裏5-1 未来への布石(カトレア視点)
今回は、王都のお祖母様ことカトレア視点です。
旦那様が研究所長を勇退し、爵位も息子に譲ったことで自由な時間が増えた私達は、念願を果たすべくセリィを訪ねてきました。
私達の念願、それは、ドロシーの娘であるローズマリーの日常生活を見ること。
マリーは、年に数回は王都の私達の屋敷を訪ねてきますが、それはあくまで余所行きの姿。
あの子が普段、どのように過ごしているのか、この目で見たかったのです。
セリィやマリーの日常については、ジェラード侯爵領に張り付けている護衛や影から、定期的に報告が入ってきます。
しかし、やはり自分の目で見て、直接話を聞きたいのです。
それは、私だけでなく、旦那様も同じ思いでした。
マリーは、一見すれば、無邪気な10歳の少女です。
いえ、実際、年齢より若干大人びているものの、私達を前に嬉しそうにしている姿からは、その本質は掴めないでしょう。
マリーの本質…底知れぬ才能の宝庫は。
在外研究員であるセリィの研究は、ジェラード侯爵領内に王城の出資で作った温室で行われています。
ここには、研究所所属の作業員と、情報統制のための護衛兼諜報員が派遣されています。
研究の秘密と、何よりセリィを守るために。
セリィは、現在、我が王国における最重要人物です。
彼女が生み出す新種の作物は、王国の国力を大きく上げてきました。
もはや研究所は、国策として欠くことのできないものです。
研究所では、セリィに続く優秀な研究員を手に入れるために、学院で植物学を好成績で修めた院生を何人も迎え入れています。
その中には、植物学で飛び級した者もいました。
けれど、それでも成果は挙がりません。
相変わらず、新しい作物はセリィの温室から生まれるのです。
私には、私だけには、その理由がわかっています。
セリィは、この世界の人間でありながら、遺伝子というものを理解しているのです。
この世界にはない、遺伝や遺伝子という概念をセリィは独力で発見し、それを利用した品種改良という発想に繋げたのです。
品種改良という発想自体は、旦那様も持っていましたが、旦那様は、セリィから説明を受けても、遺伝子というものは理解できませんでした。
旦那様は、色々な色彩の薔薇を作るべく幼い頃から研究をして、周囲から変わり者として扱われてきました。
あの人の理解者は、婚約者である私ただ1人。
私は、前世の記憶を取り戻す前から、旦那様を愛し、この方を支えることに喜びを感じていました。
そして、学院入学と共に甦った前世の記憶。
この世界が、私が前世でやり込んだ乙女ゲームの世界であり、私が悪役令嬢という役割であるという記憶は、私を多少混乱させましたが、それ自体は大した問題ではありませんでした。
私が幼い頃から旦那様を愛していたという事実は、変わらないからです。
重要なのは、セリィに旦那様を奪われずに私が旦那様と結婚する、その一点だけ。
ゲームのヒロインであるセリィが転生者でなく、自らの婚約者を愛している普通の令嬢だったことで、随分気が楽になりました。
残念ながら、私の前世の記憶の中には、遺伝子に関するものはほとんどなかったため、旦那様の研究をお手伝いすることはできません。
私にできるのは、研究以外頭になく腹芸のできない旦那様を、そちらの面から支えることだけ。
それでも、旦那様の理想を共有できるセリィという研究仲間を得たことで、旦那様は元気づけられました。
私は、旦那様がセリィに惹かれるのを防ぐためもあって、その成績で周囲の妬みを買っていたセリィを守って、行動を共にすることが多くなりました。
一緒に過ごせば過ごすほど、セリィの素晴らしさがわかります。
彼女は、その気にさえなれば、私など足元にも及ばないほどの策略家になれるのに、敢えてそうせず、私や旦那様に常に誠実に相対してくれました。
そのくせ、私が旦那様のために研究成果を譲ってほしいと匂わせれば、すかさず乗ってきて、自分が損しないための条件を提示してきます。
彼女が作った最初の作物であるアライモを旦那様との共同研究にしてもらった時、彼女はジェラード侯爵領での栽培権を要求してきました。
ほんの一言の間に、旦那様の名で発表することで得られるメリット──セリィが狙われなくなる──を計算し、唯一の難点となる栽培権の問題を条件としてきたのです。
それまで彼女が全く見せなかった狡猾さでした。
彼女は、その後も私達に対して誠実であり続けました。
