8 学院入学
ようやくここからが本番です。
「それでは、行って参ります」
「お姉様、いってらっしゃい。お休みには、また遊びに来てくださいね」
ミルティとお祖母様に見送られて、私は学院に向かいます。
夕べは、お祖母様のお屋敷に泊めてもらいました。
何かあった時に頼りなさいっておばあちゃまが言ってたから、先にご挨拶しておく必要もあったし、久しぶりにミルティにも会いたかったし。
今日は、学院の入学式です。
入学式が終わったら、お兄様に学院内を案内してもらって、ご飯を食べに行く予定です。
お兄様にお会いするのは、去年の夏の休暇以来なので、とても楽しみ。
「ねえ、君」
ミルティも呼んで、3人でご飯もいいよね。
「ねえ、君」
寮暮らしなんて初めてだし、ちょっと不安だけど楽しみ。
「ねえ、君」
なんだかうるさい人達がいるみたい。入学式の間くらい静かにしていられないのかしら。
「ねえ、君ってば!」
え!? 肩をつつかれた!?
おそるおそる右後ろを見ると、赤茶色の髪の男の子が私の方を見ていました。
なんだ、うるさいと思ったら、私を知り合いと間違えて声を掛けてきてたのですね。
「私を呼んでらしたのですか? 私の名は、ネーキミーじゃありませんわよ。どなたかとお間違えでは?」
「いや、俺は、さっきから君に話しかけてたんだけど」
「ですから、私はネーキミーさんという方ではございません。
今は入学式の最中なのですから、静かにしてくださいませ」
赤茶の髪の人は、目を大きく見開いて、両手で口を押さえるようにしてうつむきました。
よかった、わかってくれたようです。
ようやく静かになったので、私はこれからの生活に思いを馳せました。
長い入学式がようやく終わり、私はお兄様との待ち合わせ場所である式場の入口脇に出ました。
私がお兄様を待っていると、背後から声を掛けられました。
「ねえ君、今日、夕食を一緒にどうかな?」
先程の赤茶色の髪の人です。
まだいたんですか。
「あの、ですから、私はネーキミーさんではありません。人違いですわ」
「またまた、とぼけないでよ。俺、アイン。ね、夕飯食べに行こ?」
困りました。
こんなところをお兄様が見たら、心配されてしまいます。
「私、今、人を待っておりますので」
「そうそう、君、しつこい男は嫌われるよ」
突然、脇から声を掛けられてそちらを見ると、ちょっと癖のある黒髪の上級生らしき男の人でした。
「先約があるって断ってる女の子に食い下がるのは、みっともないと思うけどね」
黒髪の人は笑っていますが、目が笑っていません。
早く立ち去れという威圧感が込められています。
アインと名乗った赤茶の髪の人は、気圧されたのか、笑顔が凍り付きました。
「じゃ、じゃあ、明日、夕飯を食べに行こう。放課後、昇降口の前で待ってて」
ひきつった笑顔で言い残したアインさんは、逃げるように立ち去りました。
明日とか言われても困るんですが…私は了承していませんから、待っていなくても問題ありませんよね。
それよりも。
「ありがとうございました。助かりました」
「いやあ、気にしなくていいよ。
騎士たるもの、困っている女性には手をさしのべないとね。
…ところで君、もしかしてローズマリー嬢じゃない? オルガの妹さんの」
え? お兄様のお知り合い?
「兄をご存じなのですか?」
「ああ、俺はオルガの友人で、ジーン・ニールセンという。
2つ下の妹さんが入学してくるって話は聞いてたよ。
もしかして、オルガを待ってる?」
「はい。申し遅れました。オルガ・ジェラードの妹の、ローズマリー・ジェラードと申します」
「オルガが来るまで、虫除けしていようか。俺は、オルガとは剣術の講義が一緒でね。
あいつが可愛がっている妹さんに会えて嬉しいよ。あいつが自慢するのもよくわかる」
お兄様、私のお話なんか、学院でするのかしら?
