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第壱幕 少女

帝都、東京。


震災後の復興は目覚ましく、焼け野原だったこの一帯は、ほんの二年半で完全な姿を取り戻していた。

復旧に伴う建設工事は、都市の近代化を促し、丸ビルや帝國劇場を筆頭として、モダンな建築が軒を連ねた。

 


大正十五年。

如月の終わる頃。

間もなく正午を回ろうとしている。


 

私は煉瓦造りの瀟洒な東京駅から、神田方面へと一人急いでいた。

私が向かっているのは病院だった。


湯島天神を通り過ぎ、真新しい朱い大きな橋を渡ると、そのまま真っ直ぐ御茶ノ水の方へと歩き続ける。

やがて白いコンクリイトのビルが見えた。

 

杉田医院。

木製の看板にそう記されている。

私は重たい硝子張りの扉を押し開けた。

カラン、と鈴の音が聞こえた。


そっと覗いた受付に、見知った顔がある。

黒い和服の女性だ。

彼女は私に気付くと、黒髪に隠れた只でさえ暗い顔を更に歪ませた。


「遅かったじゃないか。一体何をしていたンだい」

喪服の女性、沢野井仙が私に声を掛けた。咎める様なその調子に、私は慌てて言い訳を試みる。


「少し話が長引いてしまったんです」

「一時間も長引いたのかい。そりゃあ結構なお話しだよ」

仙は私を凶悪な眼差しで一睨みすると、腰掛けていた椅子から立ち上がった。

「所長が待っているよ。さっさと来な」

そう言って手招きした。


仙に連れられて右手奥にある病室の一つへと向かった。

清潔な白い扉を引くと、薄緑の衝立があらわれる。

仙は衝立の向こう側へと呼びかけた。

「所長、八神がお着きだよ」

すると聞き慣れた声が反ってきた。

「そうですか、待っていました巽君。早く此処においでなさい」

私と仙はそれに従った。


衝立の先には、男性が二人。

それと白いブランケットの掛かったベッドの上に、一人の少女が身を起こしている。


窓際に立っていた白衣の壮年男性が、仙を見付けた途端に顔をしかめて言った。

「おせん、幾ら何でも病院でその恰好はどうにかならんかね」

漆黒の喪服姿の仙は、目線を上げるとにやりと笑って答えた。

「こりゃあ譲れないンだよ先生。アタシは死に神なんだからさ」

男性、杉田医師は溜息を吐く。


死に神とは彼女の通称だ。本物の死に神よりも、余程死に神の様な外見だと私は思う。

しかし仙の仕事は死者の魂を狩ることではなく、失せ物を見つけたり、尋ね人を捜したりすることだ。

つまり、探偵である。

「柊エージエンシイ」という、神田神保町にある小さな事務所で働いている。


私、八神巽もその一人である。

尤も私の本業は物書きなのだが。

訳有って、今は此処に世話になっている。


そして私の目の前に座っている穏やかそうな若い紳士こそ、柊エージエンシイの所長、柊想介だ。

柊は私に目配せすると、先程から俯いたままベッドに座っている少女に、優しく話しかけた。

「彼が君をこの病院まで運んだそうです」

言われて、少女は少しだけ顔を上げ、私の方を上目に見上げた。

そして、やや掠れた声で言った。

「有難うございました」

「いえ、とんでも無い」

私は慌てて首を振った。

私はじっと少女を見詰めた。

白い顔に黒い前髪が掛かって、何だかとても薄幸そうに見える。


「全く坊やも良くやるよ。あんな真夜中に娘さん担いで、一人で此処迄来るんだから」

杉田はそう言って磊落に笑う。

因みに坊やとは私の事らしい。

二十五にもなって坊や扱いされるのは甚だ心外だが、何度云っても止めてくれない。

「まあ、其処が巽君の善い所ですから」

所長が呟いた。


そしてベッドの上の少女に向き直ると、もう一度柔らかく話し掛けた。

「何か、思い出しましたか」

少女は静かに俯いて、首を横に振る。


彼女は、記憶を失っていた。


私が彼女を見付けたのは、一昨日の真夜中だった。

深夜零時頃だろうか。

東京駅から、神保町の事務所へと戻る途中だった。


靖国の辺りを歩いていた時だ。

路上にある瓦斯灯の明かりが明滅し、一瞬風が凪いだ。

 

何だ。


奇妙に感じた私は、神経をそばだてて暫くその場に立ち尽くした。

風がぴたりと止んだ。

突然、瓦斯灯の明かりが全て消えた。

刹那、私は何かを感じた。


否、見た。


それは数世紀前であれば、"鬼"と呼ばれていたであろう存在。


「生まれ得ざる者」


私は殆ど衝動的に、其れを追った。

しかし結局、その姿を私の両目が捉える前に、其れは闇に溶けて消えた。


そして、その先で

地面に倒れている彼女を見付けた。


私は怪我を負っていた少女を背負い、この駿河医院へと杉田医師を頼りにやって来たと云うことだ。


「全く何も思い出せないのかね。たとえば、名前とか」

杉田が少女を見下ろす恰好で尋ねる。

少女は目を閉じて少し考えていたが、やがて小さく口を開いた。


「ひさぎ」

応えた少女に驚いて、柊が声を掛ける。

「ひさぎ、それが貴方の名前ですか」

しかし少女は慌てて顔を上げると、大きく首を振って申し訳無さそうに云った。

「す、済みません、名前かどうかは解らないです。ただ頭の中に突然浮かんで」

「きっと名前だろうサ。調度良い。アンタの事はひさぎって呼んでいいだろ。名前が無い何て不便だからね」

私の後ろから仙が云う。

少女、ひさぎはこくりと頷いた。


「さて問題は」

杉田医師が大仰に呟く。

「このお嬢ちゃんをどうするかだ。記憶を失くしちまっている以外には特に問題無い。ちぃとばかし脚を怪我しているがね」

彼は憐れむ様な目でひさぎを見た。


「何時までも此処に置いとく訳にもいかんからな」

それに対して柊が落ち着いた声で答える。

「私達がお引取致します。これでもウチは探偵事務所ですから。身元を捜してみるつもりです。それに」

柊はそこまで言って私を振り返った。

そして眼鏡の奥の瞳に苦笑を混じらせて云った。

「拾って来たのは、ウチの坊やですしね」

それを聞いて杉田がまた笑う。


もう勝手に云っていてくれ。



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