裏32 新たな展望(ガーベラス視点)
少し時間を戻して、カトレアが亡くなった後の3月上旬頃から始まります。
母上が亡くなり、名実共に私がゼフィラス公爵家の家長となった。
母上の遺した細々とした計画──今際の際に引き継いだ資料──は、私を驚かせるに十分だった。
マリーの周辺環境を整えるために、一体どれほど手を尽くしてきたのやら。
私が関わったことなど、氷山の一角に過ぎなかったのだと思い知らされる。
このところフーケがよく呼んでいる茶器の店が、ニコル事件の時に難を逃れたドリスト商会だったとは。
当時は、難を逃れたことに、随分と情報収集力が高いものだと感心していたのだが、母上の資料によれば、ミルティが情報を流していたらしい。
母上は、そのミルティの動きを承知の上で、むしろそれを利用してゴースンの動きを監視していたのだ。ドリスト商会にも恩を売った形で、うまく手駒の1つにしてしまったらしい。
まだ色々と利用しなければならないから、今後の仲介役を見付けておく必要がある。
あの人は、ロクに屋敷から出なかったくせに、どうしてこれほどのことができるのか。
準備だけして無駄になったものも含めれば、十数個の計画が同時進行で動いている。
何通りもの展開を予想して、それらに対する策を用意しているのだ。
「している」…そう、まだ進行中の計画がいくつもある。
その中の1つが、王都に叔母上夫妻を呼び寄せるための屋敷の準備だった。
人員の選抜、屋敷の改修など、陛下の手まで借りている。しかも、対価が不要とは。
王国広しといえど、陛下を自分のために動かす者など、母上以外にいないだろう。
元々マリーの身辺警護をさせていた者達は、王家の暗部を取り仕切るキドー・ベルモット伯…侯爵から借り受けていたが、まさか叔母上の屋敷の警備をさせるためにジェラード領の研究施設を放棄して、その人員を回すとは。
王家の人材を、マリーのために異動させるよう、陛下を動かしたわけだ。
マリーのため…違うな、父上のためか。
昔から、母上は父上のために権謀術数の限りを尽くしてきた。
完璧に私心から出た、しかし結果として私利私欲なく国のためになる行動。
こんな矛盾したことをやってのけるのは、私には無理な相談だ。
母上が地位も名誉も求めず、ただ父上の幸福だけを目的としていたからこそできたのだ。
その気になれば玉座すら手に入れられるのに、研究に没頭する方が幸せだなどと。
母上もまた、大方の貴族令嬢とは違い、夫の地位には頓着しなかった。父上の支えとなることこそ至上の喜び…母上は、そういう人だった。
だが、私と母上では、力の差は歴然だ。
どう足掻いても、私では母上のようにはなれない。
既に、私はゴースン伯爵という反乱分子が研究所に入り込むのを止められなかったという実績がある。
まあ、愚痴を言ってみても始まらない。
私は、私にできる範囲で、母上の遺した計画を推進しなければ。
まずは、陛下のところだな。
「そうか、夫人の遺した計画か…。
とりあえず、賭けは夫人の勝ちだ、と言えばわかるか?」
賭け? 陛下と母上が賭けたというと…
「ネイクミット・ティーバの教え子の合格率ですか?」
「そうだ。提出されたリストの者達の合格率は、8割強。15人中13人だ。
むしろ落ちたのがたった2人とは恐れ入る。
お陰で、今年の平民合格者は25人と、ここ10年で最多だ。その半分が教え子なのだ、彼女の能力は、もはや疑いようがない。
今はまだ早いが、いずれ本人達にも伝えてもよかろう。
ヒートルースさえ官吏になれば、すぐにも子爵位をくれてやる。
せっかくだから、お前が後見人になってやれ。
特別講師など、かつてなかった役職でもあるし、ゼフィラスの名はいい後ろ盾になるだろう」
「お心遣い、痛み入ります」
「ともかく、ローズマリー嬢が学院を卒業するまでの1年で、例の新作の栽培実験を終わらせろ。
うまくタイミングを合わせて研究所に迎え入れるのが理想だからな」
「次期所長が、新作を完成させて入所、ですか」
「そうだ。まあ、これは夫人も承知の話だから、資料が残っているのではないか?