ドロシーがノアと結婚したいと言い出した時は驚きましたが、こちらから特に政略を求めるべき家もない、むしろ我が家と縁を結んで利権を得ようという家が多いことを考えれば、セリィと縁続きになるのは好ましい話でした。
幸い、ノアもドロシーを愛してくれて、孫にも恵まれました。
それだけでも、私は十分に幸せだったと言えるでしょう。
ドロシーから、マリーの才能を見抜いたセリィが教育を買って出たと連絡を受けた時の驚きと喜びときたら…。
ドロシーもガーベラスも、残念ながら旦那様の才能は受け継ぎませんでした。
ノアもまた、植物学の才能はありません。
けれど、マリーには才能がありました。
もしも、マリーがセリィの知識と経験を吸収できたなら、研究所を継いでもらえるかもしれません。
私の心は、浮き立ちました。
そして、同時に不安もありました。
マリーは、間違いなく、様々な欲望の標的になります。
王家の血を引き、不世出の才媛の血を引く上、将来を嘱望される才能の持ち主。
もし、ガーベラスに息子がいたなら、仮でも何でもいいから婚約させ、我が家の庇護の下に置いたでしょう。
セリィから、マリーに護身術の指導者を派遣してほしいと言われた時、私は陛下にお願いして、王家の暗部を取り仕切るキドー・ベルモット伯爵を遣わしました。
きっとあの子は、そうでもしないと守りきれないから。
今日、セリィの温室で、当たり前のように研究を説明するマリーを見ました。
この子は、遺伝子を理解している…そう感じました。
「因子って、<遺伝子>なのかしら」
日本語で「遺伝子」と言ってみた私の言葉を、マリーは聞き取れませんでした。
昔、セリィを試した時と同じ反応、マリーもまた転生者ではありません。
では、ゼロから遺伝子を理解したということなのでしょうか。
それなら、少なくともセリィの知識を受け継ぐだけの素養があるということです。
惜しい。あと5年あれば…。
「いかがでしたか、マリーは?」
セリィと2人きりになると、そう問われました。
やはり、気付いていますね。
「素晴らしい才能ですわね。
算術や簿学も優秀で、ダンスも護身術もそつなくこなせるなど、信じられないほどの才能です。
ベルモット伯爵から報告を受けてはいましたが、一見逃げているだけに見せて、全て受け流すなど、先に言われていなければわかりませんでした。
相手をしている少年は、若手で一番の有望株だそうですわよ」
「それほどの…。
ありがとうございます。そんな優秀な方を派遣していただいて。
お気付きでしょうが、マリーは何事によらず、興味を持ったことは驚異的な早さで修得します。
嬉しいことに、植物学には、特に興味を持っています。
きっと、私以上の成果を挙げるでしょう」
「そうあってくれると嬉しいですわね」
「殿下は…、大分お悪いのですか?」
マリーといい、セリィといい、本当に鋭いですわね。
「どこが悪い、というわけではないのだけど、ずっと体調が優れないのです。
できれば、マリーの卒業を待って、2代目所長として迎えたかったのですけれど、医師からは、恐らくそこまで持たないだろうと言われています」
「だから、ガーベラス様を…」
「次善として、そうするしかありませんでした。
研究所を、政争の場にするわけにはいきません。
旦那様の聖地ですから。
陛下もそうあることを望んでくださっています。
セリィ、本当によくマリーの才能を見出してくれました。
マリーには、ミルティの夫となる人を3代目にと言いましたが、マリーが3代目になり、ミルティかその夫が支えに入るのが理想的でしょう。
研究所には、世俗的な野心を持ち込まれないようにしなければ」
「カトレア様は、本当にお変わりありませんね。
マリーを守ってあげてください。
きっと、それに見合う以上の成果を返してくれますわ」
「何かあれば私を頼るよう、伝えてちょうだい。
あの子の才能を守ることは、きっと旦那様の生きる支えになるでしょうから」
「マリーが学院に入るまで、あと2年。
その間に、できるだけ多くのことを教えたいと思っています」
「相変わらず、セリィは王都に出てきてくれる気はないのね」
「ええ。
ヴァニィのいるところが私の居場所ですから。
申し訳ありませんが、そこを外すと、私は立っていられなくなってしまいます」
「残念ですが、やむを得ません。
今のままでも、マリーは十分、二段飛び級できる力があるのでしょう?
