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第四幕 由江

藤堂家は東京駅から程近い場所に存在した。

神田神保町にある事務所から充分に徒歩で辿り着ける距離であったが、怪我をしているひさぎを伴っているため敢えて乗合馬車を使った。


薄暗い車室の中で、私は柊に尋ねた。

「右京は結局、見つからなかったのですか」

柊は苦笑して答えた。

「ええ。仙がわざわざ横濱まで行ってくれたのですが、長屋には居なかった様です。まあ、彼が直ぐに捕まらないのは何時もの事ですからね」

全くその通りだ。

事務所が忙しいにも関わらず、三か月近くも雲隠れしていた事もある。

尤も彼の場合、初めからまともに探偵の仕事などするつもりは無いらしいが。


東京駅で馬車を降りて、広く賑やかな石畳をゆっくりと歩く。

赤い煉瓦造りの建物が、競うようにして立ち並んでいた。

「しかしどうして、ひさぎを連れて来たのですか」

私が尋ねると、柊はちらりとこちらを向いた後、ひさぎに向かって云った。

「ひさぎさん、東京駅に見覚えは無いですか」

「え」

唐突に訊かれたひさぎは、少し驚いた表情で辺りをぎこちなく見回した。

「彼女が東京駅の近くで倒れていたからですか」

私の問いに、柊は静かに応える。

「いえ、それだけではありませんが」


辺りを見回していたひさぎが、ゆっくりと顔を柊の方に向けた。

「あの、何となくですが、知っている気がします」

消え入りそうな程に小さな声で、しかし少しの興奮を伴って、ひさぎが囁いた。

私が驚いて柊を振り返ると、彼は矢張りいつもの謎めいた微笑みを浮かべていた。


徐々に緑が増えていく街道を十五分程歩くと、喧騒は完全に遠ざかり、鳥の鳴く声だけが響くようになった。

ひさぎは恐怖と驚きが入り混じった様な表情で、頻りに周りを眺めていた。


「わ、わたし、この道を知っています」

突然のひさぎの告白に、私は目を見張った。

「本当かい」

しかし柊は特に驚く様子もなく、ただゆっくりと頷いて見せた。


彼がひさぎの何を知り得たのか、私には未だに全く分からなかったが、明らかにこの場所は、彼女の記憶に関わっている様だった。

「柊さん、いったい」

「着きましたよ」

私が今一度問い質そうと口を開いた途端に、柊が右手を示した。


目の前に現れたのは、重厚な黒い門扉だった。

まるで城壁のような両脇の柱は、震災を耐えたのか、至る所に罅が入っている。

柊は静かに扉に手を掛けると、ゆっくりと其れを押した。


その先には絵に描いたような、美しい日本庭園が広がっていた。

しっかりと手入れされた巨大な松と、色とりどりの鯉が泳ぐ小さな池。母屋へと続く石畳の右脇には、数え切れないほどの鉢植えが飾られている。

その景色を見た瞬間、ひさぎが小さな悲鳴を上げた。

「し、知っています。わたし、この庭を知っている」

「藤堂家の庭を知っているって云うのかい」

私は信じられない思いでひさぎを見た。彼女は、自分に何が起こっているのか分かっていないような、放心した表情をしていた。


「もっと進めば、もっと思い出しますよ。きっと」

穏やかな声で柊が言った。

彼は一体何を知っていると云うのだろうか。

まさか、ひさぎが藤堂家の侍女か何かだったとでもいうのか。


疑問を抱いたまま、私は柊の後に続いて石畳の上を歩いた。その私の後ろを、多少混乱したような表情のひさぎが続いた。


厭な空気。


恐らく私以外の誰も気付かないであろうが、この家には特殊な空気がある。

それは決して心地好い物ではなく、どちらかと云えば苦くて黒い悪意の様な、もっと云えば煮え滾った憎悪の様な、どろりとした非常に厭な空気だった。

殺人事件が起きているのだから、その様な空気が流れてもおかしくない、と初めは思ったが、それだけでは収まらない何かが漂っている気がしてならなかった。


母屋に辿り着くと、硝子張りの引き扉の背後に、既に誰かが居た。

まるで私達が到着するのを玄関先でずっと待っていたかの様に、蹲っていた影が大きく動いた。

がら、と、大きな音を立てて扉が開く。

出て来たのは、喪服の裾を乱した中年の女性だった。

恐らく、藤堂夫人だろう。


私が驚いたのは、その酷くやつれた外見が死に神お仙に良く似ていた事ではなく(実際それにも驚いたが)、彼女が突然、私の左手に立っていたひさぎの手を取り、握り締めた事である。

