間であった。


いや、人間として暮らしていた者であった訳だが。

彼は“生まれ得ざる者”だった。


一体何故彼が人間の振りをして藤堂家に仕えていたのかは全く謎であるが、少なくともこの上田と云う人物は、家族の誰からも好かれていた好人物であった様だ。


私の様な特殊な力を持たない限り、人間に憑依した“鬼”、生まれ得ざる者を見分ける事はほぼ不可能である。

当然藤堂家の誰もが、彼が人間でないなどと考えた事は無かった。


事実、彼の様に人間と共生している“鬼”は存在する。

中には危険な思想を持って人間を屠ろうとする者も多くあるが、そうでないものもまた多い。

上田は後者だったのであろうと私は思う。


しかしならば何故、彼は殺されなければなかったのか。


「首や手足をもぐ何て荒技、人間には出来ないだろう。つまり、そいつを殺した犯人もまた、鬼って考えるのが妥当じゃあないかい」

私が静かに頷いて肯定を表すと同時に、否定の声がソファの後ろから上がる。

「そんなことないぜ。人間にだって出来ないわけじゃない」

声の主は、所長の席で何やら図面の様な物を見つめていた倫太郎だった。

「大きな仕掛けを使えば、非力な人間にだって出来るさ」

仙はさして興味も無さそうに応える。

「大きな仕掛けねえ。例えばどんなのだい」

倫太郎は席を立たずに、視線だけ此方に寄こして云った。

「例えば、自動車さ」

彼の発した意外な台詞に、仙は頓狂な声を上げた。

「自動車だって」

「そうさ。自動車は百馬力近くもの力を持っているのだから、死体を固定した上で引っ張れば、首くらい簡単に千切れるさ」

少し得意げに云う倫太郎に、仙は呆れた様に彼を見る。

「そりゃそうかもしれないけどね、残念ながら藤堂家に自動車なんか無いよ。あったとしても気付かれずにそんな大掛かりな事出来る訳無いだろう」

「だから、例えばの話だよ」

倫太郎は膨れ面で此方を見、それからまた手元の図面に目を落とした。


「アンタもひさぎも、何か他に物音を聞いたりはしなかったのかい」

黙った倫太郎から目を離すと、仙が私に聞いた。

「いいえ。あの衝撃音だけです。他には何も」

私は静かに答える。

「じゃあ、屋敷に怪しい奴が居たりはしなかったかい」

唐突な仙の質問に、私は暫し考える。

あの時藤堂家に居たのは、ほんの数名だった。

私とひさぎ、柊と被害者を除けば、たった四人である。


まずは藤堂百合子。藤堂氏の夫人であり、死体が発見された時には応接間で柊と会話していた。

次に二人の侍女、三枝美園と早坂しづ。二人ともまだ若く藤堂家に奉公し始めてまだ半年と経っていないと云う。藤堂氏の死体を発見したのは、この三枝という侍女であった。

そしてもう一人、偶然藤堂家を訪れていた警官、福島忠。

先に起こった事件の捜査のために、藤堂家を訪問したと云う。恐ろしい事に、彼は私の兄である八神要警部の直属の部下であり、昨日藤堂家に来たのも兄の代理だったらしい。


侍女二人と警官は、三人ともずっと二階にいたそうだ。三枝は自室に、早坂は丁度由江の部屋を掃除していた。福島刑事は二階の端にある客間にいたという。


私は全員と面通ししたが、この中に“鬼”は存在しなかった。

もしも今回の事件が本当に“生まれ得ざる者”による犯行だとするのであれば、まず彼らは容疑から外れる事になるであろう。


仙はまた一つ大きく溜息を吐くと、自分の黒い長い髪をゆっくりと梳いた。

「まあ、幾ら話したって解らないもんは解らないね。取り敢えずは所長に任せときゃいいさ」

気楽な彼女の発言に、今度は私が溜息を吐いた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