俺と夫人、どちらが死んでもという約束だからな。
夫人の計画の全てを知っているわけではないが、彼女がローズマリー嬢を大成させるために命を削っていたことは知っている。
その方針の全てに賛同するわけでもないが、夫人が最も有効な手を打っていたことは間違いないだろうから、それについては、こちらから手を出すようなことはせんよ。
なにしろ、不世出の才媛をとうとう王都に引っ張り出したんだ。その手腕は疑いようがない」
「母は…何よりも誰よりも父の理解者であり協力者でした。
父との最期の約束、命を引き替えにしても果たさないわけがありません。
私は、母の計画の残りを進めつつ、1年後の準備に入ります」
そうだ、母上は子である私や姉上よりも、父上のために動く人だった。
母上がマリーを優先するのは、父上がマリーの才能を認めたからだ。
母上の遺した計画のいくつかは意味がわからないが、なんらかの目的があることは間違いない。
ともかく進めながら、意味を考えよう。
「任せる。
ときに、パスールはどうだ。少しは役に立っているか?」
「なかなか難しいところです。
本人の資質を云々するまでもなく、扱いにくい立場ですので。
公爵家の子息、それも陛下の弟君の血を引いておりますから、ぞんざいに扱うわけにもいかず、周囲は扱いに困っていますよ。
幸か不幸か、本人は偉ぶらず仕事をこなすことを考えているようですので、問題は起こしていませんが。
これで、更に2年後には、アーシアン殿下も研究所に入られるのでしょう。
なかなか頭の痛いところです」
「アーシアンは、ものになりそうか?」
「それは、事務畑の私には、何とも言えないところです」
母上の願い、というより父上の心残りを果たしてやるのが私の役目だ。
公爵家嫡子である私が、官僚子爵家令嬢に過ぎないフーケと結婚することを、父上も母上も反対しなかった。
「想う相手と結婚なさい。
私達があなたに求めるのはただ1つ、王国のために研究所を運営することです。
その妨げにならぬのであれば、誰と結婚しようと問題ありません」
フーケは、公爵夫人となるには、心が真っ直ぐすぎた。
随分と辛い思いもさせてきた。何より、娘のミルティとの不仲は、もはや修復しようもない。
ミルティが自分の想いを優先した結果、ジェラード侯爵家に嫁ぐことになったのは、私にとってもフーケにとってもいいことだった。
母上にとって、フーケの存在が足枷に感じられたこともあったに違いない。
だが、それでも母上は、フーケのありようを認めてくれた。
それもこれも、全ては研究所のため。
私は、母上の信頼に応えなければならない。
どのみち、私の力量では大したことはできまい。
全ては母上が用意しているのだから、私はそれを受け継ぎ、予定されていた形に仕上げていくだけだ。
「理想を言えば、アーシアンも学院にいるうちに結果を出してくれると嬉しいのだがな。
正直、あれの才能がどの程度のものなのか、俺にはわからん」
「私にだってわかりませんよ。第一、人の才能など、外から推し量れるものではないでしょう。
ローズマリーのように、期待されてそれに応えられる者など、そうはおりません。
ただ、あの子は、二段飛び級という、目に見える形で頭角を現しました。
飛び級した殿下にも、才能がおありになる可能性は高いかと」
「そう願いたいがな。
まあ、いい。ローズマリー嬢がアーシアンを選ばなかったとしても、奇蹟の再来が研究所の未来を担うことは変わらん。
…ガーベラス。
俺は、亡き夫人がサイサリスの妻でよかったと、心の底から思う。
研究しか取り柄のないサイサリスを支え、研究所の運営を軌道に乗せてくれたこともそうだが、あの、まるで未来を見通す目でも持っているかのような周到さ。彼女が政敵であったなら、俺は、いつ寝首を掻かれるかと気が気でなかっただろう。
彼女がラビリスの妻であったなら、王は俺でなかったかもしれん。
お前に、彼女と同じことをしろとは言わん。
お前は、お前のできる範囲でやれ。
俺は、もう年だ。そう長くはなかろう。
ルーシュパストとうまくやれよ。
ローズマリー嬢は、ドロフィシスにそっくりらしいからな」
そういえば、王太子殿下と姉上には因縁があったか。
たしかに、マリーは姉上の若い頃にそっくりだからな。
まあ、私より年上の王太子殿下が、今更マリーに懸想するわけもない。
とにかく、今は屋敷の準備を進めねば。来月には、叔母上が王都に来られるのだから。
「叔母上、母の願いを聞いていただきありがとうございます。
こちらが叔母上とマリーが住むことになる王都ジェラード邸です。
使用人は、信用できる者を母上が厳選しました。
万が一にも、マリーやあなたを害する者はおりません」
「ええ、カトレア様の用意された屋敷ですもの。そんな心配はしていませんよ、ガーベラス様。
私の役目は、私の知識と技術の全てをマリーに伝えること。
持ってきた研究中のものは、今年は完成しないでしょうけれど、それでも有意義な1年になるようにします」
「よろしくお願いします」
役者は揃った。
新たな舞台の始まりだ。
名実共に研究所を背負って立つことになったガーベラス。
これまでは、まだカトレアが動き回って、最後の段階でガーベラスに投げることも多かったのですが、ついに自分で全部算段しなければならなくなりました。
まあ、まだカトレアの置き土産はいくつかありますが。