マリーが研究所に入ってくれるまでは、なんとか守れるようにしたつもりです。
安心してマリーを学院にお寄越しなさい」
「マリーは植物学に興味を持っていますから、放っておいても研究者への道を進むことになると思います。
自分の興味に忠実ですから、興味の有無が成果に直結するでしょう。
強制したら、逆効果になるタイプです。
カトレア様なら心配ありませんが、他の方に横槍を入れられないよう、お気を付けください」
「そうしますわ。
あの子は、国の宝ですもの。
気持ちよく研究をしてもらわなくてはね。
楽しく研究すればそれだけ成果が挙がるなんて、他の研究者が聞いたら大変ね」
「ええ。
羨まれるならいいですが、恨まれることもありますから。
でも、あの子には、そういうところは気にしないでほしいのです」
「研究にせよ、結婚にせよ、あの子の好きなように動いてもらった方がいいということですわね。
セリィの言うとおりにしましょう」
その夜。
私は、あてがわれた客室で、旦那様と語らいました。
「マリーは、素晴らしい才能の持ち主だ。
研究を説明する時のよどみのなさ、きちんと意味を理解して手伝っているのがよくわかる。
学院でどこまで才能を伸ばすのか、楽しみだよ。
私は、あの子の行く末を見届けたい。
そのためには、長生きしなければな」
「ええ、そうですわね」
「マリーは、夫人と一緒に研究するのが楽しいようだ。
できれば、2人で王都に来てもらいたいものだが」
「セリィは、ここから離れないでしょう」
「実に残念だ。
2人が揃って王都に来てくれたら、さぞかし素晴らしい成果を挙げるだろうに」
「マリーが、セリィから離れたくないから王都には住まないなんて言ったら、あなたは落ち込みそうですわね」
「そんなことになったら、王国の損失だ」
「大丈夫ですわよ。
ここでだって、セリィはちゃんと成果を挙げていますもの」
「それでも、私は2人に王都で研究してほしい。
護衛の面でも、機密保持の面でも、王都の方が数段上だ。
私の最後の夢だよ、カトレア」
「あなた。軽々しく最後などと仰るものではありませんわ」
そう言いつつ、旦那様がマリーの卒業を見ることはないのだと、私の心は沈んでいました。
王都で研究するマリーと、研究談義をする旦那様。
そんな光景が見られたら、きっと幸せですのに。
ローズマリーは、転生者ではありません。
カトレアは、本シリーズ唯一の、前世の記憶持ち転生者です。
セリィも転生者ですが、前世の記憶をほとんど持たず、この世界がゲーム世界であることも知りません。
前作において、セリィは「この世界は乙女ゲームの世界で、自分は悪役令嬢なのではないか」と思っていましたが、結果的に何もなかったことから、気のせいですませてしまいました。
カトレアは、セリィが転生者でサイサリス攻略を狙ってくることを恐れ、知り合った頃に、さりげなく日本語で話しかけてみました。
セリィの持つ前世の記憶は、理系のものを中心にごく僅かしかなく、日本語を理解できなかったことから、カトレアはセリィが転生者ではないと結論づけました。
つまり、セリィは、前世の記憶として遺伝を理解しており、それをマリーに教え込もうとしているのです。
サイサリスが遺伝子を理解できなかったのは、やはりそういった概念がなかったからでした。
マリーがセリィの教えを理解できるのは、純粋にマリーのスペックの高さによります。