まあ、社交辞令よね。
「ありがとうございます。お上手でらっしゃいますのね」
「いやあ、お世辞を言ってるわけではないんだが…。
お、オルガが来たようだよ」
ニールセンさんが向いた方を見ると、お兄様が駆けてくるのが見えました。
「やあ、マリー。遅くなってすまなかったね。
ジーン? どうして妹と?」
どうやらニールセンさんは、お兄様と気安い仲のようです。
「お兄様、ニールセン様には、先程助けていただいたのです。
私をどなたかと人違いなさってしつこく声を掛けてきていた方を、遠ざけてくださいました」
「人違い?」
「ん? ああ、妹さんを誰かと間違えてしつこく夕食に誘ってくる新入生がいてね。
軽く睨んで、追い払った」
「そうか、それは手間を掛けさせたね。
それじゃあ、せっかくだから、君も一緒に夕食をどうだい?」
「久しぶりの兄妹の再会だろう? 俺が一緒で邪魔にならないか?」
こうなると、ニールセン様をお誘いしないわけにもいきませんね。
ミルティを誘えないのは残念ですが、ここはきちんとお礼をしておきましょう。
「邪魔だなんて、そんなことは。ぜひご一緒に。
学院での兄のお話をお聞かせいただけませんか」
「いいのかい?」
「ああ、マリーもこう言ってることだし、君もおいでよ」
ニールセン様がお兄様に確認すると、お兄様も頷き、私達は3人で夕食を摂ることになりました。
「まあ、ニールセン侯爵家のご次男なのですか」
「そう。どうせ、領地は兄が継ぐし、幸い俺は剣の腕はそれなりだから、騎士を目指してるんだ」
「ジーンはね、僕と違って剣はトップクラスの腕なんだよ」
「おいおい、嫌味か? 頭の方は大したことないって言ってるようなもんだぞ、そりゃあ。
まあ、飛び級するような天才と比べられたら、誰だって大したことないんだろうけどな」
和やかな夕食が終わり、私はお兄様とニールセン様に女子寮まで送っていただきました。
おばあちゃまの伝説のようなことになると困るので、おやすみのキスはなしです。
寮の部屋は、ドアを入って正面に私室、右に寝室、左にバス・トイレがついています。
二部屋ずつ左右対称なので、両隣の部屋は、右にバス・トイレです。
水回りを集めるのと、私室以外は寮の清掃人が入れるようにとのことで、こういう造りになっているんだと、おばあちゃまが言っていました。
寮に入ってから自分1人で生活できるようにと、色々練習してきましたが、制服があって本当に良かったです。
ちょっとしたドレスだと、もう1人では脱ぎ着できませんから。
翌日、早速講義です。
1限目は、簿学。得意な科目です。私は領地を継がないので、必要はないのですが。
講義室は自由席なので、私は、前から3列目の窓際の席に座りました。
春の日差しが暖かくて、家の温室を思い出します。
「隣、よろしいでしょうか」
声を掛けられて、ふと右を見ると、女の子が立っていました。
「ええ、どうぞ」
答えると、その子は、私の隣に座りました。
波打つプラチナブロンドの髪に水色の瞳の、私と同じツリ目な人です。
男の人が隣になるより気が楽ですが、他にも席は空いてるのに、どうして私の隣に来たのでしょう。
「貴族の方ですよね。私、平民なんですけど、隣にいると気に障りますか?」
突然、妙なことを言われてしまいました。
私が気に障るって答えたら、どうするつもりなんでしょう。
「別に、気にしません。この学院は、色々な身分の方が集まるところですから。
最低限の礼儀だけわきまえていらっしゃれば、問題はないと思います」
当たり障りのない言い方をすると、彼女はホッとしたような顔で
「よかった。なんか、周りはみんなぴりぴりしていて、近寄りにくくて。
ここだけ、なんだかほんわかしてたんです」
と言いました。
私がボーっとしているということでしょうか。
「威圧感もないし、なんだか声を掛けやすかったんですよ。
あたし、ネイクミット・ティーバといいます。
平民で、親は、テヅルの町で雑貨商やってます。
小さい頃は王都に住んでたんですけど、親が独立して店を出した時に引っ越して、王都に来るのは5年ぶりです」
「私は、ローズマリー・ジェラードと申します」
ティーバさんは平民だっていうので、爵位は言わないことにしました。
…ネイクミット? どこかで聞いたような…
「不躾なことを聞くようですが、アインという名に聞き覚えは?」
「アイン!? その方って、髪が赤茶で目が灰色の!?」
「やっぱり、あなたの知り合いなのですね?」
「親が王都で商会勤めをしていた頃に、ちょっと。
なんで、ジェラード様が坊ちゃまを?」
髪の色も目の色も同じだから、もしかしてって思ったけど、ネーキミーって、ネイクミットさんのことだったのね。
「昨日、入学式で、あなたと間違えた方に声を掛けられました。
随分と親しげでしたが、そうですか、5年ぶりの再会なのですね。
実は、そのアインさんは、今日の放課後、昇降口の前で待っていると仰っていたのですが、私は誰と間違えられたのかわからず困っていたのです。
彼は、あなたのことをネイクミットと呼び捨てでしたか?」
「え? ええ、なにしろあちらは貴族のお坊ちゃまだし…」
「よかった。胸のつかえが取れました。
では、昇降口で彼を待っていてあげてください。
夕食をご一緒したいと仰っていましたから」
「坊ちゃまが…あたしを…」
やっぱり人違いだったのですね。
5年ぶりだと、後ろ姿で私と見間違えても仕方ないのかしら。
随分馴れ馴れしい方だと思いましたが、ネイクミットさんのこの様子からすると、かなり親しかったようですし。
貴族が平民の女の子に対してなら、あんな物言いになるのでしょうか。
その日、私は、社交術と歴史の講義を受けました。
ネイクミットさんと一緒だったのは、簿学だけでしたので、その後彼女がどうしたのかは知りませんが、2日後の簿学の時間に、ネイクミットさんからお礼を言われましたから、きっと楽しい時間を過ごせたのでしょう。
この王国の言葉は日本語ではありませんが、ネイクミットの名前は、この国の言葉で「ねえ君」に相当するものなのだと補完していただけると助かります。