「ゆ、由江。本当に、由江なのですね」

彼女は殆ど泣きそうな顔をして、震えたその手でひさぎの腕を強く引いた。

面喰った表情のまま、手を引かれたひさぎは藤堂夫人の方へと一歩歩み寄る。

「あ、あの」

戸惑った様に声を上げたひさぎを、涙に濡れた瞳で夫人が見つめ、やがて掠れた声で云った。

「よく無事で…、よく無事で戻って来てくれました」

藤堂夫人はゆっくりと腕を上げると、今度はひさぎの肩にそれを回し、彼女を抱きしめた。


一体どういう事だろう。

目の前で何が起こっているのか正確に把握できないまま、私はただ玄関前に立ち尽くしていた。


そんな私に柊が囁く様に云った。

「彼女は藤堂家の一人娘、藤堂由江さんだったのです」

「え」

言われた私は咄嗟にその言葉の意味を捉えきれず、ただ間抜けな声を上げた。


余りに唐突過ぎる。

それに、有り得ない。

彼女が、藤堂家の娘だなんて。

有り得ない。


「あの、わたしは、その」

丁寧に夫人の腕を首から解きながら、まるで弁解でもするような、引き攣ったひさぎの声が玄関先に響く。

「ええ、聞いています。記憶喪失だと。何て事でしょう。全く不憫な子」

ひさぎの手を握り締めたまま、眉根を寄せて夫人が震えたままの声で云った。


ひさぎはあたかも助けを求めるかの様に、柊の方を向いた。

柊は優しげな笑みを浮かべる。

「どうやら、このご婦人は貴女のお母様の様です」

突然その様な事を云われて、ひさぎは困惑した表情のまま、どこか気まずそうに眼前の女性を見ていた。


応接間まで通された私たちは、大きな黒い座椅子に座り藤堂夫人と対峙した。

私の隣でひさぎは、室内に飾られた日本画や重厚な家具を、愕然とした様な表情で見回していた。恐らく、全て見覚えが有るのだろう。


失った記憶を少しずつ取り戻していくというのがどの様な感じなのか私には解らなかったが、どちらにしろ余り良い気分ではなさそうだ。

やがて、無言のまま茶を注いでいた藤堂夫人が、呟く様に云った。

「主人は、警察を信用しておりませんでした」

暗い瞳を机に遣ったまま、彼女は続ける。


「私も同じです。あの人々は人間を物か何かだと思っている様で、好きになれません」

ただでさえ小さかった声を更に落として、やつれた顔を柊の方へ少しだけ向けた。


柊は何も答えず、ただ悲しむ様な、同情する様な表情を見せた。

夫人は茶をゆっくりと全員に配ると、その背後にあった階段をちらりと見遣った。

「実は、今も警察の方がいらっしゃっているのです」

それを聞いた瞬間、私は一瞬椅子から飛び上がりかけた。


柊も、表情は穏やかなままだったが、茶のみに伸ばした腕を止めた。

「今、ですか」

「はい。お一人ですが。二階の客間にお通ししてあります」

私は反射的に柊を見つめた。彼は空中で止めた手を再度動かし、今度は茶のみに届いた。


柊は警察に嫌悪されている。

私立探偵という職業が鬱陶しいと云うのも有る様だが、当然それだけでは無い。


彼が「人間」でないと云う事を、彼らは知っている。


そして、もしも、

もしも二階にいる刑事が、私の兄だったとしたら。



「もしそうだったら、とても気まずいですね」

正面から柊の能天気な声が聞こえた。まるで私の頭の中を読んだかのような言葉だ。

「何を考えているか、顔に書いてありますよ」

云われて私は少し赤面した。


柊はそんな私に構う様子もなく、鬱々とした表情のままの藤堂夫人に声を掛ける。

「ところで、奥様。お体の具合は如何ですか」

夫人は少しだけ顔を上へと持ち上げると、静かに頷いた。

「ええ。大分良いです。今なら全てお話出来ると思います。由江も無事戻って来ましたし」

そう云った彼女は、ちらとひさぎの方を見た。


「しかし、由江の前でこの話をするのは」

夫人は躊躇う様に柊に目配せをする。柊は頷いて答えた。

「確かに、そうですね。では、巽君」

突然名前を呼ばれた私は、面喰って柊の方を向いた。

「由江さんと一緒に、藤堂家のお庭を見せて頂いてはどうですか」


正直に云えば、当然私は柊と共に夫人の話を伺いたかったのだが、彼の遠回しの柔らかい命令に逆らうことは、矢張り出来なかった。




「何か、思い出したかい」

玄関から広大な日本庭園へと出た私は、隣を歩くひさぎへ声を掛ける。

ひさぎはゆっくり首を振った。

「いえ。見た事のある風景は沢山あるのですが。あのご婦人がわたしのお母様だったとか、わたしの本当の名前が由江だったとか、云われても何故かそうだった気がしないのです」

彼女は不安そうな顔を私の方に向けた。

「だから何だか申し訳なくて」


眉根を寄せるひさぎに、私は笑った。

「申し訳なく思う必要は無いさ。思い出せない事は仕方がない。ひさぎの所為じゃないだろう」

そう云って、私はある事に気付いて彼女に尋ねた。

「君の本当の名前は由江だった訳だけれど、僕は今後君を由江さんと呼んだ方がいいのかな」

すると彼女は、少し迷った様な表情を浮かべた後、力なく首を振った。

「あの、何故だか解らないのですが、どうしてもわたし、自分の名前が由江だったと思えないのです。だから、良かったらひさぎと呼び続けて頂けませんか」

「もちろんだよ」

そう云って微笑むと、私は彼女を連れて右手にあった池のほとりへと歩いた。


緑の中に控えめに佇む小さなその池は、色とりどりの石に縁取られており、中では金色の鯉が数匹、優雅に泳いでいた。水面が光を反射してきらきらと輝いている。

暫く無言でそれを見つめていたが、やがてひさぎが口を開いた。

「巽さんが、わたしを助けてくれたのですよね」

矢庭に投げ掛けられた質問に、私はただ頷いた。

「その、わたしはその時、何をしていたのでしょうか。最初から、道端に倒れていたのか、それとも」

私はどう答えるべきか迷った。


当然私は全て「視て」いる。

しかしその真実全てを伝えようとは思わなかった。

知らない方が良い事もある、と云うのは正しい。


「何があったのかは、残念ながら解らない。僕が見つけた時には既に、君は足に怪我を負った状態で倒れていた」

「そうですか」

少しだけ失望した様な調子でひさぎが呟いた。


「そんなに思い詰めるのは良くない。いつか倫太郎が記憶を戻す機械でも発明するさ」

私がそう云うと、ひさぎはこちらを向いて、僅かに微笑んだ。

「そうですね」

静かな水の音と木のざわめきが優しく庭園を包んでいた。


しかし、

その空間は唐突に妨げられた。


私の耳が捉えたのは、異常な音だった。

まるで何かが大きく破裂したような。

喩える事が出来ない程に聞き慣れない物だ。


ひさぎにも其れは聞こえていたらしく、彼女は恐怖にも近い表情を湛え、私を見た。

「い、今のは一体」

彼女はやや緊張した声で呟く。


私は咄嗟に音の聞こえた方を向いた。

どうやら母屋の裏側からだった様だ。

「僕が見て来よう。ひさぎは此処で待って」

「わたしも行きます」

ひさぎは青褪めたままだったが、強い口調でそう云った。

止めても無駄、とその瞳が語っていた。


私は仕方なく一つ頷くと、彼女を伴って木の生い茂る奥へと回った。

裏側は濃い緑に覆われており、見通しが悪かった。

私は足元を見ながらゆっくりと先へ進んだ。

背後からひさぎが息を潜める様にして付いてくる。

薄暗い中で、白い吐息が明瞭に見えた。

寒さが増した様な気がした。


「巽さん、其処に何かがあります」

ひさぎが震えた声で私に云った。

私は前方を見たが、深い緑が漂うのみで視界には特に異常な物は入らなかった。


と思ったのだが、

よく目を凝らしたところ、

「視えて」しまった。


ひさぎの悲鳴が聞こえた気がした。

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